Scene21
体が燃えるように熱い。
周りの音がどんどん遠くなっていく。まるで水の中にいるかのようだ。耳が雑音を遮断している。
なんとか立ってはいるが、手足に力が入らず、腕はだらりと垂れてしまっている。これではもし何かが起きても対応できない。
どうしよう、と頭の片隅で心配している自分がいるのだが、どうにでもなれ、どうとでもなると投げやりになり吠えている自分も、頭のなかにいた。
力が入らないのは、もしかしたら自暴自棄になった自分が、とんでもない行動をしないよう無意識のうちにセーブしているのかもしれない。――と、わずかに残っている、冷静な思考のできる自分がそう呟いた。
最初、自分に起こった変化の理由が私にはわからなかった。
けれど焔狐が先生を指して――推測でしかないがあっているだろう――それを笑うたびに、カッと体が熱くなった。そうなってやっと、私は怒っているんだ、ということに気がついた。
私は怒りに鈍感だ。
人が怒っていることに対してもだし、自分自身の感情にも。そんな私が、こんなにも「怒って」いるなんて――。
そのことに驚きながら、さもあらんと納得もしていた。
私は自分について言われるのであればいくらでも我慢できる――というか、まったく気にならない。時には不機嫌になることもあるが、それが怒りに変化することは稀だ。だいたいは何を言ってこようが暖簾に腕押しなのだ。
――ただ先生に関することは別だ。
私が生意気なのは先生の教育が悪かったからだとか、幼い頃から現場に連れまわすのは酷いだとか、先生が私のために下した決断を非難されることは許せない。
ましてや先生自身を侮辱されるなど耐え難い。
先生は私の「芯」なのだ。
私なんて言う存在は先生がいなければまずこの世に在りはしない。なんせ私は赤ん坊の時先生に救われなければ、異形に喰われていたのだから。
――私は、一度死んだはずの赤ん坊だった。
それに骨肉をつけ、生きていくために必要なすべてを用意し、ひとつの生き物として作り上げてくれたのは先生だ。
だから――あいつのいう「人形」という例えは、あながち間違いじゃないとは思う。
あいつに倣って、誰かの思想をつぎ込まれた者のことを「人形」と呼ぶのなら。
私は先生に作られ、御守夜子と名付けられた「人形」だ。
そのことは否定しない。
けれども私を作った人形師を嘲ることは許されない。
なぜか――? そんなの当たり前だ。人形が自分を作ってくれた人を無条件に愛して何が悪い。
先生が私を作るにあたり、私のうしろに何を見ていたのかはわからない。直接聞いたことはないが、ぼんやりと誰かを参考にしていたのであろうことはわかる。
だがそれがなんだ。
先生はその人を素晴らしいと思っていて、私をその素晴らしい人と同等に仕立てあげたいと思ってくれたのだ。それは光栄なことじゃないのか。
先生はその人をきっと心底敬愛していたのだ。それを「執着」とは何たる言い様だ。
あいつは「私にはわかる」と言った。「そういう能力」だとも。
その言葉を信じるならば、もしかすると先生の強い思いがあいつには見えたのかもしれない。《異形の者》ならばそのような力を持っていても不思議ではない。
けれどもだからといって、人を軽んじ茶化すような言い方をする必要があるだろうか。
――誰かを蔑むということは、その誰かを大切に想っている人を馬鹿しているのと同じだ。
――誰かの信じるものを嘲笑することは、自分の無知と愚かさをひけらかすのと同じだ。
あいつは自分が神として奉られているくせに、自分が生きるために、自身を崇める者の気持ちがわからないのか。
「…………!」
その時、私は気づいた。
そうか――。わからないのだ、この異形は。
これは私の想像でしかないから、あっているとは限らない。けれども――そうなんじゃないだろうか。
嘲られていると思っているのは私だけで、この異形はそんなことをしているつもりはないんだ。
ただ単に傲慢で、物知らずで、人の心の機微に興味が無いくせに見たままを口にするから――人を怒らせる。
――ああ、だから藤さんは、あいつの腹に風穴を開けたのか。
きっとあいつは藤さんにも私と同じように言ったのだ。
「人形が来た」――と。
それを藤さんはどう捉えたんだろうか。私にははっきりとはわからないが、恐らくまぁ、喜んではいないはずだ。
