Scene8
「さ、もう逃げられませんよ。四対一で多勢に無勢。無理をするのはよくないと思いますが?」
夜子が訊くと、男は低く唸りを上げた。
「――……」
そしてどろりと溶けた顔の皮膚を拭いながら、濁った瞳で少女を睨む。
「まさかこんなところで今ニュースになっている《異形の者》に遭遇するなんて思いもよりませんでしたねぇ」
少女の背中からひょいと青年が顔を覗かせる。
「藤さん、あまり前には……」
「わかってますよぉ」
藤は手で遠眼鏡を作り、男を眺めながら言う。
「うへぇ、ゾンビみたいだ」
「――藤さん」
夜子は凛とした声で青年をたしなめるが――確かに男は藤の言うとおり映画などでよく見るゾンビそのものの姿をしていた。
もとからそのような――肉の溶けたような――姿が彼の本性なのだろうが、今は夜子の一撃を受けたせいで被っていた人間の皮が中途半端に落ち、目も当てられない酷い姿になっている。
「あなたのことはニュースで見ました。あなたの同僚を……いえ、あなたが成り代わっていた方の同僚を食べたそうですね。そしてその場面を目撃され――逃亡した」
少女は男を追い詰めるように一歩前進する。
「このまま逃げ続けることは難しいと思いますよ。あなたの奪った顔は……可哀想に連日テレビで流れています。今やこの街の人々は皆、あなたの仮面を知っています。――さぁ、《機関》へ行きましょう。そこでこれまでのことを悔い改めるのです」
言って夜子はゆっくりと男に向かって手を伸ばす。――と、男は歯を剥いて少女を威嚇した。
「夜子、諦めな」
少女の背中に男の声がかかる。
――琴浦だ。戦闘能力の無い彼は、遥か後方にあるビルの影に隠れている。
「……僕も琴浦さんの意見に賛成だよ。これ以上は――危ない」
琴浦を守るように立ってる鈴切が険しい顔で言った。
「………………」
少女は残念そうに眉尻を下げた。だが――兄たちの言うとおりだろう。この《異形の者》は本性の姿では人語を話すこともできないし、何よりこの男からは激しい殺気が放たれている。
――夜子達を殺すつもりだ。
「……藤さん、少し……下がっていてください。急いで鈴切のもとへ」
「なぜです?」
「いいから……!」
夜子が語気を強めたその時。男は一際大きな唸りを上げ――夜子達に向かって突進してきた。
「おっとぉ」
「――……」
ふたりはそれをひらりと躱す。すると勢い余った男はべしゃりと地面に倒れ伏してしまった。
「――こりゃあ酷い」
藤は嫌そうに顔を顰めていった。ゆっくりと立ち上がった男の足元には腐り溶け落ちた肉だったものが水溜りになっている。
「ぅぅ……」
男は再び唸り始めた。
「夜子ちゃん! 気をつけて!」
鈴切が声を上げる。夜子は小さく頷き――自身の《武器》であるガントレットを構えた。
「うう!」
男は意外にも俊敏に右手を突き出すと、夜子の制服を掴もうと掌を広げた。
「…………」
だが夜子は男の手を無言で捕まえ、力いっぱい捻りあげる。
「うわっ」
夜子のうしろで、藤が嫌悪感を露わにした声を出す。藤は見てしまったのだ。夜子が捻った男の腕が、引きちぎれてしまったのを――。
「ぅぅ……ぅぅ……!」
男は自身の肩腕を掴んだまま鋭い視線で睨みつけてくる少女をふらめきながら見上げた。
そして――。
「待ちなさい!」
「止めろ! 鈴切!」
「了解!!」
それは一瞬と呼んでいいほど短い時間の出来事だった。
逃げようとする男の前に鈴切が立ち塞がり、男のうしろでは追いかけようと飛び上がった夜子が拳が振り上げていた。
(う――!)
体当たりをしようと眼前まで迫った異形の男が放つ酷い腐臭に、鈴切は思わず顔を顰めた。さらに臭気は刺激となって鈴切の目を攻撃する。
(やばい……!!)
自然と涙が零れ落ち、視界が滲んでむ。
(見えな――!)
