Scene15
「そりゃあまずいな」
それまでリズミカルに叩かれていたキーボードの音が、ぱたりと止む。
「やっぱり、そうですよね……」
夜子が眉を下げ言うと、琴浦は静かに頷いた。
「お前の話を聞くかぎり、藤はしっかりこの事件の関係者じゃねぇか。関係者を捜査に加えるのはよくない」
「でも、藤さんは真帆さんを助けたいって意気込んでるんですよ」
「その意気込みはわかるよ、俺も。でもなぁ……」
夜子は頬杖を突き、「私だって言いたいことはわかります」と呟く。
「ただ……。いろんなことがあったから」
夜子の頭に、昼間聞いた藤の話が蘇る。
「だなぁ……。ま、百歩譲って、藤が深田の友人だってのはいいとしよう。――問題は火之の話だ。これが偶然だと思うか?」
「……はい、とは言えませんね。残念ながら。周防家の神と、火之さんが訊いた流浪の神は同一人物かもしれないと……疑っていいと思います」
言って夜子は、静かに俯く。顔に長い睫毛の影がかかった。
「俺もそう思う。――というか、俺の『勘』ではこいつらは百パーセント同一人物だよ」
琴浦は無精髭をさすりながら目を細める。
するとこれまで黙ってふたりの話を聞いていた鈴切が、「勘……」とぽつりと呟いた。
「ああ、『勘』だ。――なぁ、夜子はどうだ? 何か感じるところはないか?」
夜子は横目で気だるげに義兄を見やる。そして、こくりと頷いた。
「考えてみれば俺達、周防家のことを何も知らないな」
前髪を掻き上げながら琴浦が言う。眉間には皺が寄っていた。
「つーか、今回の捜査。俺達どっかおかしかったな。なんてーかさ、『らしく』なかった」
「『らしく』ない?」
夜子が訊くと、琴浦は頷き――ちらりと鈴切に目をやった。
「いつもならさ、俺達は受けた依頼に関係しそうであれば、それこそなんでも調べるだろ? それが関係あるかないかは、あとから考える。とりあえず徹底的に情報を集める――それが御守流ってやつだ。だけど今回は、穴がいくつもあった」
「穴?」
「ああ。――例えばだ。俺達は深田真帆のことは調べたけど、深田家の交友関係までは調べなかった」
「それは違います。私、ちゃんと――」
「じゃあなんで、深田家と周防家に深い繋がりがあることは調べなかったんだ?」
「……すみません」
「まぁまぁ、琴浦さん」
助け舟を出したのは、鈴切だった。
「それは僕らみんなの責ですよ。僕らはチームなんですから。周防明美さんが深田さんにうちを紹介をした、だから両者は知り合いなんだろう、で思考停止していたのはみんな一緒です」
「もちろん。夜子だけのせいだとは言わねぇさ。全員なぜかそれに考えが至らなかったんだ。全員の責任だよ」
そこまで言って琴浦は、でもな――と声を低くした。
「やっぱり気になるんだよ、俺は」
「何がですか?」
「夜子……。なんで俺達はさ、今回中途半端な捜査をしてしまったんだと思う?」
「それは……。私個人のことであれば、依頼を受ける時に婚約話が浮上したりして、捜査に集中できていなかったのかもしれません。……プロ失格ですが」
「なるほどな。それに加えて俺はこう思う。――意図的に話がそらされていたんじゃないか、ってな」
「そんなのいったい誰が――……」
そう言って夜子は、目を大きく見開いた。
「可能性の話でしかないが、例えば周防家と深田家の関係は、藤が話すまでは俺達に『必要のない情報』だったんじゃないか? だから『与えられていなかった』『与えないようにしていた』とは考えられないか。――鈴切、このあいだの舞台の話だが」
名前を呼ばれ、鈴切は静かに頷いた。
「その『シーン』までは、周防家と深田家が旧知の間柄であることは、演出上必要なかったということですね。むしろ、知らないほうがいい演技ができる情報だったんだ」
「ああ。だから、敢えてそれに触れないよう、公演を進めてきた」
「――ちょっと兄さん? 舞台とか公演とか、何の話です?」
眉間に皺を寄せ、夜子は小首を傾げる。琴浦は「例え話だよ」と指を組んだ。
