Scene10
「義母はあの日――『真帆が狐に憑かれた』って騒いだ日ですけど、あの日は前からうちに泊まりに来る予定になっていたんです。だからたあの日はまたま家にいただけで……。普段は同居していないんです。すみませんね、せっかくお越しいただいたのに……。義母の話を聞きに来てくださったんでしょう?」
「いえ、おふたりからお話を聞くことができれば十分です。こちらこそ突然押しかけて申し訳ありません。どうぞお気になさらず」
「そうですか……。まぁ、お座りになってくださいな」
深田家のリビングに通された夜子は、真帆の母――深田理恵子に促され、布張りのソファに腰掛けた。
「失礼します」
夜子の右には琴浦が座る。藤は――ソファに腰掛けず、夜子の斜め後ろに立った。
「実は母の言うことを私達はあまり信じておりませんで……。なんせ母は目が悪い。それなのに電気もついていない部屋のなかで、真帆が変な姿になっていたと言われても、見間違いか寝ぼけていたかとしか思えませんでした。いくら冷蔵庫の明かりがあったとはいえ……なぁ?」
真帆の父、深田幹夫は妻にそう言って同意を求める――と、理恵子も申し訳なさそうな顔をして頷いた。
「主人とお義母さんと一緒に真帆の部屋に行ったら、真帆は普通に寝ていたからねぇ……。それに『狐に憑かれた』なんて突拍子もない話、急には信じられませんよ。――でも」
理恵子の目が藤へと移る。見られていることに気づいた藤は、にこり、と愛想笑いを返した。
理恵子は藤の笑みにどこか安堵したように表情を緩め、「明美さんとのことがあったから」と言った。
「――というと?」
夜子が問うと、理恵子は「ご存じかとは思いますが」と切り出した。
「周防さんのお家とうちは昔から家族ぐるみの付き合いがあるんです。――周防さん、お隣に住んでいたんですよ」
ねぇ、と理恵子が藤に向かって言う。それを受け藤はうんと頷き、
「真帆が小学校を卒業する時までは、僕達はこのマンションに住んでいました」
と身をかがめ夜子に伝えた。
「その時から今に至るまで、周防さんにはよくしてもらってるんです」
理恵子は再び話し始める。
「あれは去年の年末に明美さんとふたりで、ちょっとした忘年会をした時のことです。どういう話の流れだったかは忘れたんですが……。《異形の者》についての話が出て」
ちらり、と理恵子が藤に目をやる。
「明美さん、《異形の者》には色々とお詳しい人だから……。その時のお話はとても勉強になりました。特に我が子が知らぬ間に《異形の者》に成り代わられていたという話は……事件の顛末も含め、とても印象に残っていて。――私にも子供がおりますから」
「……真帆と連絡が取れなくなった時、妻はこの時の話を思い出したんです。なんでもその時聞いた話によると、《異形の者》に成り代わられた子供は、夜な夜な姿を消したということだったので……。なんとなく、私達の状況と似ているところがある気がしたんです」
「それで私、明美さんに相談をして……。そうしたら明美さんは、『もしかしたらこれは警察に連絡するよりも《探偵》に相談したほうがいいかもしれない』と助言してくださったんです」
幹夫は妻の言葉に頷き、
「『親戚に評判のいい《探偵》がいるから、その人を紹介する』とも仰ってくれて。それで御守さんにご連絡をしました」
「そうでしたか……」
なるほど、そういうことだったか――。
夜子はここにきてようやく、深田が自分達を頼ってきた理由を知ることができた。ただ、明美がなぜ夜子を指名したのかはわからないが――高齢である夕に頼むのは不安があったのだろうか――、それでも少しずつ絡まっていた糸が解けていく感覚があった。
そしてそれを解くと少しだけ――捜査が進展したような気もした。
(なんででしょう……。真帆さんの件とは直接関係無いはずなのに……。私はこの経緯を知っておかなければならないような……)
そんな気がしたのだ。
「ごめんなさいね。こんな話大切なことだとは思ってなくて……。ご依頼した時話しておけば良かったかしら」
「それは……。お婆様のお話を疑っていたことも、ですか?」
