Scene6
翌日、約束通り『彼』は御守探偵事務所にやって来た。
「周防藤です。どうぞよろしくお願いします――御守夜子さん」
応接室の扉を開け入ってきた青年――藤は自らの名を告げると丁寧に一礼した。その動きに淀みは無く、人に礼を尽くすことに慣れている者の仕草だった。
「御守夜子です。こちらこそよろしくお願いします」
ソファから立ち上がり、夜子もぺこりと頭を下げる。そしてゆっくり顔を上げ――礼儀正しい来訪者の顔を見た。
「…………」
整った顔だ。
目や鼻や口など、すべてのパーツの配置がびっくりするほど均等である。
派手な顔つきではないが、細く釣り上がった目、筋の通った小ぶりの鼻、キュッと口角の上がった唇――いわゆる狐顔という顔だろうか――は、彼の纏う雰囲気によく似合っていて、ひとつの存在として完成されていた。
こざっぱりとしたシャツとズボンが嫌味なく似合うのはもはや才能だ。
藤は《異形の者》なのだから、これは借り物の顔だろうが、そうは感じさせないほどよく馴染んでいた。
「顔、気になりますか?」
夜子の視線に気づいたのだろう。藤はクスリと笑った。
「え?」
「これ、実は僕の本性なんですよ。僕ねぇ、いわゆる妖狐ってやつなんです。ほら、狐っぽい顔でしょう?」
藤は自身の顔を指差し言う。夜子は少し驚き、「そうなんですか」と目を軽く開いた。
本性のままこの世界で過ごせる《異形の者》は少ない。それは本性をこの世界の空気に晒したままだと、極端に消耗してしまうからなのだが――藤は、本性のままこの世で生きていけるというのか。
それもこんな、人となんら違いの無い姿で――。
(稀にそういう異形がいると本で読んだことはありますが……)
まさか本当に存在するとは思いもしなかった。そして夜子は――恐怖した。
(つまり私達《探偵》が藤さんを攻撃したら……。《武器》は反応するけど、見た目に変化は無いってことですよね……)
夜子は自分の拳が、藤を殴り飛ばす場面を思い浮かべた。
するとどうなるだろう。まず《探偵》は《武器》の反応と見た目の変化で、攻撃した対象が《異形の者》であると判断する。《探偵》の用いる《武器》は人間にはなんの攻撃も与えることができないから、《武器》が反応さえすれば確実だ――と《探偵》基本的に考えている。
だがどうだ。《武器》は反応しているのに、殴った相手の外見になんの変化も起こらなければ――もしや自分は、ただの人間を攻撃してしまったのではないか、と困惑することになるのではないか。
《探偵》の持つ《武器》は、強大な力を持つ《異形の者》に対抗できるように作られている。そんな《武器》を生身の人間相手に使ってしまったかもしれないとなれば――精神的にくるものがありそうだ。
「でもお嬢さん、ご心配には及びませんよ」
藤はキュッと口角を引き上げる。
「この顔はねぇ、僕の本性をベースに作った人間らしいガワなだけなんです。だからお嬢さんが《武器》で僕をつつけば、ちゃあんと今とは違う姿が出てきますよ。どうぞご安心を」
藤はにやけ顔で言うと、両手を頭の上からひょこりと出した。妖狐だと話していたから、恐らく狐耳を表現しているつもりなんだろう。
「そう、なんですね……。そんな《異形の者》がいるなんて私、本でしか――」
そこまで言って、夜子は「しまった」と思った。《異形の者》の体や能力についてはデリケートな問題なのだ。もしや藤は、探偵事務所で働かなければいけないからと、本当は話したくないのに、話さなければならないと思ってしまったのではないか。もしそうだとしたら――本人にそんな気は無かったが、そういう空気を醸し出していたであろう夜子に責任がある。
