Scene22
「藤さん!!」
夜子は叫び、ほとんど飛ぶようにして藤へと駆け寄った。――が、すでに炎の壁は藤の周りを囲っていて、容易には近づけなくなっていた。
「藤さん……!!」
それでも夜子はギリギリまで接近し、だらりと尻尾を投げ出しうなだれている藤の名を呼んだ。
「……お嬢さん」
「藤さん……」
顔を上げた藤は、泣いていた。しゃくりあげることは無く、ただはらはらと涙を零している。
「僕はなんてことをしちゃったんですかねぇ……。本当に馬鹿、ですね……」
言って藤は自嘲気味に笑った。その無理やり作られた笑みは、あまりにも痛々しかった。
「お嬢さん、申し訳ないんですが、旦那様と奥様に謝っておいてくれませんか? 勝手なことをしてしまい申し訳ないと……。育ててもらった恩をお返しできず申し訳ないと」
「後悔していることがあるのなら、それは自分で言ってください! 藤さん! 火を止めてください! まだ他に燃え移ってはいない! 今なら間に合います!!」
夜子が叫んでも、藤は悲しそうな顔で首を振るだけだった。
(こうなったら……)
ガントレットは水の気を纏っている。もしかすると、この炎の中でも藤を引っ張り出すくらいならできるかもしれない。
(よし……!)
夜子は大きく息を吸い――藤に向かって腕を伸ばす。ガントレットが炎に触れると、中の手を焼いている感覚がわずかにあった。――が、耐えられないレベルではない。
少女の腕はそのまま炎の壁を突き破り――藤のシャツを掴んだ。
(やった!)
だが――。
「お嬢さん、やめてください。僕はこれでいいんです。こうしたいんです」
藤は虚ろな顔で言った。そして夜子の手を力いっぱい振り払う。
「さ、焔狐様を連れて逃げてください。まだ間に合いますから」
そう言って藤は、静かに頭を下げた。
炎は藤が操っているらしく、奇妙なことに床から拳ひとつ分浮いたところから立ち上っている。おかげで燃えているのはいまだ藤の周囲だけだ。さらに幸いなことに、藤がへたりこんでいた場所には燃えやすそうなものが見当たらない。すぐに炎は広がらないだろう。
(ですがそれも時間の問題……。それに何より――!)
夜子はキッと藤を睨みつける。
「――……」
夜子の視線に気づいた藤は、曖昧な笑みを浮かべ小首を傾げた。――それが夜子には、腹立たしかった
(絶対、ここから連れて帰って見せます――!)
なぜなら藤は、夜子に自分を止めてほしかったのだ。もちろん藤はそんなことひとことも言っていない。けれども夜子にはわかった。
この蔵は、もともと結界など張られておらず、出入りは自由にできたという。つまり焔狐はこの蔵に人を拒む結界を張っていなかったということだ。
それなのに藤が最初に蔵に入ってから戸はびくともせず――開いたのは中から真帆を出す時と、
夜子を受け入れた時だけだった。
これは何を意味するのか。それは結界を張った本人――十中八九藤だ――に聞いてみないとわからない。
だが夜子はこう受け取った。
自分を止めてほしいというメッセージだと――――。
藤は夜子たったひとりの侵入を許可するなどという、高度な結界が張れる術者だ。
今回は沼元がいるから結界解除の手立てがあるが、彼女がいなければ、彼の結界を破るには時間と相当な無茶が必要になっただろう。
きっと破るまでのあいだ、蔵内は藤と焔狐だけの――完全にふたりだけの空間となっていたはずだ。
(それなのに、藤さんは私をここへ入れた)
もし藤が本当にひとりで決着をつけるつもりだったのなら――それが「捕獲」であれ「殺害」であれ――結界は何人たりとも受け入れてはいけなかった。
藤は、夜子にあとを託すため、彼女をこの場所に呼んだと話していた。そして同時に、ひとりで終わらせるつもりだったとも口にした。
(多分、藤さんは迷っていたんだ)
救いたい。救われたい。頑張りたい。頑張りたくない。
藤はぐちゃぐちゃな感情を内に秘めたままここへ来た。そして、もう自分ではどうするべきか決めることができなかった彼は――。
「藤さん。私にはあなたが、本当にここで終わりたいと考えているようには見えません。終わってしまうならその時だとは思っていても――助かりたいとも思っているのでは!?」
「それは……」
「素直になりなさい!! いいえ、もうあなたの気持ちは関係ありません。私はあなたを生かします! 生かされたあとで――どうするかもう一度考えなさい! それはあなたの自由です!」
夜子がそう叫んだ時だった。
階下から、重い蔵の扉が開く音と、複数人の足音が聞こえてきた。――結界が解けたのだ。
「藤ーー!!」
「藤っ!!」
下から男女の悲痛な声が上がった。
その瞬間、火柱の勢いがわずかに弱まった。
(今――!!)