鈴切が尋ねると、理恵子は困った顔をして頷く。
「はい……。言いにくかったのです。お義母さんの話はどうにも現実味が無くて……。真帆がいなくなったことは現実に起こっているけど、真帆が憑かれたなんていうのは……妄想の類に思えたんです」
「それは……わからなくもないですが……」
鈴切が言う。すると責められたように感じたのか、理恵子は「すみません」と小さな声で謝った。
「い、いえ……。謝られるようなことでは……。こちらこそ申し訳ありません……!」
鈴切は勢いよく頭を下げた。この男には本当に悪気が無い。ただ、恐ろしい思いをした老婆の言が身内に信じられていないというのが、少し悲しかっただけだ。
「鈴切」
夜子は琴浦の肩をぽん、と叩く。
「助手が失礼を致しました。娘さんの行方が知れないというのに、込み入ったことを――」
そして自らも頭を下げた。
「そんな、おふたりともやめてください。謝られるようなことではないんです」
理恵子は焦ったように言い、顔を上げたふたりを交互に見ると、「実は」と切り出した。
「なんだか不思議なんです。真帆がいなくなって、真帆の姿をした《異形の者》がいたと報告を御守さんからいただいて……。ほぼ真帆は……その……《異形の者》に成り代わられたことが確定したわけでしょう?」
「いえ、そういうわけでは」
確かに成り代わられた可能性は高いが、絶対というわけではない。
鈴切が理恵子をフォローするように言う――と、彼女は静かに首を横に振った。
「いいんです。私達も《探偵》さんにご依頼して以降、自分達なりに《異形の者》に関することは調べてきたので……。大体そうなんでしょう?」
そう振られた鈴切は助けを求めるように夜子を見た。夜子は――。
「はい」
と、短く答えた。そこに鈴切は何の感情も見出すことはできなかった。冷たく突き放すわけでもなければ、優しく慰めるような声音でもない。ただ単に、事実のみを告げるひところだった。
(よ、夜子ちゃん……!)
鈴切の胸にわずかに不安の染みが落ちる。夜子のどこまでも公平な物言いは、この場面にふさわしくないように鈴切には思えたからだ。行方知れずの娘を探す母親に、こんな答えは――不安を煽るだけではなかろうか。
「ですよね」
けれども理恵子は発したのは、鈴切には意外な言葉だった。
そしてもうひとつ驚いたのが、
「――でも、やっぱり不思議」
と首を傾げてはいるが、理恵子が決して悲しそうでは無かったことだった。
「《探偵》さんにはっきり言われたのに、なんで……」
「あの、不思議……とは? さっきも仰っていましたよね?」
夜子が訊くと、理恵子は幹夫と顔を合わせた。
「ええ……」
「はい」
ふたりはどのような表情をするべきか迷ったのか、なんとも『微妙』な顔をした。
「それはどういう?」
夜子に訊かれ、理恵子はううんと唸る。
「なんと説明したものでしょうか……。私達、真帆の姿をした《異形の者》がいたと御守さんからご報告を受けてからも、真帆が成り代わられたとはとても信じられなくて……。なんだか現実感が無いというか……」
「現実感が?」
「ええ。娘はふらっとどこかに旅行へ行くことはよくありましたから。今でも真帆は何事も無かったかのように家に帰ってくるような気がして。それが普通に起こり得そうだと、私達思っているんです」
「《探偵》さんに相談しておきながらこういうことを言うもんではないかもしれませんが、実感がわかないんですよ。親としてお恥ずかしいのですが……。真帆が《異形の者》に? と聞いても、ふわふわとした気持ちにしかならないんです」
深田夫婦は申し訳なさそうに言う。そして「話が少し逸れましたね」と、真帆の失踪日について平静と話し始めた。
◇◆◇
「夜子ちゃん……。深田さんご夫婦は大丈夫なのかな……?」
「大丈夫って……。どういう意味です?」
真帆のほとんど物のない部屋で、少しだけ残された本をめくっていた夜子が顔上げ訊く。鈴切はクローゼットを閉めながら、「ええと」と声を潜めた。