「あの……私、言い辛いことを言わせてしまって……」
夜子が眉根を寄せて言うと、藤はきょとん、と目を丸くさせ――笑った。
「いえいえ! 何をおっしゃるんですか、お嬢さん! あはは、僕がいきなりペラペラ喋るもんだからお気を遣わせてしまいましたねぇ。僕はただ、いつも人に訊かれることを先んじて喋っただけなんですよぉ。いやはや、《異形の者》相手の話ってどうしてもセンシティブになりがちですもんねぇ。お嬢さん、どうぞお気になさらないでください」
藤は身振り手振りを交え一気にまくし立てる。
夜子はその勢いに押され――丸い目をぱちくりと瞬かせると、「はぁ」と気の抜けた息を吐いた。わずかばかりではあるが、深刻なことを考えていた自分のほうが、なんだかおかしく思えてくる。
「……ええと……、それでは早速ですがお手伝いの件についてご相談させていただきたいのですが」
どうぞお座りください、と夜子がソファへ座るよう促すと、「わぁ、ありがとうございます」と藤は軽やかな動きで腰を下ろす。
――と、同時に、「失礼します」と扉の向こうから声がかかった。
「どうぞ」
夜子が中に入るよう言うと、控えめな音を立て扉が開く。
「お茶を持ってきました」
開いた扉の先には、ふんわりと笑みを浮かべている鈴切が立っていた。鈴切は慣れた仕草で紅茶を配膳すると、藤に向かって一礼し、するりと夜子のうしろへと移動した。
「彼は鈴切佐助。うちの助手です」
「鈴切と申します。えと、夜子ちゃ……さん達のお手伝いをしています」
「どうも。周防藤です」
軽く会釈をした藤は、下から舐めるように鈴切を見上げた。
「さすがお嬢さんの助手ですねぇ。とても腕が立ちそうだ」
「そ、そんな……! 無駄に体がでかいだけですので……!」
ふたりの挨拶を横目で見ながら、夜子は紅茶に口をつける。
(美味しい)
筋肉に覆われた巨躯からは想像がつかないが、鈴切は飲み物にこだわりがあり――やれどこそこの紅茶専門店で買った茶葉だの、わざわざ遠出して手に入れたコーヒー豆だのを場面や人に合わせて出すのが好きだった。夜子などは飲めればなんでもいいというような、どちらかといえば無粋な類だが鈴切は違う。
今飲んでいる紅茶も、夜子には銘柄などわからない。けれども――。
(薫り高くて品のいい味)
さすがに日常的に飲んでいるものとは一味違うことくらいはわかる。きっと初対面の客のために、いい茶葉を選んでくれたのではないだろと、夜子はなんとなしに思った。
「それでは改めて。お話を進めていきたいのですが、よろしいですか?」
一通りのやり取りが済んだ頃を見計らい夜子が訊くと、藤は「はい」と頷いた。
「どうぞどうぞ」
「それでは――。まず、藤さんは常に私と一緒に行動してもらうことになります。基本的には捜査中の私の護衛……というか、周りに気を配っていただけたらと。何か気になることや、おかしな動きをしている人がいたら逐一報告してもらう、といった感じですね。――藤さんは《探偵》資格をお持ちではありませんし、助手の経験も無いんですよね? 申し訳ないのですが、いくら本家からのご紹介とはいえ、あなたはあくまで一般人。お願いできることも限られてくるんです。私の指示には必ず従うようお願いします」
「ええ、ええ。承知の上ですよ。お嬢さんのお手伝いをできるなら、お茶汲みでも電話番でも肉の盾でもなんでもやりましょう」
藤はそうあっけらかんと言ってのけた。
(――そういうもの……なんですかね……?)
