ハゲ、孤独の王座
前回までのあらすじ!
ヒュブリス王はハゲのハゲトークにも対応してくれる天使のような人だった!
両手を前に出し、竜人ヒュブリスへと疾走する。
まるでそれにこたえるかのようにヒュブリスは甚五郎と同じ体勢で両手を前に出し、がっちりと組み合った。
奇しくもレスラー同士が互いの力を確かめ合うかのように。
「ぬ……ッぐ!」
「ぬぅ……ッ!」
竜顔と化したヒュブリスを睨み付け、甚五郎が歯を食いしばって鬼面と化した。
限界まで膨れあがった甚五郎の腕の筋肉が、白い蒸気を立ち上らせる。
だが、拮抗。
熱く滾った互いの肉体を限界まで振り絞り、両者は動かない。動けない。
甚五郎が食いしばった歯の隙間から、静かなる言葉を吐き捨てた。
「……貴様は今、誰を見ている……ッ?」
「――ッ?」
一瞬の戸惑い。甚五郎の問いかけにヒュブリスが眉を微かにひそめた瞬間――。
「ぬがああああああっ!!」
甚五郎は手を組み合ったまま、ヒュブリスを持ち上げた。
「羽毛田式殺人禁術、頭皮怨滅二本背追いッ!」
持ち上げたヒュブリスに背中を向け、二本の腕を拘束したまま腰を曲げてヒュブリスの頭頂部を大地へと叩きつける。
受け身不能の必殺技――!
「そぉぉりゃああっ!!」
竜頭の鱗が弾けて凍った大地が四方に割れて捲れ上がり、シャナウェル軍本営の天幕が激しく揺れた。
シャーリーが息を呑むと同時、大地に頭部を埋めたヒュブリスが二本の腕の力だけで跳躍し、甚五郎の顎下を蹴り上げた。
甚五郎の視界にノイズが走る。
「がぐッ!?」
高く吹っ飛んだ甚五郎が天幕の布を突き破り、空で後方回転をして大地に足をつけた。
「ぬぅっ――!?」
「心配するな、若造」
天幕の布を払い除け、ヒュブリスが甚五郎の前に立つ。そうして拳を握りしめ、背部にまで引き絞った。
「あの勇者デレク・アーカイムを置いてしてシャルロットが連れて戻った漢だ。おまえを軽くなど見てはおらぬ。――全力で排除する!」
ヒュブリス王の拳が放たれた。
岩盤はおろか鋼鉄さえも貫く竜人の拳は、しかし甚五郎の広げた掌へと吸い込まれるように受け止められていた。
おおよそ生物の肉体から発せられる音とは思えぬほどの轟音が響く。
衝撃が甚五郎の皮膚を、肉を、血を、内臓を伝い、背中から抜けて甚五郎の背負ったもの――背後に立つシャーリーの銀色の髪を揺らした。
遅れて甚五郎の血管が破裂し、そこかしこから赤い血液が飛び散る。
「ジンサ――ッ!」
「――違う! そうではない!」
「おまえは何を言っているのだ?」
受け止めた右腕を甚五郎が絡め取ろうと動くより一瞬早く、ヒュブリス王の放った左拳が甚五郎の頬へと突き刺さった。
「――がッ!?」
甚五郎の巨体がねじれ、曲がり、右方へと転がるように吹っ飛ばされ、降り積もった雪を巻き上げて跳ね上がる。
どうにか両足を大地につけた甚五郎の腹部に、すでに距離を詰めていたヒュブリスの蹴り足がめり込んだ。
「がはぁ――ッ!」
渓谷の凍った岩盤に背中を叩きつけられ、跳ね返り、それでも甚五郎は倒れない。
血を吐き、口もとを拭って。それでも倒れないのだ、この男は。このハゲは。
口を開きかけ、悔しげな表情で閉ざす。
数秒、刻が流れた。ヒュブリス王も甚五郎も動かない。ただ睨み合うだけで。
やがて甚五郎は穏やかな声で少女に告げていた。
「……シャーリー、すまない。時間がかかりすぎた。アイリアたちが心配だ。風精の速度でなら間に合う。加勢を頼めんか?」
少女はわずかな逡巡の後、唇に手をあてて問い返す。
「…………わたくしがいてはできない話でしょうか」
ああ、と恥じた。
ともに旅をしてきた少女の成長を、肌で感じられた。
己は言い方を間違えたのだ。理由など必要なかった。もはやこの少女は子供ではない。
旅をして、成長していたのだ。
だから、もう――。
「私を信じろ。約束する。私は決して負けはせんし、ヒュブリス王を止めてみせる」