夜子はそれを見逃さなかった。顔面を守るように両腕を交差させ、上半身ごと炎に突っ込み、両手で藤の腰を掴む。
「あっ……」
ぐいと腕に力を込め、藤の体を自身の体で覆うようにしながら、夜子は青年を炎の檻から連れ出した。髪の毛が焦げる臭いが鼻についたが、そんなことは気にもしなかった。
「……っつ」
夜子は藤の体を下ろすと、肩で息をしながら両腕を見つめる。
「……はぁ……っ……はぁ……」
額から落ちた汗が掌に落ち――それは音を立てて蒸発した。
「――……っ」
ガントレットの中で指をかすかに動かすと、焼けた皮膚がずれる感覚がした。水の気を纏わせていたとはいえ、やはり無茶だったのだ。
(でもこんな傷……病院に行けばすぐに治る……それより藤さんは……)
夜子が藤へと目を落とすと、藤はいまだ燃え盛る火柱を眺めていた。
まさかまた戻る気か――。夜子はそれを止めるべく口を開いた。――その時だった。
階段を駆け上がってくる音が聞こえた。そして――。
「藤!!」
「……父、さん……」
藤がポツリと声を漏らす――と、火柱は一回大きく揺らめいて、燃え盛る勢いが弱まった。
「わあああ!!」
階段から顔を出した貴一は、二階の様子を目にした途端大きく叫んだ。
「藤! 藤! 大丈夫か!?」
男は足元が絡まるのか、こけつまろびつしながら、ほとんど這うように藤のもとへと駆け寄った。
「……うん」
藤は貴一から目を逸らし、小さく頷く。――また、炎が揺らめく。
「怪我はないか!? どこも痛くはないか!?」
貴一は異形の姿を晒した息子のあちこちを凝視しながら訊いた。それにまた藤がこくりと頷くと、男はまるで小さな子供にするかのように、狐耳の青年の頭を撫でた。
そして、そのまま彼の頭を抱えるようにして体を強く抱きしめる。
「よかった……よかった……」
「藤……!」
聞き覚えのある声がして、夜子は階段へ目をやった。するとそこには、顔の色を失い茫然と立ち尽くしている明美がいた。
「……母さん」
藤のひとことで我に返ったのか、女は藤――それと夫のもとへ小走りで近づく。そして血濡れになり憔悴した様子の藤を一瞥すると、焔狐を強く睨みつけた。
「よくも……息子を……!」
ぎり、と歯を噛み鳴らし、拳を強く握りしめる。女は焔狐に殴り掛からんばかりの形相をしていた。
まずい――。夜子は一歩、明美のほうへ踏み出した。手負いとはいえ相手は《異形の者》。人間の攻撃など屁でもないだろう。
「……貴一の嫁か?」
焔狐はというと、剣呑な空気は察知しているはずだが相変わらず余裕綽々である。もし明美が殴ろうが、やり返すことは無いのかもしれない。思い起こせば、夜子はこの異形から無自覚の口撃は受けたが、攻撃はされていなかった。
(この人は好戦的じゃないのかも……)
――がしかし、それも確実にそうだと言い切ることはできない。
夜子が再び一歩明美へとにじり寄る――と、階段からぬっと顔が出てきた。その顔は注意深く二階を確認すると、慌てて階下へと下りていった。
(鈴切だ)
焔に照らされ見えた顔は鈴切だった。彼がなぜ周防夫婦を先に行かせたのかはわからないが――琴浦の判断か、それとも夫婦が勝手に先走ったのか――、二階に上がってこなかったことを含め何か考えがあるのだろう。
(つまり鈴切――それと兄さんは、上でのことは私だけでなんとかしろって言っているわけですね)
夜子は明美の隣に並び立つと、彼女の腕を掴んだ。ガントレットがまだ熱を持っていたからだろう。女は目を丸くさせ、腕と夜子を交互に見やる。
「君――……」
「落ち着いてください。ひとまずこの場を出ましょう」
「……ああ」
明美はやはり焔狐を睨みつけてはいたが、ゆっくりと頷く。
「もう大丈夫だ」
明美が冷静さを取り戻したことを確認し、夜子は女の腕を離す。
「さ、ふたりも。下りましょう。歩けますか?」
夜子に訊かれ、藤と貴一は顔を上げた。ふたりは黙って立ち上がり、のそりと明美のほうへ向かった。