なんだか、肩透かしを食らったような気分だった。
いや、別にいいのだ。あれをやりたいこれをやりたいと頑固に言い張られるよりは。
(本家は、何を考えて藤さんをうちに……? ううん、私が考えすぎなんでしょうか……)
夜子には御守本家が善意で藤を送ってきたとは考えられなかった。十数年もこちらとコンタクトを取らなかったような人間達なのだ。彼らが今更こちらに連絡を寄越してくるのは、何か理由があるはずだとそう思っていた。
だからこの藤の従順な態度は――解せない。
(それも作戦のうち? あいにくこのあいだの訪問では、本家の考えていることについて、何の収穫も得られませんでしたけど……)
当面は藤の行動には注意たほうがよさそうだ。
「……それでは、こちらで少々お待ちいただいてもよろしいですか? この件は兄と一緒に捜査にあたっておりますので、ぜひ兄ともお会いしていただきたいんです」
「もちろん! こちらこそお嬢さんのお兄様ともお会いしたいなぁって思っていたんですよ」
藤は顔に貼りついた笑みの形を崩さず言う。夜子はこれに、「そうなんですか」と短く返し――ふと、あることを聞きたくなった。
「あの、藤さん」
「はいはい、なんでしょう?」
「さっきから私のことを『お嬢さん』って呼んでいますけど……。それ、止めていただけますか?」
夜子は眉を下げ言った。藤の見た目は――《異形の者》の実年齢は外見だけでは判断できないが――自分とそう変わらないし、「お嬢さん」なんて呼ばれると、子供扱いされているようでなんだか嫌だった。
「なぜです?」
藤は細い目をわずかに見開く。
「お嬢さんはお嬢さんじゃないですか」
「私と藤さんはそう年が変わらないように見えます。もしあなたが私より年が上なのだとしてもですね――」
夜子がそこまで言うと、怪訝そうな顔をしていた藤が「ああ!」と声を上げた。
「違います違います! 僕はお嬢さんのことを下に見ているわけじゃないですよぉ! いやだなぁ、『イヤミ』かと思いました? ――なーんだ、お嬢さんはそれを気にしてたんですねぇ」
藤は目をキュウと弓なりにさせ、「だってねぇ」と薄い唇から言葉を漏らす。
「お嬢さんはうちの奥様のご親戚じゃないですか。だったらお嬢さんって呼ぶのが筋ですよぉ。奥様のご親戚を蔑ろになんてできないですからね。それに、僕はご本家の日佐志さんのことを『ご当主さん』って呼んでますし、日登美さんなんて僕よりだーいぶ年上ですけど、『坊ちゃん』ってお呼びしてますよ」
それと同じなんですよぉ――と藤は笑った。だから怒るな、ということか。
(……理由はわかりましたが……)
なんだかむず痒いが、そう呼びたいなら好きにすればいい。そういう細かいところに頓着しないのは夜子の長所である。
「ところで藤さん」
「はい、なんでしょう?」
夜子は深い藍色の瞳で藤を見つめ言った。
「『奥様』、というのは……」
確か日佐志の妻は亡くなっているはず。故人の話を今出すのは不自然だし、ならば――。
「あなたは、お母様のことを『奥様』と?」
訊かれた藤は口をぽかりと開け――ふふ、と息を漏らした。
「ええ。奥様と旦那様――僕の父ですね、このおふたりは今の僕にとってはお仕えすべきお方なのですよ。――ううん、なんというかですねぇ……」
藤は顎を軽くさすった。
「僕が子供の頃――僕は異形ですから、その表現が正しいのかはわかりませんけど。まぁ小さかった頃、と言っておきましょうか。その頃は『お父さん』『お母さん』とお呼びしていましたよ。でも物事の分別がつくようになった頃からは『旦那様』『奥様』と」
「家族なのに、ですか?」
夜子は小首を傾げた。さらり、と横髪が一房肩に落ちる。
「ええ、ええ。旦那様、奥様は僕を拾って育ててくれた恩人ですから。確かに親でもありますが……区別をつけたかったんです、僕は」
そう話す藤の表情は、さっきからずっと変わらない。笑顔で固定されている。
「ただ――」
藤の周囲の空気がかすかに変わる。くすり、と漏らした笑みには静かな圧があった。
「親のことを『お父さん』『お母さん』と呼ばないのは、お嬢さんも同じでしょう?」
「……ご存じなんですね」
夜子が大きな眼をわずかに細めると、藤は無言で頷いた。――どうやらこの青年は、夜子のことをきっちり調べ上げているらしい。
「お嫌でしたか?」
藤は眉根を寄せ首を傾げる。
「いえ、別に隠してはいませんから気にはしません」
「それはよかった」
藤はにんまりと笑った。その笑みはどこか不自然で――これまで完璧な笑顔を見せ続けていただけに違和感しかない。
「……兄を呼んできます」
そう言って席を立つと、これまでずっと黙って控えていた鈴切が、スッと夜子の前に腕を伸ばした。
「僕が」
そしてそのまま扉に向かい、男は一礼して部屋を出て行く。
(……何もそんな逃げるように出て行かなくてもいいでしょうに)
軽く肩を竦め、夜子は温くなった紅茶に口をつける。
(――ま、鈴切の気持ちも、わからなくないですが)
「――……」
今この瞬間も送られ続けている、藤のべったりとした視線にはどうも居心地が悪くなる。主に話をしていたのは――藤から視線を向けられていたのは――夜子だが、鈴切も何か感じ取ったのだろう。
「…………」
「…………」
会話をしている時はそこまで気にならなかったが、話が途絶えてしまうと、まとわりつく視線が少し――うっとうしい。
「このたびは」
「え?」
沈黙を破ったのは藤だった。
「このたびは大変だったでしょう? ご本家に行かれたんですよねぇ?」
その話か――。夜子は頷きをひとつ返した。
「今までご連絡いただいたこともありませんでしたし、こちらから本家のほうに連絡をしたこともありませんでしたからね。もしかしたら先生は季節の挨拶くらいはしていたかもしれませんが……。そうだとしても、私はやり取りの有無を全く知りませんでした」
夜子は少しだけ神妙な顔を作ってみせる。
「だから明美さんが――藤さんのお母様が私を推薦してくださったことも、藤さんをわざわざ派遣してくださったことも――正直理由がわかりません」
「理由……」
藤はそう呟くと、ううんと首を捻った――が、すぐにハッとしたように眉を上げる。得心がいったのだろう、「なるほどなぁ」と手を打った。
「どうかしました?」
「いえね、なんだか妙に話が噛みあわないなぁと思っていたんですよ。ああ、それでかぁ」
くつりと藤は笑う。
「実はご当主さんはね、お嬢さんと縁を持ちたかったんですよ」
自分と縁を――?