藤さんは多分――「人間」になりたかった「人形」なんだと思う。
だから苦しんだ。父親の求める人形になってあげたいのに、自分の意思が――それを拒んだから。
私達はいくら人形と例えられても、人間であることに変わりはない。当然感情がある。
自分の意思を無視して人形扱いされることを苦痛に思う人もいるはずだ。
だから人形師と人形の目指す方向性が違った時に起きるのは――悲劇だ。
私は、「人形」でいい「人間」だ。今の自分に満足している。
まだまだ未熟だという自覚はある。だがそれでも先生の作り上げた「御守夜子」として、どこへ出されても恥ずかしくないくらいには自分という存在に自信がある。
私が私を誇ること――。
それが私を作ってくれた先生への最大の恩返しであり、先生の素晴らしさを世に広める行為であると、私は信じているのだ。
ゆえに私は、藤さんとは違う。藤さんに共感することが――できない。
もしかしたら藤さんは、やっと見つけたと思った仲間に裏切られた気分だったのかもしれない。だから自棄になってこんな無茶を――。
(そうか……)
自分の怒りを読み解いていくと、体から熱がスッと抜けた。
頭に上っていた血が下がっていき、手に力が戻ってくる。ためしに拳を握ってみると、指の先までしっかり力が伝わっているのを感じた。
「……私にはわかりません」
狐に問う。私の口から出た声は震えておらず、冷静さを取り戻していた。
「訊こう。何がわからない?」
「……あなたが神として崇められている理由です」
「ふふ……、そのことか。――実は私にもわからない。ただ、私が見たままを言ってやるとたいそう喜ぶ奴らがいる。そういう奴らは私を神と呼び、あれやこれやと私の世話を焼いてくる」
「……なるほど」
私には無い感覚ではあるが、「お前はこうなのだろう」と言い当てられると、肯定されたかのように感じる人がいるのかもしれない。もしくは肯定まではいかずとも、理解してくれたと――錯覚してしまうのかもしれない。
「奴らはなんでか私の面倒を見たがるから、私も時々『礼』をしてやるのだがな? そうしてやると奴らはひれ伏すのだ。面白いな?」
「面白いかは知りません。ですがあなたが神となったことで歯車が狂ってしまった人がいます。私はその狂った歯車を正すため――あなたを捕まえようと思います」
私のもとへ来た依頼は、《異形の者》に成り代わられたかもしれない深田真帆を探し、成り代わられていた場合は然るべき対処をすることだ。
だがその依頼の裏には私を――私達を――役者として組み込んだ台本があった。
正直言って台本通りに動いてしまったことは癪だ。だがそれは私一個人の、一時の感情でしかない。
今私がこの場でやるべきこと――それは真帆さんに変化し、私達を利用してきた藤さんを責めることではない。私がやるべきは、人というものがわかっていないがために、結果として人を弄んだ――この《異形の者》を《機関》へ送ることだ。
藤さんにこの《異形の者》を殺させてはならない。そうなってしまったら、|本当にだめになってしまう《・・・・・・・・・・・・》。上手く説明できないが、そんな気がするのだ。
もともと私に割り当てられた役はこの狐の神を《機関》へ送ることだったようだ。
ここまで来たら、最後まで演じきってやろうじゃないか。
「《機関》のことはご存じですか?」
「……少しな。私を連れていく気か?」
「はい。それが私の仕事です」
「私は窮屈も、ひとところに留まることも嫌いだ」
「流浪の神とあだ名されるくらいなんだから――そうなんでしょうね。ですが私はあなたをこのまま見逃すことはできません」
「融通が利かん奴だ」
「なんとでも。――それに、あなたは酷い怪我を負っています。《機関》で治療を受けたほうがいいでしょう」
「こんな傷、これまでだって何度か受けた。なに、こういうことは案外あるんだ」
「……それはそれは」
「だからこのあと何が起こるかもわかるぞ」
「……どういう意味ですか」
「ふふ……。お前の背にいるものから目を離すな」
狐は気だるげに長い髪をかき上げた。
「こういう時、だいたい人形は自ら壊れる道を選ぶ」
思わず、目を見開く。
そして急いで振り返ったその時――藤さんの周囲から火が上がった。
「――な? 言った通りだろう?」
狐の淡々とした声が、背中から聞こえた。