周防一家は黙って顔を見合わせた。明美が「……行こう」と口を開くまで、誰も喋らなかった。
「待て」
階段へ向かう三人のあとに続き夜子も歩を進めた時、背中に声がかかった。
「娘よ。あれの始末はどうするつもりだ?」
振り返ると、焔狐がいまだ燃え盛る炎の檻を顎でしゃくった。
「――わかってますよ」
夜子は眉を寄せ答える。そう、わかっている。あの炎は今のところどこにも燃え移る気配はないが――それはただ運がいいだけだ。早く消してしまわなければ危険なことは夜子だってよく理解している。
あの火はさっき、藤の動揺に応じて勢いを変えた。そのことからあれは藤の意思でコントロールできるだろうことがわかる。だが――。
「…………」
今の茫然としている藤に、言葉は届くだろうか。
(あの火は、藤さんの自暴自棄の証だ)
それをそうさせた理由の前で消してくれと頼むのは、なんだか苦しかった。貴一と明美は、息子が命を含めたすべてを終わらせてしまいたいと思ったことを知らないのだ。
『僕はこれでいいんです。こうしたいんです』
さっきの藤の言葉を知っているのは、夜子と、焔狐と、藤本人だけだ。
さっきのことは少なくとも藤が自身の口から言う気になるまでは、心に秘めておいたほうがいい――夜子はそんな気がしていた。
(でも……)
本音を言うと火事が気になるのも確かだ。――やはり、言わねばならないか。
「藤さ――……」
火を止めてください――そう続けようとして開いた口は、続きの言葉を紡げなかった。
予想外の出来事により、少女は言葉を呑みこまざるを得なかったのだ。
「お許しください……! 焔狐様……!」
突然、貴一が夜子の前に――正確には彼女が対面していた焔狐の前に――躍り出ると、床に額ずいたのだ。
「このたびのことはすべて私の責任です……! 藤を――……それから巫女も、どうかお許しください。お怒りをお鎮めください……! 命ばかりは、どうか――!!」
貴一は床に額を擦りつけ、懸命に謝った。それを見て夜子は気づいた。
この男は、炎を放ったのが焔狐だと思っているのだ。
巫女が逃げ出し、その手助けをした息子に神は怒り――罰を与えたと。
「息子は何者にも代えられない私の大切な存在なのです。巫女も娘同然に思っております……! どうか、どうかご容赦を……」
「…………」
震える声で頼み込む貴一を、焔狐は冷ややかな目で見下ろしていた。ガラス玉のような、考えの読めない目は、今何を思っているのか。
「自分勝手なことだ」
平坦な声だ、と夜子は思った。だが貴一は叱責されていると感じたのか、身を縮こまらせた。
「あの火を見ろ。あれは貴一、お前が生み出したも同然だ。それに――」
その時夜子は、狐の異形がちらりと自身の腹に目をやったのを見逃さなかった。
「あれの始末は私にはできない。なぜならあれは――……」
そこで言葉を切り、狐は藤を見やった。
「……まぁいい。教えてやろう、あれは怒りの火だ。一度何かに燃え移れば、消すのは容易くないだろう。――執念は簡単には消せないのだ」
「そんな……。どうか、焔狐様……」
「私に祈っても仕方がない。あれは私の怒りではないのだから」
「それならば、誰の……」
「わからないか? あれは――」
「――やめなさい」
口を挟んだのは夜子だった。
「今はそのことを話している場合じゃありません。貴一さん、この人のことは放っておいて大丈夫です。火は……私がなんとかしますから」
「娘が口を出すことではない。私は貴一と話している」
「いいえ、口を出します。今そのことを話して何になるんですか」
「むしろ今教えずいつ教える。――私は、そやつの息子に土産を貰っているからな。父親に教える権利はあるだろう」
狐は優雅に尻尾を振った。深手を負いながらもこの貫禄――さすが神と称されるだけはある。夜子は異形を睨みつけながら、一筋縄ではいかなさそうな相手にどうすべきか頭を捻った。
