ハゲ、新たなる殺人禁術
前回までのあらすじ!
白いモサモサのやつに、体毛なきハゲがバカにされたぞ!
イエティの群れが動き出すよりも先に、ぶち切れたハゲが雪の大地を革靴で蹴った。迷うことなく先頭の大きな個体を狙って拳を固め、腕を引き絞る。
「うぬがああぁぁぁぁっ!!」
顔面中に血管を浮かせたハゲの拳が、一際大きなイエティのボスの頬へと突き刺さった。重く、荒々しく、骨と骨のぶつかり合う音が鳴り響き、口から大量の唾液を吐き出しながらイエティの首が真後ろを向く。
――ホ……ッ。
ごぎり。首から嫌な音が響いて、ボスイエティが目を剥いた。
「フ、これに懲りたら人の欠点を笑――」
だが、次の瞬間には――。
斜め下。下げられた甚五郎の視線を掬い上げるかのように、白の体毛に覆われた野太い獣の腕が、甚五郎の巨体をあっさりと吹っ飛ばしていた。
「ジンサマ……!」
たたんでガードした腕もそのままに、数メートルを吹っ飛ばされた甚五郎が着地と同時に革靴で雪上を滑る。
びりびりと、腕が痺れている。
「ぬぅ!?」
ボスイエティは真後ろを向いてしまった首を自らの腕で押して戻し、激昂したかのような激しい鳴き声を上げた。
――ホォォォォオオオオオォォォォッ!!
直後、他のイエティたちが次々と大地を蹴った。
これは――!
まずい、と思った。
飛びかかってきたイエティの腕をつかみ、渾身の力を込めた背負い投げで他の個体へとぶつける。二体、もつれ合って遙か遠くまで吹っ飛ぶも、何事もなかったかのように再び立ち上がる。
右肩を狙った噛み付きを身をよじって躱す動作に連動させ、背後から頸部をつかむ。だが、全握力を込める前に別の個体の拳が背中に突き刺さり、甚五郎は前方へとよろめいた。
その隙に捕らえていた個体は腕を払って距離を取る。
「きゃあああああっ!」
絹を引き裂くような乙女の悲鳴に振り返る。
「シャーリー!」
四体ものイエティが、四方からアイリア、シャーリー、ルーを取り囲んでいる。
駆けようとした甚五郎の前にボスイエティが立ちはだかり、正面から前蹴りを浴びせかけてきた。
――ホゥ!
「ぬぐっ」
とっさに両腕を交叉して受け止めた甚五郎の革靴は雪上を大きく滑り、さらに三人との距離を開けられてしまう。
こ、こやつら――。
野生動物の動きではない。やはり連携を取っている。
最も厄介と踏んだ甚五郎を、アイリア、シャーリー、ルーから引き離すために。
ボスイエティにすぐに距離を詰められる。その周囲を七体ものイエティらが追従し、甚五郎を四方から再び取り囲んだ。
「アイリア!」
「~~ッ!」
こたえはない。アイリアにこたえる余裕などないのだ。
手の届かぬ距離で、アイリアが四体のイエティを相手に孤軍奮闘している。シャーリーもレイピアを振るってはいるが、ルーを守るために彼女の最大長所である風の精霊の力が発揮できていない。
足を止めた状態では、シャーリーは力の半分も引き出せない。
背後の息づかいに反応し、甚五郎は忍び足で迫っていた一体の頭部を強くつかむ。側面から飛びかかってきた別の個体の拳を、つかんだ一体の腹を盾にして受け止める。
――オゴ……ッ!
胃液を吐いて、手に持ったイエティが悶絶した。
襲いかかってきた個体の側頭部を無造作に裏拳で払い除け、手に持った一体を正面のボスイエティへと渾身の力で投げつける。
「すぉぅりィゃあァァ!」
――ホゥ!