「前に鈴切と話したんだけどさ、今回の依頼は舞台みたいだって」
「なぜです?」
「んー……。『用意された依頼』って感じがするから……だなぁ。この事件には台本があって、俺達は役者で――……。俺達はその舞台が滞りなく進むよう動かされているような気がしたんだ」
夜子は口元に手を当て、何か考えるかのように目線を落とした。そして小さく頷き、
「なるほど。だから私達は――……」
少女は顔を上げると、兄を見やった。
「それにしても知らないほうが『いい芝居』ができる情報――ですか。だとすると藤さんが今日話してくれたことは、今後の展開において必要な情報――私達が知っていたほうが、進行に都合がいい情報ということになりますね」
「だな」
「でも――」
言って鈴切は首を傾げる。
「その話を夜子ちゃんにすることに何の意味があるんだろう。火之さんの情報があったから、僕らは『腹を空かせた狐の異形』『それを神と崇める者達』の関連性を周防家に見出したわけでしょう? もし火之さんの話を知らなければ、僕らは『藤くんも色々大変だったんだなぁ』くらいにしか思わないんじゃ?」
「さすがにそんなお気楽じゃねぇよ……。まぁだからといって今回の件に話を繋げたかはわかんねぇけど」
「――――……」
ふたりの話を聞きながら、夜子は静かに考える。
夜子は藤から「羨ましい」――そして「理想を再現すべく育てられた」と言われたことを、ふたりに話してはいなかった。
理由は自分でも上手く説明できない。ただなんとなく、藤の心の柔らかい部分に触れるような気がして、話すべきではないと思ったのだ。そして――。
『理想を再現すべく育てられた』
この言葉だ。
(藤さんは多分、先生のこともよく調べている。だからああいう言葉が出てくるんでしょう)
夜子は知っている。養父が自分の背後に誰かの姿を見ていることを。――そういえば藤も似たようなことを言っていた。
(ああ、だから『似ている』……か)
夜子はそう言われることに何の感情も抱かなかった。だが兄達にこれを説明するとまた違った感想を持ちそうだ。やはりこの件については自分の胸に秘めておくのがいいだろう。
「そうだなぁ……」
ぼんやりと夜子が藤の言葉を思い返していると、琴浦が口元に手を当て呟く。琴浦と鈴切のふたりは話し合いを続けていたのだ。
「俺だったらな、ここでその情報を流すのは俺達――特に夜子に、藤への同情心を煽るために、だな」
「何のためにです? 私、情けで目が曇るような人間じゃないと自負していますけど」
心底不思議そうに夜子が首を傾げると、琴浦と鈴切はお互いの顔を見合わせ困ったように笑った。
「なんです?」
「いや、お前、自分のことを鉄仮面だと思ってる節があるけどさ、全然そんなことないからな?」
「鉄仮面だなんて……思ってないですけど」
不服そうに夜子が眉根を寄せると、鈴切が「えっと」と切り出した。
「さすがにそこまでじゃないとは僕だって思うけどね? 夜子ちゃんって普段自分のことをガチガチの論理人間で、理に合わないことはしないし、するべきじゃないってタイプだと考えてると思うんだけど」
「まぁ、そうですね」
夜子が頷くと、ふたりの男はまた顔を見合わせ笑った。――今度は、柔らかな笑みだった。
「そこが違うんだよなぁ。――ま、一見するとそうだろうさ。けど、俺達くらい夜子と付き合いが長ければわかっちまうんだよ」
「ですねぇ」
自分を差し置き頷きあっているふたりに若干苛立つものを感じながら、夜子は「だからなんなんですか」と男達を軽く睨んだ。
「つまりさ、夜子。お前は自分が思っているより感情的だし――いい奴だってこと」
琴浦は言って頬杖をつく。
「だから情に訴えるのは無駄じゃない。むしろ順序を踏めば効果的だ」
そして遠い目をしながら呟いた。
「藤は、夜子のことを本当によく調べたんだなぁ」
室内に沈黙が訪れた。
三人それぞれ考えていることはあった。けれどもそれを口にしてしまえば、確実に「敵」が生まれることを全員知っている。だから、誰も言葉を発すことができなかった。