(ああ、もう……! 兄さんと鈴切がいてくれたら……! こうなったら、ひとまず貴一さんを抱きかかえて下に……藤さんは明美さんが連れて行ってくれるでしょうから――)
考えながら夜子は貴一の肩に手を置いた。すると貴一は、ゆっくりと振り返り、怯えた目で夜子を見た。
「貴一さん、行きましょう。この人は大丈夫ですから、ね」
「御守……さん、でしたね。……そうはいかないんです。私は……私は……」
貴一は床に頭を擦りつける。そして――。
ばたりと倒れた。
「貴一さん!?」
倒れこんだ貴一の顔は、すっかり血の気が引いて白くなっている。手を握ってみると、こちらの背筋が震えるほど冷たかった。部屋の中は炎の熱でうっすら汗をかいてしまうほど暑いにも関わらずだ。
(そうだ、熱……!)
明美がここへ来た時、貴一は昨日熱を出したと言っていた。体調が悪かったのだ。もしや熱がぶり返したのではなかろうか。
貴一の体は尋常じゃなく冷たい。
(これは、早く医者に診せたほうがいい)
夜子は貴一の脇の下に体を入れ、体を揺らさないよう立ち上がった。すると、
「藤さん……」
目が合った。――藤と。
「父……さん……」
藤はふらりと明美から離れ、おぼつかない足取りで夜子達に近づく。
「父さん……。酷い熱だ……」
「……はい。貴一さんは早くここから出たほうがいいです。連れて行きましょう」
「……父さんは、体が弱いんです……本当に……。暑さやストレスで倒れてしまうことがしょっちゅうある……。医者にも気をつけるよう言われているんです。それなのに、こんなところまで来て…………」
僕は本当に馬鹿ですね――絞り出すように藤は言った。
「藤さん……」
夜子は静かに首を振る。
「今は自分を責めている場合じゃありません。さ、火を消してください。そしてここを出ましょう」
藤は「……はい」と小さく呟く。そして燃え盛る炎へ掌を向けた。
すると炎は渦巻きながらどんどん小さくなっていき――サッカーボールほどの大きさに圧縮された。藤が掌をくい、と返すと、火球は滑るように藤の手元にやってくる。
「…………」
夜子は誰にもばれぬよう、ふうと小さく息を吐く。――これでようやくひとつ片付いた。
そう思っていたのだが――。
「本当にお前のせいではないなぁ。お前のすべての苦しみは貴一が原因なのだから」
狐は、いつの間にか横たわっていたソファから体を起こしていた。手は腹に添えてある。傷が治ったわけではなさそうだ――が、その顔はうっすら笑みをたたえていた。
「お前が……! お前が言うのか!!」
藤は叫んだ。そして炎の集った右手を狐に向ける。
夜子はその瞬間やめろと声を振り絞り、藤の腕を思い切り掴んだ。だが強化されているはずの夜子の腕力でも――藤を止めることはできなかった。
藤の炎は瞬く間に姿を変える。
――それは、見ようによっては狐に見えた。
「おや。そう来たか」
狐の《異形の者》は、顔の前に左の掌を出すと、青い小さな炎を生み出した。そしてその炎にふぅと息を吹きかける。
――すると、その炎は狐へと姿を変えた。
「行け!!」
「行け」
ふたりの声が重なる。――と同時に、二体の炎狐がぶつかり合う。
ぼっ、と爆発するような音が聞こえた。狐達が消えた音だ。
(相殺したんだ)
二階は暗闇に包まれた。焔狐がランプ代わりに灯していた狐火も、さっきの衝撃で一緒に消えてしまったのだ。
「ふふふ」
暗闇の中から、笑い声が聞こえてくる。
「――っ!」
夜子のほんの数歩前で、息を呑む音も聞こえた。
「何がおかしい……!」
「いや、なに」
「小僧。お前、自分以外にも怒りを向けることができるではないか」
「え――?」
藤は思いもよらぬ言葉をかけられ、ぽかんと口を開けた。
「それは……」
どういう――と言葉を続けようとした時だ。夜子の「あっ!」という声が暗闇に響くと同時に、音を立て部屋のなかに光が灯った。
――いや、違う。正確には火が熾ったのだ。
「さっき跳ねた火の粉か」
狐の声はどこまでも冷静だったが、火に照らされ見えた顔は険しかった。