「だって、なんだか普通じゃないよ。娘さんが成り代わられたかもしれないっていうのに……。普通はもっと取り乱したりするもんじゃない? 初めて会った時も思ったけど、深田さん達はなんだかこの件を他人事のように思っている気がするよ」
「他人事……ですか」
夜子は手にしていた本を机の上に戻し、顎に手を当て考える素振りをする。
――確かに、ふたりの態度に気になるところはある。
だが突然《異形の者》に成り代わられたかもしれない――なんて言われても実感がわかないという気持ちもわからないでもない。
「それは言いすぎですよぉ、鈴切さん」
「藤くん……」
「おじさんもおばさんも、真帆がいなくなって不安には思っています」
真帆のカバンを探っていた藤は、手を止め苦笑い気味に言った。
「あっ……。ごめん……、その、藤くんは深田さん達とお付き合いがあるんだもんね。そんな人の前で僕……」
「いやいや、鈴切さんを責めているわけじゃないですよぉ。おばさん達の態度にそういう感想を持つのは……まぁ、僕も納得ですから」
「藤さんも?」
夜子が首を傾げ訊く。
「ええはい。あのふたりはいい人ですなんですよ。自由奔放な真帆のことをよくわかっていて、彼女の意志を尊重することができる、いい親です。『真帆は自由が好きだから』と言いつつも、彼女を放っておくことはないし。だから……」
藤はそこで口をつぐんだ。
「――あの」
続きを聞こうと夜子が口を開く。――と、藤はきゅっと目を細めた。
「でもやっぱり、ふたりは混乱が続いているんでしょうね。『実感がわかない』っていうのも混乱から来ているんだと思います。心配には思っているけど、どうすればいいのかわからないっていうのが本当のところかなぁ」
「……なるほど」
夜子は――そして鈴切も――藤の説明に納得しきれたわけではない。けれども藤の困ったような笑みは、ふたりにそれ以上の追及を許さないという圧があった。
(まぁ……。とりあえずは手がかりを探すほうが先決ですよね……)
夜子はさほど広くない部屋を見回し考える。
(……さぁ、どうしましょうか)
手がかりを探すといっても、真帆の部屋は極端に物が少なかった。
深田夫妻の話によると、真帆はもともと物を多く持たない主義らしく、部屋には生活に必要な最低限の物しか置かれていなかった。
さらに――。
(明らかに真帆さんは家を出る前に片づけをしている……。なぜ? 自分がいなくなったあと、誰かが部屋に入るかもしれないことを想定していた?)
真帆の部屋は不自然さの塊だった。元々部屋に何がいくつ置いてあったかなど、夜子達にはわからないが――この部屋は長期間留守にすることを前提とした部屋であることはわかる。
(ゴミ箱は空っぽ……。ハンガーだけが残されたクローゼット。それに――)
机の上には印鑑と通帳が置かれていた。
普通こんなに目のつく場所に重要なものは放置しないだろう。
(それに通帳と印鑑は、きっちりと並べて置いてある)
たまたま置きっぱなしにしていただけと考えるのは、どうも腑に落ちない。むしろ通帳と印鑑を見つけてほしくてそこに置いた――と考えるほうが自然だ。
(誰に……っていうと、やはりご両親でしょうか)
申し訳ないとは思ったが、通帳の中身を確認すると、口座にはそれなりの額が入っていた。この金の管理を今後は両親に託すつもりだったのか。
「…………」
そしてもうひとつ。夜子には気になることがあった。
(真帆さんが姿を消す前日、口座から十万円下ろされている……)
――十万円。
大金のようで、あっさり使い切ってしまうこともできる微妙な金額だ。
(真帆さんは誰かに攫われたというよりも、もともと長期間家を留守にするつもりだった、という感じですね……。偶然旅行に行って、そこで《異形の者》に? ――ううん、しっくりきません。ただの旅行なら、通帳をあんなところに出しておかないでしょうし……)
夜子は細い人差し指を額に当て考える。様々な可能性が浮かびはするが――どれも納得できはしない。
「あの、藤さん」
「はいはい。なんでしょう? お嬢さん」
「藤さんは真帆さんがいなくなる前日、真帆さんに会っているんですよね」
藤は細い目をわずかに開いた。そして一拍置いたあと――「はい」と短く答える。
