賽子は振られました
妙な息苦しさ。首を万力で締め付けられているように呼吸ができなくなり、耳鳴りがうるさく、虫がの垂れ回っているかの如く痛みが脳を駆け回る。
「だが元社畜舐めんな」
こんなもの顧客や上司から受けたパワハラやデスマーチの不眠不休とエナジードリンク責めによる体調不良に比べれば可愛いものだ。
「痛くも痒くもーーうぐぐ。これはちょっとまずいかも。……悪臭」
《干渉を受けました。スキルがキャンセルされます》
やはり使えないか。既に掌からは出涸らし程度の煙も出なくなっているな。
「じゃあ時間分解」
《干渉を受けました。スキルがキャンセルされます》
はいはいこれも駄目。明確な攻撃行為ではないのだけど出ないものは仕方ない。だがさずがにこのままだとまずい。どうにかなる前に状況を打開したいところだ。
そう言えばまだ使用したこともないスキルがあったのを思い出し藁にもすがる思いでアイコンを呼び出す。
「えーと御神籤」
《本日のラッキーアイテムはテレビアンテナです!》
アナウンスはそれだけ告げると静かになった。
「それで終わり? 本当に? 雑過ぎない?」
街角情報誌の隅っこにある記事の穴埋めました的な占いコーナーですらもう少しマシなコメントをくれるだろ。何故こんなにも悲しいくらい使えないスキルが警鐘さんのカンスト報酬なんだ。
そんなクレームを心のカスタマーセンターに入れている最中にも気分は最高潮に最悪になっていく。腸がねじれて口からはみ出て身体がぐにゃりと溶けるような感覚に襲われて集中ができない。だがこんなもの行きたくもない飲み会の翌朝に較べれば……。
「うぐ……」
《精神干渉を受けています》《偏頭痛2が付与されました》《過呼吸2が付与されました》《耳鳴り2が付与されました》《錯乱2が付与されました》
「なあ」いつの間にか背後に回って押さえつけてきたホッケーマスクが耳元ではあはあ息をしながら話しかけてくる。「なあおまえの肝臓くれよ」
「十二指腸が食いたいです。腹わたを食いたいです。食わせて下さい」と別のマスクも顎からぽたぽたと涎を流しながら僕に抱きついて懇願してくる。
うへえさすが人食い教団だ。吐き気を催すほどのいい趣味をしている。勿論、冗談だよね。
アメフト選手みたいにガタイの良いホッケーマスクたちが勢いよくタックルしてくる。避けることができずそのままスクラムを組む様にがっちり取り押さえられて抵抗できない。
司祭は僕を無抵抗にしてから徹底的に洗脳を施すつもりでいるらしい。
ぴちゃぴちゃーー
近くで音がして目をやるとスクラムの下の方にいたホッケーマスクたちがまるで蜜に群がる虫のように互いを押しのけ、地面にマスクを押しつけて何かをすすっている。僕の血である。君たち完全に人として終わってるな。マジで狂ってる。正気の沙汰ではないよ。
「あはは血だあははは」「おれにも寄越せ」「うめえうめえ」「何だ……この血……」「寿命が」「すげえすげえ」「どうなってる」
きっかけが何だったのか分からない。だが取り押さえているだけだったはずのホッケーマスクたちの様子が次第におかしくなっていき、争う様に血に群がり始めた。
彼らは統率を乱し、我を忘れ争うように血を奪い合い、やがてそれだけでは飽き足らず、我先にと僕の髪の毛を毟り食み、腕に、脚に、顔にあちこち噛みつき始めた。
痛さよりも恐怖を感じていた。さながらピラニアの群れに放り込まれた牛になった気分だ。どうやら本気で僕を食べようとしているらしい。
「眼球をしゃぶらせろ」「内臓を引っ張り出して残らず食い尽くしてやる」「あはは耳あはは耳下さい」「早い者勝ちだ」「両腕をもげ」「脳髄をこそげろ」
「ああ、できればこの手は使いたくなかったな」
だがこのままだと文字通り血祭りにあげられて肉どころか骨も残らなくなるのは確かだった。
