子豚のスープ
私の指には素朴な指輪が輝いている。村でいちばん力自慢の幼馴染がくれたものだ。
昔から彼のことを知っている。お母さんは「将来あなたも母親になるからね」といって隣の家に生まれた赤ん坊の世話を私に任せた。それからは大変だった。毎日おしめを変えて、隣の家の奥さんが母乳を与えたら背中を叩いてゲップを出させた。奥さんから母乳が出なくなると、ヤギ乳でふやかしたパンを口元にもっていった。
いつの間にか身長は抜かれて、体はしっかりして、声まで変わってしまった。「みてみてー!」とでんぐり返しをして可愛かった彼はどこにいってしまったんだろう。
彼は今、村の周りにある森に狩りへ行っているんじゃないかな。力持ちだし、頼りにされてるみたいだし。そんなことを考えている私は、村はずれの草原でヤギを遊ばせていた。
「おうーい」
あ、行商人さんだ。村にたまに来てくれる行商人さんは村の外の話をしてくれる。最近は狼が出なくて楽だって言ってた。狼がなんだかよく知らないけど、人を食べちゃうらしい。夜、寝たくないとぐずる私に母はよく「寝ない子には狼が来て食べられちゃうわよ」と言い聞かせたものだった。
私は村の外に出たことはない。狩りについて行きたいと何度か言ったことがある。女だからダメだって幼馴染が言ってたけど、その彼は小さいころ私に小突かれてよく泣いてたじゃない!
村の外・・・どんな場所なんだろう。遠くにいる行商人さんに手を振りながら、そんなことを思っていたからだろうか、森の暗がりから黄色く光る眼が二つ見えた。それからはあっという間だった。
鋭くとがって上を向いた牙、そして見たことのない形をした大きな鼻が見えた。覚えているのはそれだけだった。これが狼なのだろうか。
悲鳴を上げたが口に何かを入れられた。臭い。そして目隠しをされて何も見えなくなった。私の体は何かに掴まれ、無理矢理に抱えられた。暴れたけどなんにもならないくらい強い力だった。
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ここはどこだろう、水の粒がたまに落ちる音にびっくりするけど、ベッドみたいに草が敷かれた場所に私の体はあった。まずは口の中にある何かを取りたいけど、手は前で布でぐるぐる巻きにされてしまった。
私をここへ連れてきた何かの息遣いを感じる、それは私の服をびりびりに破いてしまった。ふさがれた口から声が漏れる。怖い。私は食べられてしまうんだろう。粘ついた舌が私の肌を舐め、そして両足の間に何かを触れさせた。
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どれくらい時間が経っただろうか、私は食べられることはなかった。でも食べられた方がよかったと今では思う。
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狼は私に何かを食べさせた。水を飲ませたし、寒さで死なないよう草で包んだりした。そして私の体を舌で舐めた。アレが始まる合図だ。
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最近私のお腹の中に何かがある感じがする。それはお腹の中で動いて、ちょっと苦しい。狼はそんな私の様子に構わずアレを始める。
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お腹がいたい。小さいころにアク抜きをされていない木の実を食べたとき、こんな感じだった気がする。でもあのときと違うのは、両足の間から水が出たことだ。ここ数年はずっとしていないお漏らしだろうかと少し恥ずかしくも思ったけど、次に来たお腹の痛みでそんな考えもどこかへ行った。
しばらくして何か大きなものが私の体の中から出てくる。痛い、痛い、痛い、痛い。今はいない狼へと助けを求めたりもした。
異物を外へ出そうと力をお腹に入れる。そうすると何度目かのときにそれは私の体から出て行った。
痛みと疲れで荒く息をする私へ、奇妙なきぃきぃ声が聞こえてきた。
『お母さん・・・』
なんて言ってるのかはわからなかったけど、間違いなく聞こえた。
突然目隠しを外された。狼は今はいないのにどうしてだろう。いつぶりかに光を見た私の目に飛び込んだのは、赤ん坊だった。ああ、まるで幼馴染の小さいころだなって思った。
赤ん坊は私の手をぐるぐるに縛っている布を解き、ゆっくりと後ずさった。そしてどうやら洞窟だったらしいここから出ようとしている。
「待って!」
私の言葉に赤ん坊はびくりと肩を震わせて止まる。体力を使いきり、久しぶりに動かす体であるがなんとかそばにたどり着いた。この子は私から離れようとしていたんだと思う。なぜそう思うのかはわからない。
そんな赤ん坊に私はプレゼントをすることにした。今の私が持つもの、それは指にある素朴な指輪だけ。少し指から抜くのに苦労したけれど、なんとか抜いた。そうしてあたりに落ちていたヒモを拾い、指輪に通してペンダントにした。赤ん坊の首にかける。
私は気を失った。
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気が付いたときにはまた、私の目は塞がれていて何も見えなくなっていた。手も動かない。私が身じろぎしたのを合図にして、狼がまた私に覆いかぶさった。
狼が私に覆いかぶさっているときは、ただ何も考えずにいた。なので最初はその声が何を意味しているかが分からなかった。幼馴染の声だった。
次の瞬間、私の体には生暖かい水がかけられた。目が見えるようになり、手の布も解かれた。久しぶりに見る幼馴染、そして村の人たちだった。私の体にはたくさんの血がついている。首のない死体が私の体にかぶさっていた。
それからは覚えていない。気が付いたら暖かい陽だまりの中、揺れる椅子に座っていた。そばにはいくらか傷が増えていた幼馴染がいた。
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私をさらったのはオークという生き物だったらしい。人間の女をさらい、慰み者にするらしい。肉はおいしく、滋養がある。夫になった幼馴染がそう言っていた。
数カ月も行方不明であったから、死んだものと思われていた。生きていることを信じていた幼馴染、じゃなくて夫があきらめずに探し続けていた。とても感謝している。
今日も夫は狩りに出て、痩せてしまった私に肉を食べさせるのだと張り切っていた。そして今、目の前にはオークの死体がある。頑張ったらしい。オークは怖くないかと聞かれた。ずっと何も見えなかったから、目の前の死体を見ても私にひどいことをした生き物と同じものだとは思えなかった。
今日はオーク肉だと夫は喜んでいた。
血を見ると流石に気持ち悪くなるから、私は家の中で鍋を釜にかけてのんびりしていた。
解体した肉は流石に全部は鍋に入らなかったから、右腕を煮込むことにした。手は握りしめられた状態で固くなっていたから、火が入るよう、ちょっと長く煮込んだ。
夫は一番おいしいからと、手の部分をくれた。確かにおいしい。プルプルしていて、口に入れると今まで食べたことがないような感じだった。夢中になって食べていると、歯に硬いものが当たった。ああ、夢中になりすぎて骨まで食べてしまっていた。舌で確認すると骨は不思議な形をしていた。丸く細く、そして穴が開いていた。
口から取り出した骨は鈍く光を反射していた。見たことのある素朴な指輪だった。