「藤さん! コントロールを! このままじゃ……!」
「や、やってます! でもできないんです……!」
「じゃああれはあなたの火ですか!? お願いです、消してください!」
懇願された狐は少女を一瞥すると、目を伏せ首を振った。
「無理だな。あれは私の手からも、そこの小僧の手からも離れた炎。私達の管理下には無い。――あれは自由に……。燃え盛るぞ」
夜子はぎり、と歯を噛んだ。そしてすぐに貴一と明美を見やる。階段そばにいたはずの明美はいつの間にか貴一のもとにおり、夫を背負おうとしているところだった。
「藤さん、明美さんを助けて貴一さんと一緒に外へ」
「でも……お嬢さんはどうするんです……!?」
「消せないか試してみます。無理そうならそこの人を連れて逃げます」
「ですが……!」
「大丈夫。藤さん、下に降りたら兄さん達に火事が起こったことを伝えてください」
「は、はい……」
藤は心配そうに顔を歪め、小さく頷く。そして両親のもとへ駆けると、ふたりを脇に抱え階下へと消えていった。
「…………」
「娘、どうするつもりだ?」
「説明する時間がもったいないです」
言って夜子は狐へと近寄る。血の匂いがぷんと鼻につき、夜子は思わず顔を顰めた。
「さ、行きますよ」
少女は狐に肩を貸し、ほとんど引きずるようにしながら狐と共に階段に向かう。
「何をする」
「下に降りるんです。火はこれから消しますが、あのままあなたに二階にいられたら消化の邪魔になるんで」
「消せるのか?」
「下に毛布と水のペットボトルがありました。それを使えば、もしかしたら……。まぁ、もし難しくてもこの蔵は頑強そうです。鉄扉を閉じてしまえば、消防車がくるまでは耐えられるでしょう」
「ふうん……」
狐はそう絞り出すと、それ以上は何も言わなかった。――いや、喋れないのだ。肩が大きく上下していることから、相当怪我が辛いだろうことがわかる。
(……この人、ずっと無理してたんだ。早く《機関》に連れて行かないと――危ない)
夜子はぐっと顔を上げ、前を見据えた。啖呵を切ったはいいが、こんな山奥に消防車が辿り着くにはどれくらいの時間がかかるのだろう。この土蔵は確かにちょっとやそっとの火では崩れ落ちそうにはないが、それでも不安は残る。
(せめて、火の勢いが衰えてくれれば……!)
虚しい願いだとはわかっている。だが、せめて――。
「――!?」
体を支えようとそばにあった桐箪笥に手を置いた時。夜子はその箪笥が湿っていることに気がついた。
(もしかして……!)
背後を振り返ってみれば、少しだけ――火が小さくなっていた。
(沼元さんだ!)
すぅと息を吸い込むと、鼻に湿った匂いが届く。気づけば肌には重たい湿度もまとわりついている。
こんなことができるのは、この場では沼元だけだ。
「――!」
夜子が一瞬表情を緩めたその時、階下から重い足音が聞こえてきた。――音を出している主は走っているようだった。
足音はダンダンと階段を踏みならし、二階へ上がってきていることがわかる。
「――……」
少女は再び顔を強張らせ、鋭い目で階段を凝視した。音は次第に大きくなり――そしてついに姿を現した。
「す、鈴切!?」
「夜子ちゃん……。お、お待たせ……」
階段から顔を覗かせたのは鈴切佐助だった。彼は腕に何かを抱えており、這うようにしながら最上段まで上りきると、二階の床へとそれを放った。
――それは、大量の濡れ毛布だった。
何故か憔悴した様子の鈴切は、「沼元さんが、作ったんだ……」とそれだけ言うと、バタンと大の字に倒れた。
「鈴切!」
狐を桐箪笥にもたれさせ、夜子は鈴切のもとへと走る。すると男はゼェハァと苦しげな呼吸を漏らしながら、「僕のことはいいから」と毛布を指差した。
――頷き、少女は毛布を手に取る。
毛布は水分をたっぷり含んでいるらしくずしりと重い。夜子はそれをすべて抱え、炎の前へと戻る。
いつの間にか辺りはすっかり濡れそぼり、火も驚くほど小さくなっていた。
(これなら消える!)
