Scene16
記憶のなかにある母は、いつも凛としていて、背筋のまっすぐ伸びた美しい人だった。
――いつからだっただろう。
その意志の強そうな瞳に陰りが見え始めたのは。
記憶のなかにある父は、朗らかで柔和な笑みを浮かべた優しい人だった。
――いつからだっただろう。
僕を見る目に、焦りが映るようになったのは。
初めは上手くいっていた。僕達は本当に「良い家族」だった。
――いや、今でも「良い家族」だ。それは間違いない。
ただ、どこかの段階で少しずつ歯車が狂って――こんなことになってしまった。
僕は、父の期待に応えたかっただけなんだ。
そのせいで母が苦しそうな顔をすることを知っていても、僕は父の理想に近づくことを止められなかった。
真帆に「いい加減止めろ!」と怒鳴られても、何も間違ってないからと笑ってごまかしてばかりだった。
――本当は、僕も心のどこかでこうすることが正しいのか疑っていたくせに。
僕はただ――父に喜んでもらいたかった。誇りに思ってもらいたかった。
だから疑いつつも、この道を盲目に進むしかなかったんだ。
道の先にあるのが断崖絶壁だとしても、いずれ落ちてしまうことがわかっていても、歩みを止めることなんて――僕にはできなかった。
だからこそ、お嬢さんのことを知った時は嬉しかった。
僕の歩んでいる道は間違っていなかったのだと、確信を持てた。
お嬢さんは僕と同じだ。
僕と同じで、本当の親がいない。
僕と同じで、育ての親を敬っている。
僕と同じで、養父が崇拝している人物になるよう育てられた。
つまりお嬢さんは僕と同じなんだ――!
僕はお嬢さんのことを知れば知るほど、彼女にのめりこんでいった。
お嬢さん自身はあまり表だって出てくることは無かったけれど、その養父についての情報は山のようにあった。僕はそれらをかき集め、胸躍らせながら読みこんだ。
ある本には、お嬢さんの基となった人物がいかに素晴らしい人だったのかが詳しく書かれていたのだが、のちに実際お嬢さんと会った時、僕は彼女が本に書かれた「偉人」をあまりにも正確に再現していることに驚いた。
またとあるインタビュー記事を呼んだ時、直接明言はされていなかったが、養父はお嬢さんに多大な期待を寄せていることが読み取れた。そしてお嬢さんのそばにいてわかったが、お嬢さんはその期待をプレッシャーに感じておらず、のびのびと生きていた。
ああ、なんて素晴らしい――。
養父の期待通りに完成し、養父もお嬢さんの仕上がりに満足している。
それは、僕の理想そのものだった。
――だから僕は、確信を得た。
今は苦しくとも、きっと僕達家族も最後は収まるところに収まるはずだ。
母は僕が父の理想になることを苦々しく思っているようだが、僕が完璧に体現できさえすれば、きっと認めてくれるだろう。
――だって、お嬢さんは認められているのだから。
真帆だって、きっと最後には理解してくれるだろう。
――だって、お嬢さんは否定されていないのだから。
僕とお嬢さんはよく似ている。
まるで永遠に終わらないトンネルを歩いているような気分だった僕にとって、お嬢さんの存在は希望だった。
だから僕だって――いつかきっと、お嬢さんのようになれるはず。
そう信じていたから、あの日の父の話と――母からの提案には困惑した。
悩みに悩んで真帆に相談すると、真帆は母の意見に賛同した。
そして僕は――――。
結局、どうすることが正しかったのかはわからない。それでも巻き込んでしまった親友だけは、助けなければいけないと思った。
ああ、お嬢さんが言っていた通りだ。
僕がお嬢さんと似ているだなんて、おこがましいったらありゃしない。
さようなら、儚い夢よ。
――僕はいったい、何者になってしまったんだろう。