ハゲ、強者の背中
前回までのあらすじ!
なんかもう不幸すぎて頑張れヒュブリス王!
ヒュブリスの両の拳をつかんだまま、甚五郎がゆっくりと膝を立てた。
甚五郎の僧帽筋が、上腕二頭筋が、血管を破裂させながらもさらに膨れあがってゆく。
「――ッ」
ヒュブリスはもう一度甚五郎を大地へと磔にするため、さらなる力を込めた。身を起こそうとする甚五郎の動きが震えて止まる。
「あああぁあぁっ!」
「おおぉぉおぉっ!」
拮抗するふたつの力が大地に深き亀裂を入れ、数秒後には轟音と暴風を伴いクレーター状に沈み込ませた。
「……ッ人間の限界を超えるか……羽毛田甚五郎よ……ッ!」
「……ああ……っ……超える……! ……何度でも……ッ!」
再び動き出す。甚五郎の膝が震えながら徐々に伸ばされてゆく。
「……ヒュブリス王よ……、……おまえの長く苦しかった旅は――ッ」
そうして立ち上がる。血管を破裂させて全身から血を流しながらも、甚五郎は立ち上がった。
決して険しい顔ではなく、穏やかな優しい微笑みで。
「今日、ここで終わる」
互いの熱気が弾けて、同時に距離を取る。
竜人の顔が激しく歪んだ。
「終われるものかッ!!」
金色の鱗に覆われた足で大地を蹴って抉り、腕どころか全身まで弓なりに引いて、甚五郎へと右拳を繰り出す。
全身を血の赤に染めた甚五郎は、それを防ぐべく豪腕を交叉した。
「やり場のない怒りはどこへやればいいッ!」
まるで爆発したかのような音が響いて、甚五郎の豪腕が弾けた。
ヒュブリスはガードの空いた甚五郎の喉を狙って、今度は左の拳を放つ。
「行き場を失った哀しみはどこへ向かうッ!」
甚五郎は弾かれたように見せかけた左手で昇天張り手を放ち、ヒュブリスの左拳を迎撃した。
「ならばそのすべてを、私に叩きつけろ!」
ヒュブリスの拳と甚五郎の掌打が真正面からぶつかり合う。
爆発音が弾けたのは、甚五郎がインパクトの瞬間に肩を入れ、関節をねじり込んでからのことだ。
「がぐッ!?」
ヒュブリスが己の左肩を押さえてよろけるように数歩後退した直後、左腕の鱗が血液とともに弾け飛んだ。
昇天張り手、二段階目。本来であるならば超反応を持つ竜人には入らないもの。現につい先ほどは防がれた。
ゆえにヒュブリス。動揺する。
「なんじゃと……?」
「経験の差だ。おまえは王族と戦うことを自らやめ、王として生きてきた。だが、私はこの地にきて戦い続けてきた。己よりも強きものと戦ったこととて、一度や二度ではなかった」
古竜種黄金竜の血を継ぎ、いかに優れた肉体を誇ろうとも、この差は大きい。
甚五郎は己の胸に手をあて、すべてに感謝する。
精神勝負に持ち込まねば勝てなかった緑色のなんか汚らしいハゲ魔人には、リングで戦っていた頃の記憶を呼び戻された。
当時の力では敵わず従えることで仲間にするしかなかった金狼。あやつが囓った箇所が頭皮でなければ、己はもうあのときに命を手放していたかもしれない。
光精とかいう得体の知れぬ精霊魔法と凄まじい剣技を使う金髪ロン毛の勇者デレクには、戦うことの楽しさ、熱き魂のぶつかり合いを思い起こさせられた。
そして今なお遙かなる高みに鎮座する魔人王グリイナレイ。ゲオルパレスで彼女に遭遇していなければ、己はこの竜人の放つ威圧に耐え切れただろうか。
皆がこの身と心を鍛えたのだ。強く、強く。さらに強く。
「やつらに出逢っていなければ、わたしはすでに倒れていただろう」
そう、鍛え損なったものといえば、毛根くらいのものだった。
「私は旅をしたのだ。王座にいて騎士どもに命じていたおまえとは違う。おまえが真にその女を欲していたのであれば、おまえは王座を捨てて自らの足で彼女を捜すべきだった」
「黙れッ! 黙れッ、黙れッ、黙れッ!! 王族の役割が持つ重みも知らぬものがッ!!」
ヒュブリスが再び大地を蹴った。力なく垂れ下がった左腕を捨て、右腕一本で甚五郎の頸部を断つべく手刀を繰り出す。
渾身の力が込められた手刀は、しかし――骨のぶつかり合う重き音を立て、甚五郎の左腕に防がれていた。
「そうだ。おまえには、それを投げ出して生きる勇気がなかった。生きていけるだけの自信もなかった」
甚五郎の左腕から血液が飛び散る。
だが、眉一つ動かさない。動かさないのだ、この漢は。
痛みでは決して止まらない。この漢の歩みを止めることができるものは、助けを求める誰かの声のみで。
「……だから、おまえの旅はここで終わる」
「終わらぬッ!! 彼女を見つけるまではッ!! 我が歩みは何人にも止められぬッ!!」
至近距離から繰り出された左のハイキックをかいくぐって躱すと同時、甚五郎は左足を深く踏み込みながら己の背の僧帽筋でヒュブリスを打った。
「――フンッ!」
鉄山靠。全体重を踏み込みの勢いのままに、相手にぶつける八極拳の技だ。もっとも、インパクトの瞬間に僧帽筋を膨らませるという源流には存在しない変化を、少々加えてはいるけれど。
「止めるさ。この私が」
巨大な竜人が凄まじい勢いで後方へと吹っ飛び、凍った大地を抉り取りながら跳ね上がり、岩石を背中で砕いてようやく止まった。
「ガアアアアアァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
ヒュブリスが獣の咆吼を上げて、岩石の欠片を跳ね飛ばしながら甚五郎へと飛びかかった。正面から受け止めた甚五郎の首筋に噛み付き、喰い破ろうと首を振る。
「――ッ! 羽毛田式殺人術のひとつ、秒速昇天天国車!」
ヒュブリスを受け止めた勢いそのままに背中から後方へと転がり、二回転、三回転、五回転を超えたあたりで竜人の腹を勢いよく蹴り飛ばす。
「そりゃあっ!」
ヒュブリスの全身が空中で何度も回転しながら、凍った絶壁へと頭から突っ込む。ぶつかった勢いで絶壁が崩れ、竜人の身が氷と岩石によって埋められる。
だが、ヒュブリスは右腕を空へと突き上げて降り注ぐ岩や氷を跳ね除けると、再び立ち上がって咆吼を上げた。
鱗は剥がれ落ち、その身はすでに砕かれ、骨が皮膚を突き破って飛び出していようとも、王は嘆きの咆吼を上げ、甚五郎へと牙を剥く。
鮮血の涙を流し、両足と片腕を引きずりながらも。
「あきらめぬッ!! 儂は――ッ!」
「羽毛田式殺人術――と見せかけて、ただのタックル」
容赦はなかった。甚五郎は叫ぶヒュブリスの両足を抱え上げて逆さに持ち替え、王を担いだまま半分ほど崩壊した絶壁を勢いよく駆け上がる。
何度頭皮に黄金色の拳が振り下ろされようとも、その足が止まることはない。
そうして遙かなる絶壁の中腹に差し掛かった頃、重力に引かれてふたつの巨体が止まる。甚五郎がヒュブリスの首をがっちりとホールドした。
「話は終わっていない。死ぬんじゃあないぞ、ヒュブリス王よ」
「な、何を――ッ!」
「貴様の痛み、せめて我が身にも刻もう」
甚五郎が絶壁を蹴る。
「オオオオオォォォォッ――羽毛田式殺人禁術“愚”、全身毛滅雪崩式ブレェェーーーンバァスタァァァァーーーーッ!!」
落ちる。高度十メートルの高さから。
ふたつの大きな背中が、凍土の大地に勢いよく。
轟音、粉砕、爆発。割れて揺れる大地。大量に飛び散る血液と、岩の欠片、氷の欠片、そして、命。
うめきも悲鳴もなかった。呼吸の音すらなかった。
近辺の騎士らはとっくの昔に逃げ出していたし、人や魔人の気配はおろか、魔物や動物の気配もなかった。
空を見上げていた。
怪物と称されたひとりの漢と魔人すら凌駕する竜人の王は、かろうじて繋ぎ止めていた命で、雪の舞う空を見上げていた。
やがて、両者に呼吸が戻る。
だがもう――漢も王も立ち上がらなかった。殺気はおろか渦巻く闘気すら消えていた。
旅の終わりを知ったのだ、王は。
旅の続きを覚悟したのだ、漢は。
「……教えてくれ、甚五郎よ。儂はこれから、どうすればいい……」
すがるような、弱々しい声だった。
対する声に迷いはない。
「今の私の言葉ならば信じられるだろう。ゲオルパレスにはおまえの求めた女はいなかった」
「そう……か……。……エカテリーナは……もはやこの大陸には……おらなんだか……。……そうか……」
王は血の涙を流していた。
血塗れの手で口もとの赤を拭い、甚五郎は続ける。
「託せ、ヒュブリス王よ。おまえには子がいる。正妻の子にシャナウェル王国を託し、そしてシャーリー――シャルロットに母親であるエカテリーナの捜索を託すのだ。彼女はおまえよりも強い。だからシャナウェルからひとりで旅立てた」
ヒュブリス王は黙ったまま、雪の降る空を見つめていた。
甚五郎はゆっくりと上体を起こし、静かに続ける。
「私はこれからレアルガルド大陸に渡る。シャーリーを連れてな。この世界からこのような悲しい戦いがなくなるまで、戦い続けるつもりだ」
「……」
「その際にエカテリーナという女を捜すことを約束しよう。そしてこの地で、王族という身分を捨ててまで、おまえを待ち続けている男がいたということを、エカテリーナに伝えよう」
「……レアルガルド……か……。……もっと早ように王族であることを捨てられていたならば、儂はエカテリーナとその地に立てていたであろうか……」
甚五郎の瞳がわずかに細められた。
「ああ、きっとな」
そして、甚五郎は立ち上がる。
竜人となったヒュブリス王をその場に残したまま、歩き出して。
「おまえはもう少し休んでいけ。これだけ派手にやり合えば、しばらくの間は騎士たちも戻ってはこんだろう。竜人ゆえに身を置く場がなければ魔人王を頼れ。私が口利きをしておく。グリイナレイは人間を好いてはいないが、話してわからんほどの悪の類でもない」
「……甚五郎よ……」
立ち止まり、振り返る。
そこには異形であるにもかかわらず、瞳を細めて口角を上げ、めいっぱいの笑みを浮かべているヒュブリス王がいた。
鱗の剥がれ落ちた震える手を上げて、己の頭部をとんとんと指で叩き。
「……生えると……いいな……」
意外な言葉に、甚五郎がはにかむ。
「ふははっ、生えるさ! いつかな!」
こうして漢は、晴れやかな気分でゲオルパレスへと続く道を戻っていった。
生えねーよ。