夜子は毛布を広げると、ばさりとそれを炎の上にかける。すると毛布の下から蒸発音が起こった――が、それはすぐに聞こえなくなった。鎮火したのだ。
夜子はすべての毛布を使い同じ作業を繰り返す。そして念入りに残り火が無いか確認する。
「よし!」
狐の炎は、蔵からすべて消え去った。
◇◆◇
「いったい何があったんですか……」
肩に狐、小脇に鈴切を抱えて蔵から出ると、先に出ていた人々がぐったりとうなだれていた。
貴一は当然として、藤と明美のふたりが疲れているのもわかる。沼元も同じだ。結界の解除から火気を抑える術、さらに恐らく術による濡れ毛布作りまでこなしているのだから、相当疲労しているだろう。目元には隈ができ、唇も乾燥で荒れている。
「兄さんまで……」
だがずっと外にいたはずの琴浦までもが、げっそりとやつれているのは何故だ。
琴浦はかすかに首をもたげ、虚ろな目で夜子を見上げた。
「……そりゃ、鈴切と一緒に……。いや、言いたくない…………」
「…………沼元さんのお手伝いをしていたんですよ……」
脇から琴浦が補足をし、夜子は「なるほど」と頷く。具体的な内容はわからないが、術は大掛かりになればなるほど消耗が激しいと聞く。ならば手伝いをする者にもそれなりの負担がかかるのだろう。
「……《機関》には連絡済みだ。夜子が入ってすぐに電話したから、まぁ……あと一時間もしないうちに来るだろ」
「それまでにこの人、死んじゃいませんかね?」
抱えていた焔狐を地面に下ろしながら夜子が訊く。すると琴浦は「知るか」と呟いた。
「なんですか、投げやりな。この人、癪に障りますが敵意はないみたいです。死なせるわけにはいきませんよ」
言いながら狐の傷口を見ると、そこはじっとりと血で濡れていた。もはや着物のもとの色はわからない。
「……足しになるかわかりませんが、私の血をわけましょうか」
意識はまだあるようで、狐は夜子の言葉を聞いて、ちらりと目を開けた。
「待ってよ。それならあたしの血を使って」
タタ、と駆け寄ってくる音が聞こえ振り返ると、申し訳なさそうに眉を下げた真帆がそこにいた。
「あたしは何にもしてないからさ。少しでも役に立てるんなら、あたしの血をこいつに使ってよ」
「ですが……」
「いいんだよ。これまでだって、そうしてきたんだし。それに、あたしだけ何にもしてないのが心苦しいんだ」
「……そこまでいうなら」
では、こちらへ――と自分の隣に来るよう真帆を促すと、夜子の隣で狐がピクリと体を揺らした。
「……やめろ」
ぼそりと低く、小さな声が聞こえた。
「え?」
「やめろ、と言っている」
狐はジロリと夜子を睨む。そして、はっきりとした口調で言った。
「私は血が嫌いだ」
「――は?」
思わず、気の抜けた声が口から漏れる。
なぜなら「《異形の者》は人間の血肉を好む」というのが、《探偵》の――いや、世界の常識だからだ。彼らは人間の血肉が無ければ徐々に弱り、いずれ存在を保てなくなってしまう。それだけではなく人間というのは彼らにとって味も良いらしく、好んで口にしている――と、夜子は聞いていた。
「……だから、嫌いだと言っている。取らねば死んでしまうから、どうしても必要になった時には日をあけて少量ずつ取る。今回はそこの娘から、必要な分はほとんど取った。もう一口だって口に入れたくない」
焔狐は心底嫌そうに顔を歪めて言った。
「そんな……!」
その時、突然背後から悲痛な叫び声が上がった。
夜子が振り向くと、そこには明美に支えられ半分体を起こした貴一がいた。男は震えながら、「そんな……」と小さく繰り返した。
「焔狐様……! それでは……それでは叔母はどうしたのです……! 叔母はあなたに……! 巫女となって……!!」
