海よりも広く
一日仕事を終えて一風呂浴びる。
その後にビールでものめば、ささやかな幸せってものを感じられる。
ただ、実際には俺はシャワーで済ますことが多い。
風呂が嫌いってわけではない、ぬる目のお湯にのんびり浸かるのは大好きだ。
しかし、家の風呂は狭い。
浴室の広さはざっと一坪。
バスタブの大きさはさらにその半分以下。
手足を思いっきり伸ばすこともできない。
その窮屈さがなんとなく嫌なのだ。
とはいえ、やはり冬場はお湯に浸かりたいもの。
今日も一仕事終え、帰ってこうして湯船に浸かっている。
「ああ、いい湯だ。これでバスタブが広かったら言う事ないんだが」
ふと、誰に言うでもなしに呟いた。
その時、遠くから”その願いを叶えましょう”と涼やかな女性の声が聞こえたきがした。
その途端、すがっていたバスタブの縁の感覚が無くなり、仰向けに倒れた。
ザブンと頭から湯に浸かって、一瞬パニックになった。
起き上がろうと左手を左の縁にかけようとするが、虚しく水面を叩くだけだった。
右手で試したがこちらも空を切るだけ。
バタバタあがいてなんとか上半身を起こして、水面から頭を出した。
ひとしきり咳き込んでから、少し落ち着いて周りを見回すと。
今まであったはずの浴室の壁がない。
浴室の壁だけでなくバスタブの縁もない。
まあ、正確にいえば見えないだけなのかもしれないが、とにかく見渡す限りお湯・・・・
思わず立ち上がったが、天井は元のまま手の届きそうな高さにある。
お湯の深さも元のまま40cm程度しかない。
どうも、バスタブが水平方向にとてつもなく大きくなったらしい。
現状が全く理解できずに、しばらく唖然としていたが、これは誠にやばい事態に至ったのではないかと言う気がしてきた。
四方八方に妻の名前を叫んでみたが、当然のように返事もない。
幸い室温、と言っていいかわからないけど気温は元の浴室のまま、12月中旬だけど寒くはない。
お湯も特別冷たくなったりしていない、丁度いい温度のままだ。
でも、このままこうしてるわけにはいかない。
なんとか脱衣所に辿り着かなければ。
しかし、パニクってあちこち見回してたら、方向が分からなくなっていた。
360°全く同じ景色が広がっている。
元の風呂は左手に脱衣所があったのは覚えてるが、どちらに進めばいいか見当がつかない。
腰を下ろして天井を見ると、換気扇の吸い込み口があった。
四角いそれは、今までのままの大きさでそこにあった。
そういえば、フィルターを掃除するために外すときに使う爪は、脱衣所側だったはず。
見て見ると、今立っている前方方向に爪がある。
とにかく爪の方向を頼りに歩き出した。
まあ、当然だが40cmの水の中を歩くのって、結構体力がいる。
まだそんなに歩いてないと思うが、足が怠くなってきた。
それに、いくら丁度いい温度とは言っても、お湯なので、運動した分かなり暑くなってきた。
歩いては休み、歩いては休み、とにかく前に進む。
暑くなっても涼めない、座ると湯に浸かる事になるし、立ったままだと疲れる。
いい加減うんざりして天井を見上げたら、四角い換気扇の吸い込み口が頭上にあった。
体感的には歩き始めて何十分も経ったと思うのに、歩き始める時にもあった吸い込み口がそこにある。
「なんだ・・・」
またもや頭が混乱してきた、まっすぐ歩いてたつもりだったのに、ぐるっと回って元の場所に戻ったのか。
それとも換気扇の吸い込み口は何個もあって、たまたま次の吸い込み口の下にいるのか。
でも、どちらにしても天井は低いので歩いていれば見えるはず。
気持ちが悪い。
思わずお湯の中を走り出した。
ザブザブ走りながら天井を見ると、吸い込み口はやはり頭の上にあった。
立ち止まり、吸い込み口を見ながら前進して見たが、吸い込み口は同じ場所にある。
まるで、太陽がいくら走っても場所が変わらないように。
もう、何が何だかわからないが、とにかく歩く。
もう何も考えることもできず、ひたすら歩いたが、ついに足が前に出なくなった。
その場に座り込んで頭を抱えた。
目を閉じてもうダメかもと思ったとき声が聞こえた。
「大丈夫?」
ハッとして顔を上げると、目の前に壁がある。
カランもシャワーも鏡もある。
ホッとして後ろに体を倒したら、浴槽の縁に支えられて、それ以上倒れることはなかった。
後ろの縁にすがり、天井を見上げてたら、涙が目から溢れた。
「本当に大丈夫?」
妻の声が無性に嬉しい。
「大丈夫だ」
何事もなかったように答えた。
「あまり長湯してるから心配になったじゃない、湯冷めしないうちに上がってね」
妻は脱衣所から出て行った。
声がした方を見ると洗い場もドアも元どおりの場所にある。
湯船から出ようと立ち上がったら、膝が笑っていた。
足もだるい。
あれはなんだったんだろう。
過ぎたるは及ばざるが如し、どころの騒ぎじゃないな。
身の丈にあったものが一番って事かなぁ。
やっぱり。
俺は湯船から出た。