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***

 私は子供の頃から体が弱かった。


 大きな病気を抱えているわけじゃない。ただ、ちょっとしたことで熱を出し、風邪の時期に寝込むのは当たり前で――また外を走り回るとすぐに倒れてしまうものだから、ろくな運動もできず体力も無かった。

 朝礼など絶対に貧血になることがわかりきっていたから、私はいつも校庭の隅の木蔭で、ひとり皆から離れて座っていた。

 両親はそんな私を心配して色々手を尽くしてくれたが……。よくなる、ということは無かった。

 だが幸いにも家が裕福だったため、体の弱さで困ったことというのはほとんどない。

 家庭教師をつけてもらっていたから、何日も休んでしまっても勉強が遅れることは無かったし、修学旅行やキャンプなど外泊を伴う行事も看護師がついてきてくれた。私の上の学年に訊いたところ、これまでは看護師が学校行事についてくることはなかったそうだから、これは私の親が手配したものなのだろう。

 私はとても恵まれていた。けれども――。


 幸せ、とは言えなかった。


 何かしてもらうたび、気を遣われるたびに、私の心の奥底にある情けなさや申し訳なさがせり上がってきて――苦しくて仕方なかった。

 贅沢な悩みだという自覚はあったから、それを口にしたことは無かったが、とにかく私は、私自身が情けなくて仕方なかった。


 そんな私に一筋の光明が差したのは、私が十二歳の時だった。


 ある日、祖母が大慌てでお社から帰ってきたことがあった。

 うちには代々お世話をしているお社があって――祖母は毎朝そのお社の掃除に行くのが習慣だった。

 祖母は家に飛び込んでくると、「お社の蝋燭に火が灯っていたの!」と叫んだ。

 ちょうど私達家族は朝食のために全員が集まっていたのだが、母も私もなんのことかわからず、ぽかんとしていた。けれども父だけが――それを聞いてこれでもかと目を見開いていたのを、私はよく覚えている。

 その日はそのあと、普通に学校へ送り出された。父は仕事を休んでいた。

 私は学校が終わったら寄り道せずすぐに帰るように言われ、それを話す父の様子がいつもと違うものだから、一体何が起こるのかと酷く緊張したものだ。


 うちがお稲荷さんを信仰しているのは知っていた。

 家の隣にある公園の片隅には小さな社があって、毎年正月には家族で挨拶に行っていたからだ。

 鳥居も無い本当に小さな社で、私は他の神社と全然違うものだから、幼い時祖母に訊いたことがあった。

 ここの神様はどんな神様なのか――と。

 すると祖母は、ここに祀られているのは狐の神様で、他の神社にいる神様とは少し違うのだ、と教えてくれた。

 その時、どう違うのかは教えられなかった。私もそうなのかと納得し、深く追求しなかったからだ。

 ――だが。


 社に蝋燭が灯った日の晩、私は我が家に祀られている「神」について、今度こそすべてを知ることとなった。


 神の名は「焔狐(ほむらぎつね)様」。

「焔狐様」は周防家の先祖を救った恩人で、周防家は「焔狐様」をお祀りすることで繁栄してきたのだという。

 また我が家以外にも「焔狐様」を信仰する人達がいて、「焔狐様」はその人達のもとを順に旅しているのだそうだ。

 そのお姿は狐と人を混ぜたようもので、火を自由自在に操ることができる。社の蝋燭は旅する神である「焔狐様」が、近々その社を訪れる徴だそうだ。

祖母は言った。「焔狐様」が社に立ち寄る時に「おもてなし」をすれば、先祖の恩返しもできるし、一族は更に繁栄していくのだ――と。


「そんな……。神様だなんて……。そんなのにわかには信じがたいです……!」

 母はそう言って父に詰め寄った。

「それはそうだろう。お前の気持ちはよくわかる。――実際、焔狐様は神ではない。《異形の者》だ」

「《異形の者》……!」

 母は絶句していた。当時は《異形の者》への偏見が今以上に強かったのだから当たり前だ。私だってその話を聞いた時、「《異形の者》ごときを崇めるなんてどうかしている」と父へ冷たい目を送った。

 父は言った。

「焔狐様は《異形の者》だ。だが《異形の者》の持つ力のおかげ(・・・・・)で今の私達があるといっても過言ではないのだ。――まぁ、焔狐様のことは、実際お会いしてみればお前達もわかるだろう」

