Scene5
「……大きなお屋敷だとは聞いていましたが、本当に大きいんですねぇ」
深田真帆の姿をした異形の者をとり逃した翌日。夜子は「御守本家」の玄関前に立っていた。
今日の夜子はいつもの制服姿ではなく、ゆったりとした白いワンピースにダッフルコートを羽織っている。
一見年頃の娘らしい、ごくごく普通の服装だが――実はこれも《探偵》仕事に使われる《装備》だ。
制服と同じく特別な製法で作られており、着用しているあいだは身体能力が著しく強化され、《異形の者》の攻撃にも耐えることができる。
夜子は服に一切頓着が無い。清潔で着心地が良ければ何でもいい。
ならば仕事柄いつ戦闘になるのかわからないのだから――物騒な考え方だ――、服なんてものは夜子の標準《装備》である制服をいつも着用しておくのが一番だ。――と、彼女は思っている。
しかしそうはいかないのが現実だ。
制服姿でいるには違和感のある場所も当然ある。だから服に興味が無くとも、そんな場所で仕事をする時のために、夜子は制服型以外の《装備》を何着か持っていた。今日着ている物はそのなかのひとつだ。
――一応、《装備》ではないただの服も持ってはいる。
けれども夜子が今日の本家訪問に選んだのは《装備》だった。
それは言外に何かあるのではないかと、彼女が本家を訪ねることを警戒していることの表れだった。
ただの一般家庭を訪問するだけなのに、こんなことをする必要はない――と夜子もわかってはいる。
しかし、今回はただ親戚の家に遊びに来ているわけではない。仕事なのだ。《探偵》の正装として《装備》を着用するのは当然だ。
「………………」
――いや。
もしかすると仕事のことは建前かもしれない。
実は心の奥底で、長年自分を放っておいた親戚に会うことに、何かしらの懸念があったのかもしれない。
「さて、行きますか」
だが、夜子の顔からはそんな不安や恐れを読み取ることはできない。
少女はいつもを変わらぬ表情で門扉を見上げた。
◇◆◇
御守本家は、背後に山を背負った大きな家だ。建築様式など詳しくはわからないが、武家屋敷のようだ――と夜子は思った。
「――……」
夜子は大きな門の脇についているインターフォンを押す。
しばらくすると、「はい」とスピーカーから声が聞こえてきた。女の声だった。
「御守夜子と申しますけれども――」
夜子が名乗ると、スピーカーの向こうにいる女は「はい、伺っております」とどこか弾んだ声で答えた。
「すぐお迎えに向かいます」
ブツリと通話が切れた音がしたのを確認し、夜子はふっと肩の力を抜いた。緊張しているつもりはなかったのだが、気負ってはいたのだろう。
――そもそも、夜子は御守本家には来たくなかった。
請け負っている依頼の捜査も進めなければいけないし、学生なのだから学校にも通う必要がある。捜査をしている時の夜子はとにかく多忙だ。本来ならばこんなところに来ている暇は無い。
けれどもどこかから夜子がこの依頼に着手したことを聞きつけ――話したのは依頼主の深田だろう――、「うちにも夜子の手伝いをさせてくれ」と言われてしまうと――無碍にはできなかった。
――いや、夜子は反対したのだ。
見知らぬ他人を――しかも《探偵》でもないのに――捜査に参加させるのはどうなんだと。けれども夕に「それもそうだが、話を聞くだけ聞いてあげなさい」と言われてしまえばもう、夜子は強く反対することができない。
(今日だって、せっかく学校が休みなんだから捜査に専念したかったのに)
それなのにはるばる自宅から一時間近くかけて無駄話――と夜子は思っている――を聞きに行くことになってしまった。
「お待たせいたしました、夜子さん」
夜子が小さく溜め息を吐いた時、門が開いた。
開いた門の先には、和服に割烹着姿の老婆が立っていた。年は山本と同じで、六十を過ぎたくらいだろうか。年齢の割に肌艶がよく、いつも小奇麗にしている山本と比べると、どこか貧相で――そのせいか顔が疲れて見える女だった。
「さぁ、どうぞ。お入りくださいな」
女は夜子と目が合うと、パッと嬉しそうに顔を輝かせ、中へ入るよう促す。
「はい、お邪魔します」
小さく礼をし、夜子は門をくぐる。そして――心の中でほうと息を吐いた。
(――凄い)
門の中、そこには立派な日本庭園が広がっていた。
大きな松の木、橋のかかった広い池、そこを自由に泳ぐ鯉――。
夜子に庭の良し悪しはわからない。けれども単純な美しさくらいはわかる。
(綺麗な庭……)
――だが、気にかかることもあった。
庭の樹木はどことなく荒れていた。よく言えば野趣溢れるといった感じだが――この庭はそのような様を想定して作られていない気がした。夜子には綺麗に整えられた状態こそが、この庭のあるべき姿に思える。
(まぁ庭を綺麗に保つのも、これだけ広さがあれば大変でしょうね……。手間もお金も……)
この庭の主――御守家当主は庭造りには興味が無いのだろうか。それとも。
(お金に困っている?)