「貴一、叫ぶと体に障る」
「叫ばずにはいられないよ! だって叔母は……お姉ちゃんは……!」
貴一の顔は真っ白だ。明美の言う通り、これ以上貴一に無理をさせるとまた倒れてしまいそうだった。
(移動させたほうがいいか……)
そう思って夜子が腰を浮かすと、焔狐の細い腕が伸びてくる。
「……なんです?」
「よい。貴一の質問に答える」
言って焔狐はすぅ、と目を細めた。
「貴一。お前は温子を――お前の叔母を、私が喰ったと思っているのだな」
「ち、違うのですか」
「――違う」
焔狐はきっぱりと言い、貴一はこれでもかと大きく目を剥いた。
「私は血肉が嫌いだ。だが喰わねば死ぬ。だから昔お前の家に滞在した時も、今回お前が差し出した巫女と同じく、数日置きに血を飲んだ。――ただそれだけだ」
「そんな……。でも母は……叔母は失踪扱いになっているが……死ん、だ……と……」
「あれは勝手に私についてきたのだ」
言って焔狐は尻尾で地面を叩いた。
「人間を連れて旅などできない。だからついてこられても困ると言った。そうしたら帰るなんて情けないことができないとめそめそするものだから、別の社に預けた」
「別の社に……」
「そうだ。跡継ぎがいないと言っていた社に預けた。それ以降その社に足を運んではいないからな。どうしているかは知らないが、まぁ生きてはいるだろう」
「生きて……!?」
「同じようなことがあるたび、いつもそうしている。預け先は社じゃないこともあるな。そこらの人間に暗示をかけるのだ。――私は人間を喰いはしない」
「は――――」
気が抜けたのか、貴一はふらりと体を揺らし倒れた。だが意識はあるようで、空を見つめながら涙を一筋流した。
「満足か?」
焔狐が訊くと、貴一は静かに頷いた。
「…………ずっと、気がかりだったんです。叔母がどうなったのか……真帆がこれから……どうなってしまうのか……」
「どうにもしない。だからどうにもならない。私はお前達が『喰え』と差し出すから、必要な分だけ貰っただけだ。――いい機会だから言っておこう。貴一よ、お前はもう、私を追うな」
言って焔狐は立ち上がる。
「――!」
「……娘、止めてくれるな。何もしない」
ぴくりと体を動かした夜子の目を見て焔狐は言った。夜子はそれに頷きも拒みもしなかった。ただ黙って――狐を見返した。
「…………」
焔狐はふらりふらりとおぼつかない足取りで貴一のもとへ近寄った。藤と明美がずいと貴一の前に立ったが――それは彼らが守っている張本人によって止められた。
焔狐は崩れ落ちるように貴一のそばにしゃがみ込み、傷口を抑えていた掌を見せた。
「見ろ。私は神ではない。傷を受ければ血を流す。人間ではないだけで、万能の存在ではない」
「……わかっています。私は、わかったうえであなたに――」
憧れたんです――。貴一は消え入りそうな声で言った。
「そうか。なら憧れるのはもう止めろ。今まではお前達が私のことをどう思おうと好きにさせてきたがな……。お前の息子のためにならないぞ」
「………………」
「お前、知っているのか? お前の息子は、私よりよほど尊敬に値するのだぞ」
「――え?」
声を発したのは藤だった。藤は目を白黒させ、焔狐を見ている。
「――藤、と言ったか。貴一、お前の息子の藤は、私にするにはもったいない器だと教えてやろう」
貴一はゆっくりと藤を見上げた。藤はどうしていいのかわからない様子で、目をうろうろと泳がせていたが――やがて決心がついたのか、父の目を覗き込んだ。
目が合ったふたりは泣いた。はらはらと涙を零して――。
冬の夜空に、ふたつの嗚咽が小さく吸い込まれていった。