エピローグ ~1~
「そうですか、ひとり暮らしを」
「はい。といってもやっぱり父が心配ですんで……。ちょくちょく顔を見に帰るとは思うんですが」
そう言って藤は恥ずかしそうに笑った。作り笑顔ではない、自然な笑みだ。
「いいと思います。貴一さんも喜ぶでしょうね」
「だといいんですが。一応受験勉強に集中するためっていう名目ですんで。しょっちゅう帰ってたら勉強してないじゃないかって怒られちゃうかもしれませんねぇ」
「受験? 進学なさるんですか?」
「ええ、大学に行こうかと思って。――高校を卒業する前に、母には進学したほうがいいとは言われていたんですよ……。……でも、あの時の僕は両親のそばにいるのが一番いいと思っていたので……」
「――ああ、なるほど」
「真帆と同じ大学に行こうかと思ってるんです。真帆の通ってる大学の話はよく聞いていて、面白そうだと思ってたんで」
「真帆さんは――……。深田さんご家族はお元気ですか? 私は今回の件をご報告したあとは失礼しているので」
夜子は申し訳なさそうに肩を竦めた。藤はそんな彼女を見ながら、困ったように笑う。
「……元気ですよ。特に真帆はいつも通りです。おじさんとおばさんは――……」
青年はわずかにうつむいた――が、すぐに顔を上げ、まっすぐ夜子を見つめる。
「今回のこと、すごく怒っていたし戸惑っておられました。当たり前ですよね。――でも、うちの家族皆で謝りに行った時、『真帆はあなた達に誑かされたわけじゃない。自分で考え行動した』、『だからあなた達に憤りは感じるが、真帆も真帆だ』、『許す許さないで言えば許せないが、娘が無鉄砲なのも悪い』……。『それに、友人が悩んでいたことを知らなかったことに後悔している』……と」
藤はふぅ、と肩の力を抜いた。
「おじさん達は、『お互いこれまで通りとはいかないだろうが、今後も付き合っていきたい気持ちがある』とも言ってくださいました。なんというか今回の件……、真帆は自分の意思でいなくなったんじゃないかって、どことなく思っていたらしいんです。だから真帆はそのうち帰ってくるんじゃないかとも。……もし違っても、うちに相談した時だいぶ気が楽になったそうで……。それくらい、うちのことを信頼してくれてたんです」
「できた方ですね」
「本当に。――もともと僕達家族は地元では鼻つまみ者……とまではいかずも、胡散臭い家だとは思われていたんです。それなのにおじさんもおばさんも真帆も……ずっと仲良くしてくれて。そんな人達を裏切るような形になってしまったのに……。優しい、というより、とんでもなく器が大きい人達ですよ」
頭が下がります――と言って、藤はこの場にいない深田家の人間を想うかのように目を伏せる。
「…………」
「………………」
ふたりのあいだに沈黙が流れ――しばらくして、藤が口を開いた。
「そういえば、なんですけど……。お嬢さん、あの人はどうなったんですか?」
どこか不安の浮かんだ顔で、藤は夜子に訊いた。夜子はぱちりと目を瞬かせ、「そのことを聞きに来たんですね」と静かに答えた。
「……はい。やっぱりどうしても気になって」
「あの人――焔狐は、今も《機関》にいます。怪我はだいぶよくなったそうなので、人間社会についての勉強を始めたと聞いています。あの人、人の心にも今の社会にもだいぶ疎いようですから」
「そうですか……」
言って藤は小さく息を吐いた。焔狐の怪我は藤が負わせたものだ。やはり気になっていたのだろう。
「勉強と《機関》での契約が済んだら、これからは新しい名前で暮らしていくことになるでしょう。各地の信者のもとへ立ち寄る気は一切無いみたいなので、今後はひっそりとどこかで暮らしていくんでしょうね」
「…………」
「――ああ、そうそう。あの人の能力なんですが」
「能力?」
藤が小首を傾げると、夜子はこくりと頷く。
「あの人の能力はふたつ。まずは狐火。そしてもうひとつが――魅了です」