「会っています」
「その時の真帆さんの様子を教えてもらえますか?」
「その時の様子……と言われましても、まぁ、普通でしたよ。いつも通りの真帆です」
「どこか遠くへ……旅行に行こうとか」
「そう言う話はしていませんでしたねぇ」
「次の日の予定は何か……」
「いいえぇ? 何も」
「藤さんはその日なぜ、真帆さんとお会いに?」
「奥様のご用事ですよ。本当はおばさんに会いに行ったんです。で、用事が済んだあと時間があったから、この部屋で真帆と少し話をしました。ほんと他愛も無い話ですよ。最近のお互いの親の話なんかをしましたねぇ」
「真帆さんとはよくお会いになるんです?」
「よくってほどじゃありません。月に一度か二度、有るか無いかです」
「それは……」
「奥様の使いですねぇ」
「……そのお使いの内容――明美さんのご用事はなんなんでしょう?」
「その時々で違いますがね、大抵奥様がお作りになった菓子やパンをおすそ分けにってのが多いですね。――奥様は料理が趣味なんですよ。本当は奥様が出向くのがいいんでしょうが、奥様は何かとご多忙なので。僕が役目を買って出ています」
藤はそう言って微笑む。夜子は礼を言うと、机の前に置かれていたシンプルなイスに腰掛けた。
(真帆さんの足取りは結局わからずじまい……ですね)
夜子がふぅ、と小さく息を吐く――と、「真帆は」とうしろから呟きが聞こえた。
「え?」
「お嬢さん、真帆はね、本当にいい奴なんですよ」
藤は夜子に近づくと、真帆の机を優しく撫でた。
「僕と真帆は赤ん坊の頃からの付き合いですが――ああ、《異形の者》の僕が赤ん坊ってちょっとおかしいですかね?」
夜子が首を振ると、藤はゆるりと笑った。いつもの貼り付けたような笑みではなかった。
「それは嬉しい。――ええと、『生まれたばかり』の『自我が無い』時代って意味なんですがね、その頃からうちがここを出て行くまで、僕は真帆と一緒に育ちました。越したあとも、真帆とは顔を合わせていました。その僕から言わせると――真帆は心底お人好しだ」
藤は過去を思い返すかのように遠い目をして、物の少ない部屋を見渡し――イスに腰掛けている夜子を見下ろした。
「真帆は竹を割ったようなさっぱりとした性格で、姉御肌な奴なんです。自分の信念は貫き通す、けど困っている人間がいたら、自分の目指すゴールへの遠回りになるとわかっていても、回り道をしてしまう――そんな奴です」
「素敵な人じゃないですか」
「はい、それはもう。――だから僕は思うんです」
藤は机に載せた手にグッと力を込める。
「早く真帆を助けてあげたいって」
言って藤は夜子の目を見やる。
「――お嬢さん」
「なんでしょう、藤さん」
しん、とした部屋に、夜子の涼やかな声が響いた。
「……」
鈴切はふたりのやりとりを黙って見守っている。
「――僕はね、真帆を助けたいって思っているんです」
藤は己の手をじっと見た。そして噛みしめるように、
「旦那様と奥様のお力になりたい、とも思っています。だから――僕がなんとかしないと」
そう言った。
「…………」
夜子は何も言わず机から見える景色――といってもここはマンションの三階で、景色がいいわけではない――を眺めながら、真帆が姿を消す前日何を考えていたのか思いを巡らす。
彼女は幼馴染の藤にここまで慕われる人物だったようだ。
そんな彼女は――どうして突然姿を消したのか。
そして何故、真帆の姿をした《異形の者》が現れたのか。
わからないことはいまだ多い。
(ですが……)
いつものにやけ顔ではなく、藤は真剣な表情で真帆の人柄を訴えた。そして――助けたいとはっきり言った。
正直これまでの経験から、真帆が無事である確率はかなり低いと夜子は考えている。けれども藤と深田夫妻のためにも、必ず何らかの「結果」を出したい。
それがなにをもたらすのかは夜子にはわからないが――。
(私は与えられた役目を全うするまで、ですね)
「――……!」
ふいに、鈴切と目が合った。
鈴切はどこか悲しそうな、複雑な顔をして――微笑んだ。
夜子には彼がそんな表情をしてみせる意味がわからず、眉を寄せて首を傾げた。