Scene3
『《異形の者》の疑いがある娘を、探してくれないか――』
夜子の所属する「御守探偵事務所」にその依頼が来たのは、つい先日のことだった。
この時御守探偵事務所には、ふたりの探偵がいた。
所長であり夜子の養父でもある御守夕と、夜子の義兄、琴浦陽一だ。
しかし養父――夜子は「先生」と呼んでいる――は高齢のため、近頃は自らが直接現場に赴くことはほぼ無く――実質「御守探偵事務所の《探偵》」と呼べるのは琴浦だけだった。
ちなみに御守探偵事務所内では、夜子は《探偵》の数には含まれない。資格こそ持ってはいるが、あくまで夕の助手だというのが彼女のスタンスだ。
そのため御守探偵事務所に仕事が来た時は、まず琴浦が《探偵》として請け負うことになっている。琴浦の手が空いていない時は、夕の代理としてやむを得ず夜子が依頼を受ける。
だが先の通り、対外的には夜子は所長の助手であり――故に彼女を指名した依頼が来ることはほぼ無い。あるとしたらそれは、夜子のことを見知っている者か、知り合いからの仲介だ。
前提としてそれがあるために――今回の依頼は、異質だった。
まったく知らない相手から「《探偵》御守夜子さんにお願いしたい」と指名されたのだ。
「なんだかこの依頼……。気が進みませんね……」
《探偵》には、「《探偵》の勘」と呼ばれるものがある。それは、たかが勘と馬鹿にできるものではないことを、夜子はよく知っていた。
《探偵》の勘を大切にしなさい――。
これは夜子の師でもある夕の言葉だ。これは《探偵》が違和感を覚えた時、そこには絶対何かがある。だから見過ごしてはならない、放っておいてはいけないというような意味合いだ。
御守探偵事務所の所員は夜子も含めた全員が、その言葉を胸に刻んでいた。
今、その「勘」が夜子に告げている。
この依頼はよくない。
依頼内容は特におかしなものではない。「《異形の者》の疑いがある人間を探してほしい」というのは対異形探偵事務所ではよくあるものだ。
だというのに今回はどうもすっきりしない。
「なぁ、気が進まないっていうのはどういう意味だ」
琴浦はボサボサの髪を掻きながら尋ねる。夜子はううんと目を伏せ、自分のなかにあるすっきりしない原因を探した。
「なんでしょう……、受けるとめんどくさいことになりそうというか……。なんだかモヤモヤしたものを感じるんですよね……。言葉で説明するのは難しいです……」
「『勘』か」
「『勘』です」
ふたりは顔を見合わせ、さてどうするかと頭を捻った。夜子には――ついでに琴浦も――今受けている依頼は無い。手が空いているのだから、本来は受けるべきなのだろう。
(でも……)
悩むたび、夜子がこの世の誰よりも信頼し、尊敬している養父の教えが頭をよぎる。
「まぁまぁ、夜子ちゃんも琴浦さんも、少し休憩したらどうです?」
ふたりがうんうん唸っていると、脇から湯飲み茶碗が差し出される。夜子が顔を上げると、朗らかの顔の大男と目が合った。
「鈴切」
男は御守探偵事務所の助手のひとりで、鈴切佐助という。
「ありがとう。でもこればっかりは……安請け合いできないんですよね……」
言って夜子は湯飲みに口をつける。ほうじ茶の優しい味にほんの少し緊張がほぐれた。
(ううん……。依頼人がいるということは困っている人がいるということ……。力になってはあげたいですが……)
何せ《探偵》の仕事は命がけなのだ。
それは自分の命であったり、仲間や依頼者の命であったりとさまざまだが――軽率に危険に晒していいものではない。
(……私が感じた『めんどくさい』が何をもたらすのかがわからない……。私の実力ではどうしようもならない相手が依頼の向こうにいるのなら、外部から協力者を募るとか……別の実力者を紹介するとか……やりようがある。単純に手間がかかりそうなら、それなりの心づもりをしておけばいいだけ……。――勘は理由がわからないから困ったものです……)