庭の手入れなど、生きていくために必要な衣食住のなかでは優先順位が低いほうだろう。
(門の外から出はわかりませんが、中は綻びが出始めている?)
――そこまで考えて、夜子は小さく首を振った。
よその経済状況を無駄に分析しても仕方ない。品がいいとは言えないし、第一知ったところで自分には関係ない話だ。
「こちらです」
ぼんやりと考え事をしているあいだに、足は勝手に玄関に辿り着いていた。
「旦那様、夜子さんをお連れしました」
「お邪魔します」
玄関に入ると、そこには中年の男が立っていた。
「やぁ、いらっしゃい」
ずんぐりむっくりとした男は顔を歪め――そう見えたが、多分笑ったのだろう――、両手を大きく広げた。
夜子はほんの少しだけ愛想笑いを浮かべ、「御守夜子です」と一礼した。――この男が、御守家当主か。
「私が御守日佐志だ。――さ、入りなさい」
男は夜子を見下ろし名乗る。そしてくるりと踵を返し、早足気味に廊下の奥へと消えていった。
「応接間にご案内いたしますわ」
背後に控えていた老婆に言われ、夜子は靴を揃えて家に上がった。
「こちらです」
しっかりと磨かれた板張りの廊下を、老婆の先導のもと歩く。廊下には風景画や人物画などのたくさんの絵画がかけられ、また脈絡なく動物の彫り物や日本人形が飾られていた。日佐志はあまりインテリアには興味がないのだろうか。それらの存在は確かに目を引くが――混沌としており、整えられた美とはかけ離れている。
「お入りください」
主張の強い廊下を渡り夜子が通されたのは、天井の高い洋間だった。
部屋へ入った夜子は軽く頭を下げ、日佐志の向かいに置かれたソファへ腰を下ろす。
「こうして会うのは初めてだなぁ、夜子」
「……はぁ」
日佐志の言葉に、夜子は思わず面食らった。他人からどう呼ばれようが特に気にしない質だが、まさかいきなり呼び捨てにされるとは思わなかったのだ。
しかし日佐志は夜子の驚きを気にもせず――夜子が顔に出さなかったのもあるが――、話を始めた。
「いやはや、前に夕さんがうちに来た時は驚いたよ。日向子叔母さんに娘がいるというのは知っていたが、そのまた娘がいたとは……」
日向子叔母というのは、夜子の祖母のことだ。
「これも何かの縁。我々は親戚だ。これからはより良い付き合いをしていきたいねぇ」
日佐志はそう言うと、脂ぎった顔を光らせ、はっはっはと快活に笑った。
(これまで連絡など一切寄越してこなかったのに……。何をいまさら……)
夜子は日佐志の調子の良さに辟易した――が、向こうはそんなことお構いなしに喋り始める。
自分には三十二歳になる息子がひとりいること。
妻とは十年前に死に別れたこと。
以来息子とふたりでこの屋敷に暮らしていること。
食事や掃除は家政婦に任せているということ。
日佐志は自分のことを語った。
それらはすべて夜子にとって「どうでもいい」内容だったが――これはきっと何かの前振りなのだろうと、夜子は身構えながら話に耳を傾ける。
今の夜子は、敵地に単独で飛び込んだ兵士の心境と同じだった。気を抜けば侮られ――不意を突かれることもあるかもしれない。
「お話し中失礼します」
夜子が適当に相槌を入れていると、先程案内をしてくれた老婆が入ってきた。手に持っている盆には湯飲みと茶菓子が乗せられている。
日佐志は女を顎で指し、「この人はな」と切り出した。
「三村文江さんと言って、うちで長いこと家政婦をやってくれている。昔は日向子さんのお世話もしていたんだよ」
「へぇ……」
夜子はなんとなしに老婆を見上げた。
「…………」
三村は夜子が自分を見ていることに気づくと、嬉しそうな顔で軽く会釈をした。それに夜子も小さく頭を下げ応えたが――その時、ふと頭に疑問が浮かんだ。
――彼女はなぜ、初対面の自分にあんな表情をしてみせたのか。
ただ愛想がいいだけなのかもしれない。だが――三村の笑みには何故だかそれだけではない何かを感じた。
(どうして――……?)