「信じています。ずっと最初の頃から。ジンサマだけを見てきたから。まっすぐで、力強くて、髪のことばかりを気にして、けれど髪を捨ててでもわたくしやアイリアさんを守ろうとしてくれて。そんな背中ばかり見てきましたから」
少女の銀髪と外衣がふわりと揺れた。緑の風に乗って。
「……あなたを信じないわけないじゃないですか……だから……」
掠れるような声で。けれども、次の瞬間には怒りをぶつけるように。
「――そんなふうに言われたら、もう行くしかないじゃないですかッ!」
「すまない」
敵である竜人から視線をはずし、甚五郎は少女に微笑みかけた。
「謝る必要はありません。その代わりに約束を一つ増やしてください。必ず帰ってきて。この戦いがどれほど悲しい結末になろうとも、わたくしはすべて受け入れます。だからジンサマだけは、わたくしたちのもとへ帰ってきて」
「……約束しよう……」
そうして少女は緑の風の中で、甚五郎に背中を向けた。
歯をきつく食いしばって。
「……ゲオルパレスで待っています……」
その言葉を言い終える頃には、少女の姿はすでにそこになかった。
甚五郎はゆっくりと竜人ヒュブリスへと視線を戻す。そうして鬼面とはほど遠い穏やかなる表情で、ぽつりと呟いた。
「私ももう歳だな。ずいぶんと涙腺が弱くなった」
お乳首様の間で左右に揺れるネクタイで、涙を拭いながら。
「よき影響を、娘に与えてくれたようだな。心の成長とは眩しきものよ」
「そうだな。さて、これよりは男同士の時間だ。少し話をしよう、ヒュブリス王よ」
レスラーのかまえを取った甚五郎にこたえるように、ヒュブリス王が右足を後ろに引いて両の拳を握りしめた。
「よかろう。ただし時間が惜しい。戦いながらだ。おまえが最後まで立っていられたならば、儂のすべてを知ることができるであろう」
「……フ、望むところだ」
両者の合間で闘気がぶつかり、混ざり合い、激しく渦巻く。
甚五郎のくたびれた革靴とヒュブリスの竜足が、同時に大地を蹴った。
右掌の指をたたみ、踏み込みと同時に昇天張り手を放つ。放たれた拳と掌打がぶつかり合い、空間に衝撃波が走った。
昇天張り手、二段階目。肩を入れ、関節をねじり込むようにしながら甚五郎がヒュブリス王の拳を押し込もうとすると、ヒュブリスは自らの左拳で甚五郎の右腕を殴りつけて力を逸らした。
一瞬の攻防。
ふたつの巨体が交叉する。だが、互いに眉一つ動かさない。
「問え、若造」
「愛している、と言ったな。シャーリーを見ながら」
背中合わせから跳躍。放った殺人術、頸削ぎ回し蹴りが鱗に守られた腕で防がれる。
渇いた音と凄まじい衝撃波が空間を揺らす。
「それがどうかしたかね? あれは我が娘。何も不思議なことはあるまいよ」
着地の瞬間を狙って放たれたローキックに足を弾かれ、しかし甚五郎は片手で大地を弾き、両足を振り上げた反動で着地する。
「ならばなぜ幼きシャーリーをシャナウェル城の主塔に閉じ込めた」
走り込んできたヒュブリスの拳を、両腕を交叉して受け止める。ガードごと弾かれて革靴が雪面を滑り、甚五郎の巨体が大きく後退した。
「愛らしい小鳥を籠に閉じ込めておきたくなるのが、人間の傲慢というものであろう」
なおも追撃に来たヒュブリスの拳を体捌きで躱し、甚五郎は右腕をヒュブリスの頸部へと巻き付け、片腕を取って腰で払い投げた。
殺人術、首狩り投げ。
「とぼけるな。今をおいて他に話す機会はないぞ」
大地に背中から激しく叩きつけられたヒュブリス王が転がり、すぐさま起き上がって――甚五郎の追撃、殺人術、爆裂三十二文ロケット砲に吹っ飛ばされた。
背中から凍った絶壁にめり込み、ヒュブリスが初めて苦悶の表情を覗かせる。
「……か……っ」
甚五郎は恐れることなく堂々と胸を張り、ヒュブリスへと近づいてゆく。
「ヒュブリス王よ、おまえはシャーリーに誰の影を見ている」
「――」
竜顔の瞳が大きく見開かれる。
「シャルロット・リーンの母親、おまえの妾だった女は今どこにいる。愛しているのは、シャーリーではなく――っ」
その言葉が皮切りだった。ヒュブリス王が豹変したのは。