夜子は小さく息を吐き、何度も目を通した依頼メールを読み返し、引っかかる場所を探した。
「…………」
やはり一番気になる点は「御守夜子に」という部分だろう。
夜子は「自分が家業を手伝っている」ということを隠してはいない。けれども、業界と関わりが無いであろう一般市民にまで名が知れるほど大それた仕事はしていない――と思っている。
(まぁ、このあたりに『学生の《探偵》がいる』という話くらいは……噂になってはいるかもしれませんが)
しかし普通《探偵》とはいえ、あえて学生を指名してくるだろうか。しかも夜子はいつも「御守夕の助手だ」とアピールしている。もし自分が依頼者であれば、堂々と「《探偵》だ」と喧伝していない者に仕事を頼むのは不安だ。
(この方……、紹介されて私をって書いていますが……)
その紹介者にも覚えが無い。
依頼主と紹介者――。このふたりはなぜ夜子に仕事を依頼しようと決めたのか。
夜子はメールの文字を追いながら、依頼主が自分を選んだ理由を探した。――だが、いくら文字を追っても、答えになりそうなものは見つからなかった。
「――受けたほうがいいんじゃないかしら」
険しい顔をしている夜子に声をかけたのは、自分のデスクで仕事をしていた品のいい老婦だった。
「山本さん」
彼女は御守夕のもとで古くから助手を務め、夜子達のような夕の養子にとっては、母のような存在だ。
彼女はマウスをカチカチ鳴らすと、「うん、やっぱり話くらいは聞いたほうがいいわ」と独りごちる。
「何でですか? 山本さん」
大ベテランの山本が言うのだ。当然理由はあるのだろう。だがどうにも解せず、夜子は首を傾げ訊いた。
「うん。メールを読んだんだけどねぇ――」
山本はパソコンから顔を上げ、夜子をちらりと見やり――再び目線をモニターに移した。送られてきたメールを再度確認しているのだろう。
「これ、依頼者さんは『周防明美』さんの紹介で御守夜子さんに――って書いてらっしゃるでしょう?」
「ええ、はい。――あ、もしかしてお知り合いでしたか?」
山本は「まぁ、そうなのよ」と複雑そうに顔を歪め頷いた。
「御守さんの……ね」
御守さんとは夕のことだ。なるほど、夜子ではなく夕の知り合いからの依頼だったのか。
ひとつ胸のつかえが取れた――が、だったら夕の名を出せばいいのにと思わないでもない。
(周防明美……か)
夜子は――そして琴浦も――『周防明美』という名を聞いたことが無かった。探偵業界に何十年もいる夕の交友関係をすべて把握しているわけではないが、それでもある程度付き合いがある人間の名前はふたりとも知っている。
だから一切聞き覚えの無いこの名前が文面に挙がっていても、夜子も琴浦もさして気にはならなかった。
「御守探偵事務所」の名前自体は有名だ。だからその名を知っている人間が、依頼者に紹介をしたのだろう程度にしか考えていなかったのだ。実際、「探偵事務所といえば、御守探偵事務所だろう」と名前だけ知っているものが門を叩いてくることは多い。
まさか自分の知らない夕の知り合いだったとは――と夜子は自分の浅慮さを少し恥じた。
「一体どういうおつもりなのかしら……」
ひとり恥じ入っている夜子をよそに、山本はぽつりと呟く。それはいつも朗らかな彼女にしては珍しい、苦々しげなものだった。
夜子は驚き、軽く目を見張る。山本もこんな顔をすることがあるのか。
「山本さん。その、周防さんというのは――」
琴浦が尋ねると、山本は彼を一瞥し――次に夜子へと視線を移す。
「――あのね。周防明美さんっていうのは……、夜ちゃんの――」
山本は一瞬目をうろつかせた。――が、意を決したように息を吸った。
「夜ちゃんの実のお母様の、従姉妹にあたる方なのよ」
山本はそう言うと、どこか遠い目をした。