「とりあえず、だ」
沈黙を破ったのは琴浦だった。
「申し訳ないが、藤には今回の件は外れてもらおう。あいつが――いや、周防家が何を考えているのかがはっきりしない限り、捜査に加えるのは危険だ。それと夜子」
「はい」
「深田さんがお前を指名してきたから、今回はお前主体でやってきた。だけどその指名自体に何らかの意図がある可能性がある。だからこれからは、俺主導でやらせてもらう」
「それは……」
夜子は丸い目を見開き、兄を見た。
「不服か?」
「いえ……。兄さんの言いたいことはわかります。ただ、私にと頼まれたことを投げ出すのに、少し抵抗があっただけです」
苦々しげに夜子が言うと、「それは違うよ」と鈴切が柔和な笑みを浮かべた。
「夜子ちゃんは投げ出すわけじゃないよ。ただ、僕達の目的――真帆さんを見つけ出し、助けられるなら助ける、残念ながらそれが無理だった時は《異形の者》を《機関》へ送るか排除するかってことだね――それを達成するために、陣頭に立つメンバーを変えるってだけだから」
「――……」
夜子はじっと鈴切を見つめた。そして眉間の皺を薄くさせ、口角をわずかに持ち上げた。
「……わかってます。これからは兄さんの指示に従って動きます」
「――よし。じゃあ、改めて今後の方針を決めるか。まずは藤だな。今日はもう遅い。連絡は明日にしよう。それと――美沙にも連絡を入れとくか」
「美沙さん? なんでです?」
夜子が意外そうに眉を上げる。
「流浪の神は火を扱うって火之が言ってたんだろ? だったら水の気を持つ美沙の力が役立つ場面があるかもしれない。――あいつは人間性には難ありだけど、力の使い方は一流だからな」
琴浦は複雑そうな笑みを浮かべ言った。夜子と鈴切は思わず顔を見合わせ、肩を竦める。――琴浦の言うとおりなのだ。
「つっても美沙の出番はまだ先だろうな。――ひとまず周防のことを洗いなおそう。それから先生に御守のこと……つーか明美だな。明美がどんな奴なのか訊けるだけ聞いておこうか」
「まぁ、先生も明美さんのことはよく知らなさそうですけどね」
「でも何か出てくるかもしれないだろ? ――鈴切、先生と山本さんは何時に帰ってくるんだ? もう遅いけど」
「確か十時頃には家に着くはずって、さっきメールが――」
そう言って鈴切がパソコンを覗きこんだ――その時だった。
「――!」
事務所内に、電話の音が鳴り響いた。――同時に、三人に緊張が走る。
営業時間外の電話、特に夜かかってくる電話は大抵が不吉な知らせだ。そうでないとしても、喜べるような連絡ではないだろう。
「……僕が出ますね」
言って鈴切が受話器を取った。
「はい、御守探偵事務所で――え、あ、深田さん?」
鈴切は驚き、無意識に夜子と琴浦を見た。
「はい……はい……」
受話器からはかすかに男の焦ったような声した。
「――えっ!?」
そしてそれを聞いた鈴切は――驚愕の声を上げた。
固唾をのんで鈴切を見守っている夜子と琴浦の体に力が入る。――ああ、よくないことが起こっている。ふたりはそれを悟った。
「ま、真帆さんが!? し、少々お待ちください……! 御守に伝えます……!!」
電話の保留ボタンを押したのだろう、爽やかなメロディが電話口から流れ始めた。
「鈴切……」
緊張した面持ちで夜子が訊く。――と、鈴切は困惑の色が見える瞳で、夜子と琴浦を交互に見た。
「何があった?」
「……それが」
「深田さんの家に、真帆さんから電話があったそうなんです。真帆さんは自分の居場所を告げて、助けてくれと……」
夜子か、琴浦か。それとも両方か。誰かが息を呑んだ音がした。
「あの……、琴浦さん、夜子ちゃん」
鈴切は困ったように眉尻を下げ、ふたりの名を呼ぶ。
「深田さんはこの件を、まず周防さんに報告したそうです」
「……おいおい」
琴浦の大きな溜め息が、事務所内に広がった。
「……それで藤くんは一足先に、真帆さんが伝えた場所へと向かっているそうです」
鈴切はそう言うと、ゆっくり受話器へ目を落とした。