 その日から、「おもてなし」のために父と祖母は毎日忙しそうにしていた。置いて行かれたのは母と私だけだった。

 そして――――。


 あの日がやって来た。


 その日は朝から祖母と父――それから普段は離れて暮らしている叔母までもがうちに来て、三人はバタバタしながら客間に引き籠ってしまっていた。

 私と母はやることもなく、けれどもどこか異様な雰囲気に怯えながら、すべてが終わるのを待っていた。

「貴一、大丈夫だからね」

 と抱きしめてくれた母がわずかに震えていたのをよく覚えている。

 私はその時、何を考えていただろうか。怖がってはいなかったように思う。不安――だったのか。いや、それもまた違うような気がする。

 ただ、母が怯えていてかわいそうだ、とは思っていた。

「貴一、お前も来なさい」

 日が暮れはじめた頃、客間に籠っていた父が出てきて私を呼んだ。母にもついてくるよう、父は声をかけていたように思う。

 母は始め嫌がっていたが――私が大人しく立ち上がったものだから、渋々父のあとをついて客間へ向かった。息子をひとりで行かせたくなかったのだろう。

「失礼します」

 座礼の体勢で待つよう言われていたから、私は床の木目をじっと眺めながら待った。襖が開き、顔を上げるよう父に言われるまでじっと。

「こちらが『焔狐様』だ」

 いったい何が客間にいるのか――。ほんの少しの好奇心を胸に、私はゆっくりと顔を上げ、驚いた。


「お前が貴一か」


 そう言葉を発した人物が、とにかく美しかったからだ。

 客間の上座に用意された座椅子の手すりに、しなだれかかるようにして座っているその人は、女のような繊細な顔つきで、けれども男のようにがっしりとした体つきの不思議な人だった。

 声も女のようで男のような、美しくも奇妙な響きを持っていた。

 そして何よりも奇妙だったのが、天に向かってピンと立った狐耳だ。よく見ればひざ掛けかと思っていたものはその人の尻尾で――豊かな毛並のそれは、私の視線に気づくと、ふわりと揺れた。

「――……」

 私はあんぐりと口を開けたまま、ただ頷いた。

 父にその態度を咎められた気がしたが、私はすべてのパーツが完璧な位置に収められている顔に見とれていたものだから、結果的に無視することとなった。

「……焔狐様……ですか?」

「いかにも」

 その人はニィっと口の端を引いて笑った。肌が白いのに口の中が真っ赤で、それがまたあまりにも鮮烈な色で――ぼうっとしていた私は、その時になって「ああ、この人は『人』ではないのだ」と実感した。

 そして部屋の中を見回す余裕がようやくできて、焔狐様に釘付けになっていた私の視界が広がり――気づいた。


 叔母が、巫女服を着ている。


「――……」

 私が叔母に目をやると、叔母も視線に気づいたのか目が合った。

「……」

叔母はにこりと柔らかな微笑みを私に返してくれた。その笑みは、心底幸せそうなものだった。

 この時は結局、焔狐様が叔母と一緒に消えるまで、叔母が巫女の恰好をしていた理由はわからなかった。ただ、叔母は焔狐様のお世話を任されたのだと聞かされていた。

 ――それはのちに私が成人し、家を継ぐことが間近となった時、方便だったと知ることとなる。


「周防、貴一です」

 私と母は父から挨拶を促され、焔狐様の前でもう一度頭を下げた。すると、祖母と叔母が立ち上がり、連れだって部屋を出ていった。

 父も――母と一緒に客間をあとにした。母は「どうして……!?」と小さな声で抗議していたが、それは完全に黙殺された。


 ――私は、焔狐様とふたりきりになった。


 その時焔狐様と交わした言葉は、今でも一言一句覚えている。

 焔狐様は私のような貧弱な人間とは違って、生命力に満ち溢れていた。対面しているだけでそれがしっかりとわかる。オーラなどという言葉で表現するのはあまり好きではないが、溌剌としたエネルギーがあった。

 それに子供のくせに青っ白くて張りの無い私の肌と違い、焔狐様の肌は瑞々しくきめが細かかった。年など覚えていないと仰られるほど長く生きているというのに、老いなど一切感じられない。