三村は茶の用意が終わると下がってしまった。
「…………」
できることなら、彼女の話を聞いてみたい――と少しだけ思った。
「昔はもっと……、それこそ私が子供の頃は家政婦ももっといたんだがね……。今うちにいる家政婦は三村さんひとりだ。はは、なんせ今は男ふたりしか住んでいないから――」
「あの」
日佐志がどうでもいい話を続けそうだったものだから、夜子は思わず口を挟んだ。 自分はここに、日佐志の思い出話や家庭事情を聞きに来たわけではないのだ。
訪ねた理由――それは単に「仕事の手伝いをしたい」と言われたからで、「御守一族の御守夜子」ではなく、「御守探偵事務所の御守夜子」として、少女はこの場にいる。
「ご連絡いただいていた件についてなんですが」
「ん? ああ……、そのことか」
日佐志はつまらなさそうに眉根を寄せた。まだ話したかったらしい。
「具体的にはどのようにご協力をしていただけるのでしょう? 周防明美さんでしたか、その方のご紹介で深田さんはうちを訪ねてくれたわけですが……。あくまで契約はうちと深田さんのあいだで交わされています。御守のご紹介があったといえど、あまり関係のない方を捜査に加えるわけにもいきません。軽々しく『よろしくお願いします』というわけにはまいりませんので、『協力』というのが具体的に何を指すのかお教えいただきたいのです。ですからお申し出はありがたいのですが、内容次第ではお断りさせていただくこともあるかと思いますことを、初めにお伝えしておきます」
夜子が淡々と用件を告げると、日佐志はこれまたつまらなさそうな顔をした。――この男、どうにも仕事の話に興味が無さそうだ。
「ああ、はいはい。なるほどね」
「それで、どのようにお力を?」
「いやまぁなんというか……」
日佐志は頬を掻きながら、夜子から目を逸らした。
「君の仕事に協力をしたいと言い出したのは、妹の明美なんだが……。明美のことは知っているかい?」
周防明美――。
彼女については実母の従姉妹で、真帆の両親である深田夫妻に御守探偵事務所を紹介した人物――ということしか夜子は知らない。
素直に知りません、と答えると、日佐志は「明美はねぇ」と眉を顰めた。
「私の妹なんだがね、これがまた変わり者で……。病気の男と結婚して家を出てるんだよ。根は優しいんだけど男勝りで頑固で……。あれが結婚すると言い出した時は今は亡き父――日向子さんの兄にあたる人だよ――とも相当説得したんだが……。明美の旦那が貴一というんだが、まぁ悪い男じゃなかったから……。強く止めることもできなかったんだけども」
また始まった――。
夜子は内心うんざりしながら、
「それで、どのようなご協力をしていただけるのでしょう?」
と繰り返す。くだらない話に時間を割かれてはたまらない。
「――ん? ああ……。それでその明美と貴一には息子がいるんだけど、それがね、養子なんだ」
「はい」
だからなんだというのだろう。日佐志の言いたいことが夜子には見えない。
「その養子というのが……」
日佐志は深刻そうな顔を作ると、声のトーンを落とした。
「――実は《異形の者》なんだ」
「はぁ、そうですか」
夜子の返事があまりにも気の抜けたものだったからだろう。
日佐志は面食らったのか、驚きと困惑の混じった顔で「え」と短く呟いた。
恐らく日佐志は、もっと夜子に驚いてほしかったのだろうが――残念ながら彼の期待は外れた。
(今時《異形の者》の養子がいるくらい、珍しい話じゃないですしねぇ)
よくあるとは言わないが、そんな重い顔で言う必要のあることでもない。大体「《異形の者》の養子」なら、夕の子供――つまり夜子の兄姉にもいる。
そのことを知らない日佐志は、「んん?」と、しきりに首を傾げていた。
「それで、ご協力というのは」
これで促すのは三度目だ。
「んん。あー、その《異形の者》の養子というのが「藤」と言うのだがね……。明美はその藤に、夜子の手伝いをさせようと言っているんだ」
ようやく結論に辿り着いた。たったこれだけのことを言うのに、なぜこんなにも遠回りするのだろう。
夜子は溜め息を吐きたいのをぐっと堪え、「なるほど」と呟く。すると日佐志は訳知り顔で頷いた。