視線を外に向けるとこっちのことなど御構い無しにドローンの群れを追い回している呑気な錆喰らいがいる。
確か元はあれが猫だったと言っていたのはキッズたちだったか。
それから「気に入らないものを見境なく攻撃する習性がある」と言っていたのはホッケーマスクだ。
幾ら飼い慣らされたとはいえ野生の獣とほぼ変わらないのであれば理性よりも先に本能が顔を出すだろう。
試しに銃口を向けてみるが腕に違和感はない。教団の連中に対しては敵対行動をとれなかったがこいつは撃てるようだ。
「位置についてよーい」
僕は揉みくちゃにされながら運動会の五十メートル走のスタートの合図をする気分になって引き金をひいた。
◆
人を撃ち殺すほどの覚悟はできていない。
でも正直な話をすれば目の前にいるのが殺人鬼なら、どうなろうが構わないと思うほどに僕は心のない人間だ。
だから賽子は投げられた。投げつけてやった。
乾いた音を立てて発射された弾丸が錆喰らいに命中する。
与えられたのはカンという音と装甲へのかすり傷のみ。巨大なあいつからしてみれば小指程度の鉛玉など砂つぶがぶつかった程度でしかなくHPゲージの減少は1以下だ。
僕の攻撃など虫けら一匹程度が鬱陶しく騒いだ程度の認識しかないのだ。
だが人間が耳元で飛び回る蚊を、足元でイキるカマキリを、鬱陶しく思うように、錆喰らいもまた「なんだこいつ」とこちらを意識したのは確かだ。
そして上空をやかましく飛び交う無数の蝿よりも目の前にいるダニの方が叩き殺し易いと考えるのは実に自然なことだった。
故に、実に狙い通り「きしゃああああああああ」という鳴き声と共に砲身が軋みをあげてこちらに向けられた。
さて僕は指やら腕の肉やら内臓やらを刃物で刺されながら胴上げされているのだが、これから砲撃が飛んでくる二秒だか三秒だかの間に全力でこの場所から、ピラニアの群れから抜けださなくてはいけなかった。
でなければボーリングのピンの如くバラバラに弾けて僕はデッドウッド状態になるだろう。あの世と言う名のマスキングの向こう側へと回収されて二度とデッキに立つ機会はない。
と言うわけで無茶な賭けだがそれでも死にたくなければ全力で避けるしかない。
「……時間……分解」
《発動しました》
幸い干渉は受けなかった。多分司祭が状況を察して逃げ出したせいか、スキルの用途が攻撃ではなく逃走だったせいか。いずれにしろ無事モノクロームの世界に切り替わり時間がゆっくりと流れ始める。よし良くやった。
さてさてここからが正念場だ。
左脚に噛り付いてきていたホッケーマスクを蹴りつけ、僕の左耳を削いで喜んでいたホッケーマスクの掴む腕を振り払い、摑みかかろうとする手という手をぬるりと蛸の如くかわして逃げる。いやはや弾性骨格のスキルを取得していて良かった。これがなければ詰んでいたかもな。
でもって砲弾は既に錆喰らいから発射されており、彗星の如き勢いですでに目の前まで迫っていた。
逃げる。逃げる。逃げる。完全回避は不可能だからせめてダメージを少なくする為にできる限り距離を離したい。
灼けるような光に押し潰されて消滅していくことにすら気づかないまま僕からもぎ取った戦利品を掲げるホッケーマスクたちの脇を通り抜ける。
足りない。圧倒的に足りない。ここから逃げ出す為の時間も。距離も。まあ実際スローモーションのなかで動けたのは二歩か二歩半が精々だった。
先程まで掴まれていたままの左腕が逃げ遅れて奇妙な形に捻れた。それにつられて肩が、身体が、足がゆっくりとひしゃげて、浮き上がり、逆らえないまま揉みくちゃになっていく。
そしてタイムリミット。
灰色だった景色が鮮やかさを取り戻し、粘性を持ち流動性を失ったはずの時間が容赦なく流れ出していく。
圧倒的なエネルギーによって生み出された熱と音の洪水に身を委ねながら、僕は舌下に隠していたとっておきのカプセルを飲み下しーー
ーー意識が飛んだ。