ヒュブリスが絶壁を蹴って飛び、とっさに交叉した甚五郎の両腕を拳ひとつで薙ぎ払う。
「がああああっ!」
「うぬ――っ!?」
甚五郎の巨体が勢いよく背後に転がり、凄まじい勢いで吹っ飛ばされる。
両手両足で雪面を掻き、どうにか体勢を整えようとした瞬間、空高くから降ってきた竜人の膝を背部に喰らい、甚五郎が吐血した。
「がはッ! ぐ……っ、シャナウェルがおまえの代になり、急激に各地へ勢力を伸ばし始めたのは、敵地にいるかもしれん女を捜すためではないのか! 国境をなくしたかったのではないのか!」
「そうだッ! 儂から去ったあの女を捜すには、支配地域を増やすしかなかったッ!! 王という身分が、王族という立場が儂を王座に縛りつけるのだ! どこまで行っても!」
後頭部をつかまれ、何度も額を凍った大地へと叩きつけられる。そのたびに大地が揺れて、地面は亀裂を深くした。
仰向けに転がされ、顔面に拳が叩きつけられる。
「が……ッ、……ぐッ!」
「妾を愛して何が悪い! 先代王に決められた正妻を娶り、跡継ぎは成した! もういいだろう! 儂を解放してくれ!」
「ぐぅ……!? シャーリーを閉じ込めたのは、おまえがその面影を恐れたからか!」
苦悶する甚五郎の上で拳を握りしめ、ヒュブリスは何度も振り下ろした。
「そうとも! 愛しく憎い、あの女に似ていた! 姿も、声でさえも! 成長するほどに! なぜ、儂から去っていった! あれほど愛していたのに!」
激痛の中で頭蓋が軋み、視界が血の色で赤く染まる。
甚五郎の肉体を中心として大地が四方八方に割れて、クレーター状へと変化してゆく。ヒュブリスが甚五郎を殴るたびに、ふたつの巨体が大地へと沈んでゆく。
「だがッ、それでもおまえはたしかにシャーリーを愛していた! 狂ってゆく己の手から逃そうとして、デレク・アーカイムに託そうとしたのだろう! おまえは王でありながら、王族と戦っていた! 勇敢だった!」
「だからどうしたッ! 儂は負けたのだ! このくだらぬ重責に!」
何度も振り下ろされる硬い拳が、ほお骨を砕く音がした。
それでもこの男は――。
まっすぐな目で。
「デレクならば。ウィルテラを独立にまで導いた若き勇者デレク・アーカイムならば、いつか暴走する己を止めてくれる信じていた。ところが、シャーリーが連れて戻ったのはどこの馬の骨とも知らん私だった」
「その通り! すべて貴様の想像通りだ!」
矛盾だ。
王でありながら王族を憎み、女を愛しながら憎み、求めるほどに去られ、そして壊れた。
シャナウェル王ヒュブリス・リーンの心は、すでに壊れていた。
「女を捜し出し、どうするつもりだ!」
「もはや儂にもわからぬ! だが、捜さねばならない。どれだけの血を流そうとも、見つけねばならんのだ!」
ゲオルパレスに人間の女は、ルーの母親であるミヒアルひとりだ。
ヒュブリスの探し求める女ではない。たとえ国境を破壊し、勢力下に置こうとも、シャーリーの母親は見つからないだろう。
だが、それを語ったところでヒュブリスは己の目で見るまで信じることはないだろう。
ああ、孤独なる王よ……。
ヒュブリスが固く拳を握りしめ、高く引き絞った。めきめきと軋む音を立て、竜腕が膨張してゆく。
「失望したのだ。儂は。シャルロットは儂を止めることに失敗した。――だからもう眠れ、羽毛田甚五郎」
うなりを上げて、竜人の右拳が繰り出される。
だが、甚五郎は。
放たれた右拳を左手で包み込むようにして受け止めていた。優しく、力強く。
「ぬっ!? もうあきらめろ、甚五郎。これ以上は苦しみが増えるだけだ」
竜人ヒュブリスが左の拳を繰り出す。
だが、その拳さえも甚五郎は受け止めた。歯を食いしばり、骨を軋ませ、優しく受け止めたのだ。
そうして上体を起こすのだ。この男は。このハゲは。驚愕と戸惑いに目を見開くヒュブリス王をゆっくりと押して。
圧倒的な力で。圧倒的な心で。
「……ああ、悲しいなあ。おまえの拳は、まるでこぼせなかった涙のようだ」
表情を――穏やかにして。
ラスト数話です。
最後くらいはシリアスに。