「藤は明美達夫婦が養子にしてから今年で十八年。《異形の者》の年齢なんてよくわからんが、一応十八歳として扱っている。夜子とは同年代だ。それに頭も悪くないし気も利くし、《異形の者》らしく体も頑丈で、何やら不思議な力もあるらしい。《探偵》仕事の手伝いにはうってつけだろう?」
「……それはまぁ、助手としてお手伝いいただく分には資格も要りませんし、能力も申し分ないとは思いますが……」
「守秘義務かい? それは問題ないだろう。あれは明美と貴一が言い含めればしっかり言うことを聞く。明美には私から言っておこう。それになに、藤はもとから口の堅い男なんだよ」
言って日佐志は歯を見せて笑った。
「…………」
さて、どうするか――。夜子は一度も口をつけていない湯飲みに目を落とし考える。
業界関係者でもない者に仕事を手伝ってもらうのは抵抗がある。だが正直にいうと、人員が増えるのはありがたい。なんせ今の御守探偵事務所で戦えるのは、夜子と鈴切だけなのだ。琴浦は超がつく運動音痴で、当然戦闘は苦手だし、夕と山本は年のこともあり、今は基本裏方に徹している。
今回の依頼で《排除》が必要になるかはまだわからないが――。念の為を考えておいてもいいだろう。
業界のことを知らない素人に、何がどこまでできるのかという問題はあれど、《異形の者》ならばただの人間よりかは戦闘面では頼りにできるかもしれない。
「明美は夜子のことを気にしているようでねぇぜひ力になりたいって言ってるんだよ。今日だって仕事が無ければ来たかったと話していた。――どうかな?」
この場合力になるのは明美ではなく、その子供の藤じゃないか――とは思ったが、夜子はそれを口にはせず、「そうですねぇ」と呟く。
「では……、一度その藤さんとお話をさせてください。何をお任せできるかなどお話したいので」
「わかった。では藤には夕さんの事務所を訪ねるよう伝えておこう。夜子はいつも事務所にいるんだろう?」
「はい。今なら学校以外の時間は大体」
よしよし、これで話はまとまった――と、日佐志は嬉しそうに頷く。それを見ながら夜子は、彼にばれないよう小さく嘆息した。これでようやく帰ることができる。
「それではお暇させていただきます」
そう言って夜子が立ち上がると、日佐志は「まぁまぁ」と手を差し出す。座れ、ということなのだろう。
「なんでしょう」
夜子は立ち上がったまま訊いた。ここで再び腰かけでもしたら、無駄に話の長いこの男にまた付き合わなくてはいけない――そんな気がしてならなかったのだ。
「いやね、ちょっと紹介を……」
夜子が座らないものだから、日佐志は自分が立ち上がり――チェストの上に飾ってあった写真立てを手に取った。
「紹介?」
ああ、と頷き、日佐志は夜子の隣へと立ち並ぶ。そして、手に持っている写真立てを指差した。
そこには今より少し若い日佐志と――前髪の長い痩せた猫背の少年が写っている。
「息子の日登美だ」
「……はぁ」
「これは日登美が高校生の頃に撮ったんだがね、これがまぁ三十を越えた今も全然老けないんだ。今でも夜子と並んだって、そうおじさんって感じじゃない」
日佐志はニコニコと笑みを浮かべ言った。
「…………はぁ」
夜子は、いい加減うんざりしていた。
この日佐志という男、物事をかなり遠回りで説明する節がある。今の話だってきっと“さわり”でしかない。
(それにこの笑顔――……)
人のいい顔とはどうも言い難い。何やら含みのあるような、ご機嫌取りをしているような妙な気持ち悪さがある。
「それで、なんでしょう?」
思わず口からついて出た言葉がこれだった。愛想が悪いかもしれないと思わなくもないが、もともと夜子は御守本家に好意を持っていたわけじゃない。むしろ「なんなんだこの人は」くらいに感じていたのだ。そしてもはや夜子は――日佐志に愛想よく振る舞う意味を見いだせなかった。
「い、いや、何かというと……」
日佐志はわずかにたじろぐと、「おーい、三村さん」と家政婦を呼んだ。なぜここで三村を呼ぶのか――これまた意味がわからず、夜子は片眉を吊り上げた。
「――はい、なんでしょう」
三村はすぐにやってきた。日佐志はいそいそと三村のもとへ駆け寄ると、「日登美はどうだ」と夜子を気にしながら訊いた。
「はぁ、坊ちゃんはやっぱり、『出たくない』の一点張りで……」
「日登美のやつ……。何度も言って聞かせたというのに……」