それこそ意味がわからない。――が、とりあえず黙って話を聞くことにした。
「ちょうどその時ね、奥様はお付き合いのある深田さんから相談を受けていたんです。――はい、そうです。真帆さんのことですねぇ。で、そういえば分家の夕さんは《探偵》をしていたなと。そして確か娘さんであるお嬢さんも同じ仕事をしてらっしゃったわと、奥様が思い出したそうで……」
――なんだ、それは。
夜子は深く息を吐く。
「……なるほど。お知り合いに紹介もできるし、本家と私の縁も繋がって一石二鳥――と?」
「はい、まさに。――まぁでもね? お嬢さんだけに投げるのもどうかと思うって奥様が仰ってですね、僕が寄越されることになったんですよ。素人ですので《探偵》仕事はできないこともたくさんあるでしょうけど、《異形の者》だから任せられることもあるだろうと」
「明美さんはそれでよろしいんですか? もしかしたら藤さん、危険な目に合うかもしれませんよ。もちろん、私も注意はしますけど……。仕事柄危険は常に隣り合わせです」
「当然奥様も旦那様もそこは理解していますよぉ。自分で言うのもなんですけどね、僕は信頼されてるんです。だからお嬢さんはそんなお気を遣わずに」
言って藤ははにかんだ笑みを浮かべた。
(へぇ……)
これまで調子がよく、どこか言葉が薄っぺらい印象が藤にはあったが、その笑みは年相応のもので――少しだけ、彼の素が垣間見えたような気がした。
「ありがとうございます」
夜子が表情を和らげると、藤もそれに合わせ目元を緩めた。――だがすぐに、
「でも、お嬢さんも大変ですよねぇ」
と同情するかのように眉根を寄せた。
「大変?」
「ご本家さんとのことですよぉ」
「本家と……?」
夜子は藤の言った意味がわからず、軽く首を唸る。本家を訪ねた時は「面倒だ」と思うことばかりではあったが、夜子からすれば「大変」なことは何も無かった。
藤は何か勘違いしているのではないだろうか。それとも藤のほうが本家に行くたびに大変な思いをしていて――夜子も同じだったのではと気にかけてくれたのだろうか。
「別に、大変ってほどでも無かったです。確かに困ってしまうことはありましたが」
夜子が苦笑い気味に言うと、藤は意外だとでも言いたげな顔をした。
「なんです?」
表情の意味が解せず、少女は青年に尋ねる。
「いや……。お嬢さんって結構気の強い――失礼、毅然とした方なのかなって思ってたので……。ちょっと驚きました」
夜子は小首をちょこんと傾げた。
「いやぁ……。だって――」
藤は言い辛そうに「ええと」などとごまかす。
「……なんですか?」
だが夜子の鋭い視線には耐えられなかったのか、ついにそれを話した。
「……あの、坊ちゃんとのご婚約の話をされたでしょう? 今日実際にお会いして確信しましたけど、お嬢さんってそう言う話を『はいわかりました』って素直に聞き入れるタイプには見えませんもん。絶対一悶着あったんだろうなって思ったんですよぉ」
藤は申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。
夜子はというとあんぐりと口を開き、
「……は?」
それだけを絞り出すのが精いっぱいであった。