 そして何より、焔狐様は瞳が美しかった。


 見ていると吸い込まれそうになる紅茶色の瞳には知的な光が灯っており、あの人の目を見ているとどこかふわふわした気分になった。

「あ、あの――……」

 私は焔狐様の前で、様々なことを話した。


 自分の体が弱いこと。

 それをコンプレックスに思っていること。

 焔狐様を見て、美しさと生命力に感動したこと。

 あなたのようになれれば――そう思ったこと。


 焔狐様は薄く笑みを浮かべ、時折頷きながら私の話を聞いてくださった。

 そして私が話し終えると目を細め、

「励むがよい」

 とお言葉をくださった。

 私はそれが嬉しくて、「はい!」とこれまで出したことのない大きな声で返事をした。

 するとそれが合図だったかのように襖が開き、再び父と祖母、叔母、それから最後に母が部屋に入ってきた。

 父、祖母、叔母はしずしずと礼をし――遅れて母もとまどいながら頭を下げた――、父は私の名を呼んだ。

 大人しく父のもとへ行くと、父と祖母は再び礼をした。私と母もそれに倣って頭を下げた。


 そして、客間をあとにした。――叔母ひとりを残して。


 それからひと月のあいだ、焔狐様は客間にいらっしゃり、私は毎日あの方のお話を聞きに行っていた。それはそれは楽しいひと時だった――が、ある日いつものように客間を開けると、そこには誰もいなくなっていた。また旅に出られたのだ、と父は言っていた。


さらにその日を境に――焔狐様のお世話を担っていた叔母も姿を消した。


 そのことについては、父も祖母も誰も何も言わなかった。


◇◆◇

 焔狐様が去ってから、父と母はよく喧嘩をするようになった。

 ――いや、喧嘩というのは違うかもしれない。

 ただ母が悲しそうな顔であの日――焔狐様が去り、叔母がいなくなった日だ――のことを父に尋ねては、その答えを聞き塞ぎこんでしまうようになったのだ。そのやり取りは決して私の前ではされなかったため、何を話していたのか詳しい内容まではわからない。

 だが、母はきっと、焔狐様のことが受け入れられなかったのだ。

 結局母は亡くなるまで社に近づくことは無かったし、すでに亡くなっていた父と祖母に代わり社の管理をしていた私に、社を壊してしまうよう言い遺した。

 体の弱い私をいつも看病し、最期の時まで心配してくれた母。

 私は母に感謝した。本当に、心から。

 けれども、社を捨てることはできなかった。

 焔狐様に初めて会ったあの時から、私の心のなかには焔狐様がいるのだ。

 結局病弱なのは成人してからも変わらず、私は焔狐様のような人にはなれなかった――が、それでもあの方は私の拠り所で、憧れだ。


 そして初めて出会ったあの日以降、焔狐様が我が家の社を訪ねることはなかった。焔狐様は気まぐれなお方だ。もう今生でお会いすることは適わないかもしれない。

 されどあの方が私の「光」であることは変わらない。私はあの方の光に追いすがって残りの人生を生きていこう――そう思っていた。

 あの時までは。


 明美と出会ったのだ。


 明美は聡明で自分の芯を持った強い人だ。私に足りないものをたくさん持っていて、けれども私が足りないからといって見下すことも無い優しい人だった。

 私はすぐに彼女に夢中になった。

 幸運なことに、彼女も私を好いてくれて、多少の障害はあったが――彼女の実家が難色を示していたのだ――私達は生涯を共にすることを誓い合った。

 もちろん、すぐに彼女との結婚を決めたわけじゃない。

 感情としては彼女と一緒になりたかったが、それを考えるたび、母のことがいつも頭によぎったのだ。

 焔狐様の件があって以降、ずっと苦しそうだった母――。

 父は母に自分と同じように焔狐様を慕って欲しかったようだった。――しかし、母は焔狐様のことを受け入れることができなかった。父と母は当時としては珍しく恋愛結婚で、お互いを好いているのに焔狐様のことだけは譲れず――苦悩していた。


 だから私は、焔狐様のことを彼女に素直に話した。


「……少し考える」

《異形の者》を神と崇める我が家――いや、私の告白を聞いた彼女は、そう言ってその日のデートは途中で帰ってしまった。

 私は彼女に振られる恐怖に怯えながら一晩過ごした。そして翌晩彼女に呼び出された私は、別れを告げられる絶望を感じながら、待ち合わせ場所に向かった。すると――。

「あなたが何を信じようがあなたの自由だ。私はその『焔狐様』とやらを信仰する気は一切無いが……。でも、私はあなたのことを好きになった。理解はできないが、それでもそばにいたいと思う」