男が腕を伸ばしていることはシルエットでなんとかわかるが――もはや躱すことはできない。――鈴切は咄嗟にガードの体勢をとったが、男の一撃をくらうことを覚悟した。
「鈴切さん!」
その時、藤の声がした。
青年は鈴切の大きな背中から飛び出すと、両腕を前に構える。そして――。
「燃えてしまえ!」
そう叫んだ瞬間、鈴切の目の前は昼間のように明るくなった。
「ぎゃあ!!」
男の悲鳴が、暗い路地に響く。
「これは……」
夜子は目の前で起こっていることに茫然とし――振り上げた拳を下ろした。
――男の体に、激しい焔がまとわりついている。
夜子は藤に目をやった。藤はというと――肩で大きく息をしながら、必死の形相で男が身を焦がし、熱さと痛みで転げまわっている様を凝視していた。
「藤さん! 止めてください!」
夜子は腹の底から叫んだ。だが、藤は腕を前にしたままただじっと――燃える男を見続けている。
「鈴切!」
琴浦が声を上げた。すると立ち尽くしていた鈴切はハッとした顔をし、自分の前で固まっている藤に手を伸ばす。
「――藤くん」
鈴切の太い手が、藤の腕を優しく掴む。そしてゆっくりその腕を下ろしてやってようやく、我に返ったのか藤の目が男から外れた。鈴切を見上げる藤の瞳は、どこか怯えているようだった。
男を燃やしていた炎は、藤が腕を下ろすとすぐに消えた。
「……まだ生きている」
男のそばにしゃがみ込んだ夜子が呟いた。それを聞き、藤はびくりと体を震わせた。
「…………」
夜子は藤の様子を目の端で捉えると、わずかに息のある男を見下ろした。そして――無言で男の首に両手を添え、力を込めた。
「終わりました」
事が終わり夜子が立ち上がると、男の体は足元から徐々に灰と化した。やがてそれはさらさらとどこかへ吹き飛び、この異形の男などこの世に存在しなかったかのように消えていった。
「お、お嬢さん……」
力が入らないのか、鈴切に体を支えられている藤が困惑したように夜子を呼ぶ。
「僕……は、鈴切さんが危ないと思って……」
言って藤は俯いてしまう。藤は――後悔しているようだった。
「大丈夫だ」
そう言って藤の肩を叩いたのは琴浦だった。隠れ場所から出てきた彼は、ニッと歯を見せ鈴切に笑みを見せる。
「鈴切を助けてくれてありがとうな」
「うん、危うく一発喰らうところだったよ。ありがとう、藤くん」
「琴浦さん……。鈴切さん……」
藤はまだ動揺しているようだった。――が、さっきまで真っ白だった顔に少しだけ血の気が戻っている。
「――ええ、藤さんが心配に思うことは何もありませんよ」
夜子は男が倒れていたところ――今はもう何もないが――そこを飛び越えると、小走りで藤へと駆け寄った。そして、ゆるりと目元を緩める。
「どっちみち私はやるつもりだったんですから。――でも、今日はもうこれで切り上げましょうか」
「ああ、それがいい」
夜子が提案すると、琴浦も大きく頷く。
「でも……。今夜の捜査は……」
「イレギュラーがありましたからね。今日は帰ってゆっくり体を休めましょう。――ね、兄さん」
「そうだな。やろうと思ってたことも――ま、半分は終わったし」
帰ろうぜ、と大通りを顎で差し、琴浦は踵を返した。
「――――……」
藤は鈴切の胸から離れた――が、その場から動こうとはしなかった。
「……鈴切、兄さんと一緒に言ってください。後処理は兄さんがしてくれるでしょうから、その手伝いを」
「夜子ちゃん……ひとりで大丈夫?」
鈴切は声を潜め言った。別にやましいことがあったわけではなかったが、自然とそうなった。
「大丈夫です。――さぁ」
少女に促され、男は何度か振り返りながらもその場を離れる。残されたのは、藤と夜子だけだ。
「……お嬢さん」
藤が言った。
「なんでしょう、藤さん」
「……僕、実はさっき初めて炎をね、出したんです。――はは、《探偵》のお仕事をするとか息巻きながら、戦ったことなんてなかったんですよ」
「それが普通ですよ」
「……人間は、でしょう?」
藤の色素の薄い瞳に夜子が映る。
「僕はね、物心のつく前に人間の両親に拾われ……育ててもらいました。そのおかげで、《異形の者》らしいことをする機会はあまりなかったんです。――血の摂取はしてましたけど」
言って藤は、もちろん法には触れてませんよ、と困り顔で笑った。
「変化は……。必要だから自然としていたんですが。この炎――『狐火』を誰かに使ったのは初めてなんです。狐火なんて……使う機会、普段は全然ないですから」
藤は大きく溜め息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。俯いて顔を隠し――「……あーあ」とぽつりと呟いた。
「…………」
その呟きにどんな想いが込められていたのかは、夜子にはわからない。だが、彼は見るからに落ち込んでいた。
「……藤さん、鈴切を助けてくれてありがとうございます。鈴切が危ないと思って……やってくれたんですよね?」
藤は何も答えなかった。ただ夜子を静かに仰ぎ見た。
「人を攻撃するのは堪えるものです。だからこそ私はあなたに感謝しています」
「僕は……咄嗟に……。つい、体が動いてしまっただけなんです」
「藤さんは優しい人ですね。――それに、勇気もある」
夜子が微笑むと、藤は一瞬だけ表情を緩め――だがすぐに眉を寄せた。
「そんな立派な奴じゃないですよ、僕は」
「そうなんです? でも私はそう思ったんです。だからそう思わせてください」
夜子は笑って藤に手を差し出した。
「お嬢さん……」
藤は戸惑いながらも少女の手を取ろうと手を伸ばす。だがすぐに遠慮がちに目を伏せ、その手を引こうとした。
「あ……」
しかし夜子は藤の手首を掴むと、力強く引き――青年を立ち上がらせる。
「帰りましょう。藤さん。お腹空いてないですか? 何か食べて帰りましょうか」
「……あんなのを見たあとです。さすがに今は食べる気にはなれないですよぉ」
藤は眉尻を下げながらも――笑った。
「お嬢さん、案外デリカシーがないというか……。おっと、失言ですね」
肩を竦め、「豪胆なお嬢さんだ」と藤は大通りに向かって歩き出す。
「褒め言葉として受け取っておきます」
夜子は青年の背中を見つめ言う。そして彼女もまた、通りに向かって一歩踏み出した。