「魅了……」
「まぁ正確には波長の合う人間に自分のことを強く意識させる、というものみたいです。だから魅了というのとはちょっと違うそうなんですが、ひとことで言うとそうなります」
「自分のことを強く意識させる、ですか……」
「はい。その時どういう感情を抱くか焔狐はコントロールできませんが。それは怒りだったり恋慕だったり――羨望だったりするそうです」
藤はぴくりと肩を震わせた。
「色々ありますが、そのなかでも崇め讃える気持ちを抱いた人が祖となり、周防さんの家のように代々あの人――焔狐を祀る一族が発生したみたいです。どうやらあの人に「合う」波長というのはある程度遺伝もあるらしくて。それで子子孫孫とあの人には信者が」
「……なるほど」
「まぁ遺伝といってもそれは絶対じゃないみたいなので、当然先祖はあの人を崇めていても、子孫はあの人には懐疑的――なんてこともあるようです。だから信仰を止めた一族もたくさんいるし、それこそ攻撃されることもあったと本人は話していたそうですよ」
言って夜子は、どこか遠い目をしながら窓の外を見やる。――今日はここ最近では珍しく、澄み渡るような快晴だ。
「……そういえば、藤さん」
「なんでしょう?」
「まだその姿を?」
そう言って夜子はじっと藤の顔を見た。体こそ焔狐と違いはっきり男の体をしているが、藤の顔は相変わらず機械的なまでに整ったあの焔狐と同じだ。
「……はい。これは無意識に父さんの望みを反映させた姿ではありますが……それでもこの顔との付き合いは長いんで、愛着があります」
はは、と眉尻を下げ藤は笑う。
「他の顔にしようと思っても、この顔以外に僕に合う顔なんて今更考えられないんですよ。それにこの顔……、どことなくうちの母さんに似てる気がしませんか?」
言って藤は自身の目を指差した。確かに釣り目がちなところは似ていなくもない。
「それを言ったら、藤さんは私にも似てるってことですね」
「確かに!」
少女が茶目っ気たっぷりにそう言うと、藤も声を出して笑った。
あれほど夜子に似通っていると思っていた明美の顔は、夜が明けてからじっくり見てみると案外違いが目立ち、とてもじゃないがそっくりとは言えなかった。――ただ、目だけは本当によく似ている、と琴浦はすべてが終わったあと語っていた。
「……事が起こる前、藤さんは私に言いましたよね。『僕とお嬢さんは似ている』って」
「ええ……」
「あの時は私、全然藤さんと私が似ているだなんて思えなかったんです。――でも、今はちょっと違います」
「そう……なんですか?」
「はい。だって今の藤さん、自分を否定していませんから」
藤は少しだけ驚いたのか、目を数度瞬かせた。そして――笑った。
「そうですね。――ま、問題は山積みですけどねぇ。それは時間をかけて解決していくとして……。自分自身については――。うん……、少しは受け入れられるようになってきましたねぇ」
「そうですか」
少女は柔らかな笑みを浮かべ言った。
「ええ。こういうことを言うのは照れ臭いんですがね、やっぱり僕は父さんと母さんが好きでして。そのふたりに育てられた『僕』のこと……心底嫌いにはなれません」
はにかみながら藤は言う。
「それはよかった」
「お嬢さん」
「なんですか?」
「お嬢さんはどうですか? ご自分のこと、お好きですか?」
あの日と同じことを青年に訊かれ、少女はフッと目の力を緩めた。
「私、自分のことを好きか嫌いかは考えたことがありません。でも――」
「やっぱり私は、『私』という存在を誇りに思っていますよ」
◇◆◇
それからしばらく世間話をして、藤は家へと帰っていった。引っ越しの荷造りがあるらしい。
実は夜子は、焔狐が新たに「ほむら」と名付けられたことを知っている。だがそれを藤には伝えなかった。
伝えたからといって何が変わるわけでも無し――もう焔狐と藤は完璧に違う人間なのだ。