日佐志は苦虫を噛み潰したかのような顔をすると、参ったと言わんばかりに頭を振る。そして夜子のほうへ向きなおり、「いやはや申し訳ないな」と眉を八の字にしてみせた。
「夜子には日登美とも会ってもらいたかったんだけどね……。どうにも体調がよくないようで」
「そうなんですか。それは仕方がないですね。お大事になさってください」
抑揚なく、一息で夜子は言った。早く帰りたいのを隠しもしない夜子に日佐志は残念そうに肩を落とす。そして何か言いたげに口を開いたが――引き留める言葉が思いつかなかったのだろう。
「……玄関まで送ろう」
それ以上はもう何も言わなかった。
日佐志は玄関に辿り着くまでの短いあいだ、いかに日登美が繊細な男なのかを語った。夜子の来訪が今日だと知っていたはずだが、気分にムラがあるため会う気になれなかったんだろう、と溜め息を吐く。
「本当にすまない……」
「いえ、お気になさらず」
夜子にしてみればここに来たのは単に仕事のためでしかなかったから、挨拶されようがされまいがどちらでもいい。別に彼らと親交を深めようとは思っていないのだ。
「それじゃあ、藤の件は明美に伝えておく。――また、気軽に遊びに来てくれ」
日佐志は迎え出た時と同じように、下手な笑顔で夜子を見送った。
(……全部電話で済む話じゃないですか)
夜子はじっとりと惜しむような日佐志の視線を背中に感じながら、玄関をあとにした。
◇◆◇
「今日はお越しいただきありがとうございました」
門まで送るといってついてきた三村は、ニコニコと笑みを浮かべながら頭を下げた。
「いえ……私は、別に……」
だが夜子には初対面の――しかも本家に勤める従業員でしかない彼女に、そこまで丁寧に礼を言われる覚えはない。
思わず首を傾げると、三村は静かに笑った。
「うふふ、夜子さんには一度お会いしたいと思っていたのです」
「それはまたなぜ……」
「実は私……。昔、日向子お嬢さんのお世話をさせていただいておりました」
三村はどこか遠い目をした。昔を懐かしんでいるようだ。
「日向子お嬢さんの娘さんには、お会いすることが叶いませんでしたから……。せめてお孫さんである夜子さんには……お会いしたかったのです」
「どうしてです?」
「……日向子お嬢さんには、とてもよくしてもらったんです。お嬢さんにお仕えしたのは、私が御守にお勤めしてすぐのことで……。何もできない、わからない小娘だった私に、お嬢さんは根気よく色々教えてくださったんです。お嬢さんは利発で、私より年下なのにとてもしっかりとした方で……。お嬢さんにお仕えできたのは私の人生の誇りです。――うふふ、お嬢さんがお嫁に行く時だって、できることならついていきたかったくらいですわ」
言って三村は、目元の皺を深くした。
「……夜子さんは、日向子お嬢さんに本当によく似ていらっしゃる。夜子さんがこのお庭にいらっしゃると、なんだか時が巻き戻ったようで……。懐かしいですわ」
そう言うと三村は、微笑の浮かんだ顔で夜子を見つめた。
「…………」
夜子は慈愛に満ちた三村の瞳を見て、ほんの少し――申し訳なく思った。
三村には悪いが御守家はもちろん、母にも、そして祖母にも夜子は強い思い入れが無い。だから似ていると言われても、懐かしいと言われても、どういう感情で受けとめ、どういう表情をすればいいのかわからない。
夜子は曖昧な笑みを顔に貼りつけた。好意を示してくれているのだということはわかる。だから、せめて「そう言われて嫌なわけじゃないんです」と意思表示をしようと思ったのだ。
「…………」
三村は夜子の顔を見て、ほんの少し寂しそうに目を細めた。けれどもすぐに顔に喜色をたたえた。
こうしてみると、最初に持った印象は単に表情の違いでしかないということがわかる。
満面の笑みの今の彼女に、疲れたイメージは無い。
「夜子さん。どうか懲りずに、またお越しになってくださいね」
三村は悪戯っぽく笑うと、小声で言った。
「旦那様もね、面倒なところもあるけど、悪い人じゃないんですよ」
正直なところ、御守本家にまた来たいと今はまだ思えない。けれども三村に会いに行くと思えば――再訪するのも悪くないかもしれない。
(あ……)
ふと振り返った時、もう豆粒ほど小さくなっているはずの夜子のために頭を下げ続けている彼女を見て――そう思った。