 彼女は――明美はそう言ってくれた。


 そうして私達は夫婦になった。


 彼女との生活は幸せそのものだった。

 相変わらず私は寝込みがちだったが、親が残してくれた遺産のおかげで暮らしは苦しくなかった。彼女も働きに出ていたし、私達はどちらかと言えば裕福だった。

 何不自由ない夫婦生活を私達は送っていたのだ。

 ただ――。

 私達のあいだには子供ができなかった。

 結婚を視野に入れ始めた頃から、子供が欲しいという話をふたりでよくしていただけに、これはショックだった。

 けれどもそれはそれで運命だ――と、彼女があっさりしていたから、特に病院に通うこともなく、私達は年を重ねていった。

 それは静かだが、確かに幸せな日々だった。

 だが私はいつも心の奥底で、彼女と一緒に子供を育てられたら――と未練があった。彼女はすっかり気持ちを切り替えていたようだが、私はうじうじとしたところがあり、そう簡単に諦められなかったのだ。

 罪悪感もあった。子ができないのは、体のあちこちに問題がある私のせいではないかと。

 そして――私亡きあと、焔狐様の社を管理する者がいなくなるのも気がかりだった。

 私は鬱屈したものを抱えながら過ごしていた。だがある日、ついに出会ってしまったのだ。


 ――あの子に。


 藤棚の下で光り輝くそれを拾い上げた時、私は石だと思った。しかしその石がわずかに熱を持っていることに気づいた瞬間――石は、赤ん坊になった。

 もと(・・)が何であれ赤ん坊の姿をしたものを放ってはおけず、私達はその子を連れて帰り面倒を見始めた。

 ――藤、と名前をつけて。

 藤を育てるのは、それはもう大変だった。――が、それは人間の子を育てる他の親も同じだろう。

 図らずも私達は親になった。


 そして私は――藤は、焔狐様からの授かりものだと思った。


 明美は「そんな馬鹿な」と眉を寄せたが、私にはそうとしか思えなかった。藤を見つけたのは社の敷地内だし、何より藤は妖狐の異形(・・・・・)だったのだ。

 実際成長するにつれ、あの子は焔狐様のお顔とよく似た顔つきになっていった。

 私は確信を持った。――やはり、そうなのだと。だが明美は、「ほらどうだ」と言う私に、

「それはあなたがそう望んだからだ」

 と返してきた。

 彼女の言葉の真意はわからない。わかるのは藤が焔狐様に似ていることを、明美は喜んでいないということだ。

 しかしだからといって藤を可愛がらないわけではなかった。むしろ明美は母として時に厳しく、そして温かく藤を育て上げたのだから。

 その甲斐あって、藤は心身ともに「理想的な良い子」に育っていった。

 だからだろう――。私は「欲」が出てしまった。


 この子なら、私がなれなかった(・・・・・・)焔狐様に――。


 ひ弱な私ではいくら憧れても目指しても、焔狐様のようにはなれない。だが藤ならば。健康な体を持ち、さらに異形という同族である藤ならば、焔狐様に近づける。――いや、なれる(・・・)

 迷いはなかった。この子にはそれだけのポテンシャルがある。

 しかしやはりと言うべきか。これは、明美には理解してもらえなかった。

「藤が『焔狐様』になったからなんだというんだ。あなたは藤が『焔狐様』になったとして、どうしたいんだ」

「憧れて、目標にする。それはいいと私も思う。だけどそれを自分の子に強いるのは違う。藤とあなたは違う人間……別個体だなんだぞ」

 ――違う。私は強いてなどいない。強いてはいないんだ明美。

「藤は賢い子だ。あなたの考えなどとうに察している。察したうえで、あなたの期待に応えようと頑張っている」

「あなたは素晴らしい人だ。どこまでも優しくて温かい。だから私はあなたのことを――……!」

「貴一、あなたはあなたでいい。それを認めてあげて。そして、藤のことも」

 折に触れ明美は諭すように言った。私はそのたびに彼女の藍色の瞳から目を逸らしてばかりいた。

 だが、ついに逃げてはいられなくなってしまった。


 社に、蝋燭が灯ってしまったから――。


 明美は言った。

「これから私は、私の考えのもと行動する。私は藤が大切なんだ。――藤のためなら、なんでもする」


(それはもちろん、私だって――!)

 喉まで出かかったその一言は、私の口から言葉として出てきてはくれなかった。

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