甚五郎と変わらぬ体躯を持つイエティを、ボスイエティがいともあっさりと片腕で払い除けた。
まるで小石のように吹っ飛んだイエティが、雪上に打ちつけられ、跳ね上がり、転がって樹林の針葉樹に背をぶつけ、前のめりに倒れる。
動かない……。
一撃だ。ボスイエティがあっさりと払い除けただけで、強固な毛皮と恐るべき筋肉を持つイエティが倒れた。
絶望。これだけを見れば、誰もが絶望するだろう。
だが。だが、左方。先ほど甚五郎が裏拳で無造作に吹っ飛ばした個体もまた、すでに動かぬ肉塊となっている。
ここで初めて、イエティたちは気づくのだ。
これはすでに狩りなどではなく、生死を懸けた戦いに発展しているのだ、と。この、頭部にすら体毛を持たぬ気持ち悪いよくわからん筋肉だらけの珍妙なるハゲた生物は、己らにとっても十二分に脅威なのである、と。
「かはぁ~~~……」
鬼面。悪鬼羅刹のごとき表情で真っ白な息を口と鼻から吐いて、甚五郎の筋肉が一層膨張した。
ボスイエティ以外のイエティたちが、息を呑んで一歩後退する。
「どうした? かかってこい。貴様らが私に得意げになってドヤ顔で自慢したその艶々の美しき体毛を毛根ごと引き抜き、我が同士にしてくれよう」
以前であるならば、決していわなかった言葉。
たとえ敵であってすら、奪おうとはしなかった頭髪。けれど、すべてを失いかけているこの漢には、頭髪の九割を失ってしまったこの漢には、敵にかける情けなどない。
――ホウ、ホホウ、ホ。
ボスイエティが自らの背後を指さし、他の個体を見回した。
「――?」
眉をひそめた甚五郎を尻目に、甚五郎の包囲が解かれる。
そうしてその場にボスイエティだけを残して、五体のイエティが一斉にアイリアたちのほうへと走り出した。
「貴ッ様ァ……ッ!!」
やられた。
四体を相手に互角に渡り合うアイリアであっても、九体に膨れあがったイエティを相手にすれば確実に保たない。
右へ左へ、豪腕を躱してステップを踏み、女は妖刀で斬りつけている。けれど、妖刀の特攻効果は魔人に対するものであって、魔獣相手にはせいぜいがよく斬れる短刀に過ぎない。
遠くからでもその端正な顔に、焦りが浮いているのが垣間見える。
その視線すら断ち切るように、ボスイエティが遠く離れてしまった甚五郎とアイリアの間に立った。
もうすぐ、追加の五体がアイリアに襲いかかる。おそらくいかな魔人狩りと呼ばれた女であろうとも、ひとたまりもないだろう。
だが、人並み外れた甚五郎の感覚は、すでにそれを鋭敏に察知していた。そして同じ感覚を、アイリアもまた察知しているであろうことも理解している。
ゆえに先ほどの言葉は、仲間を殺される恐れから吐き出されたものではない。このような卑怯な戦法を採った、白猿どもに対する苛立ちからに過ぎない。
そのことにボスイエティは気づいていなかった。
だから、嗤う。まだ嗤えているのだ。
――ホホホホホゥ! ホホホホホゥ!
秒数にして、わずか三秒。
ルーを中心に、アイリアとシャーリーがイエティの群れに取り囲まれる。
その一秒後、群れが散った。
雪煙を上げて走り込んできた巨大な金狼の出現によって。その牙には、すでに逃げ遅れた一体のイエティがぶら下がっている。
金狼はイエティの頸部を食いちぎると、大口を血で汚しながら咆吼した。
――ウオオオオオォォォォーーーーーーーーーーーーーーーッ!!
前足を伸ばして身を屈め、体毛を逆立てて。
その胴体に巻かれたふたつの金貨袋が互いにぶつかり、ちゃりちゃりと音を立てている。
リキドウザン先生の参上に、シャーリーの瞳に光が戻る。
「……どこを見ている……」
視線を金狼に向けていたボスイエティの耳元で、ハゲが静かに囁いた。
――!
奇声を上げながらボスイエティが甚五郎の頭部を薙ぎ払う。甚五郎はいち早く身を屈めてそれを躱した。
ゴォっという音と暴風が、毛のない頭部すれすれを通過すると同時、甚五郎はがら空きの脇腹へと掌打――否、平手に近い打撃を繰り出す。
「ぬぅん!」
これまでの打撃とは違い、腕全体をまるで鞭のようにしならせながら。
スパァ~ン、と甲高い音が響き渡り、ボスイエティが苦悶の表情で身をよじった。だが次の瞬間には長い両手を大地について、両足で甚五郎を蹴り飛ばす。
「ぐぅ!」
雪面を滑り、背中から転がって膝を立てる。
強い。力だけなら、ヘドロや甚五郎よりも。
――ホ! ホオオオオゥ!
怒りの声。怒気を含んだ叫び。殺気が膨れあがる。
だが、嗤う。嗤うのだ。この漢は。羽毛田甚五郎という人物は。
「く、くく――」
掌打。先ほど浴びせかけた掌打は、昇天張り手ではない。試合のために編み出された技ですらない。このような技は、試合ではもちろんのこと、人間を相手に使ってよいものではないのだ。
さらに凶悪なる殺人禁術。
肉体へのダメージよりも、精神を崩壊へと導く技。生きる希望のみを根こそぎ奪う、禍々しき悪なる行為。
「く、くくくく……っ」
甚五郎が仄暗い含み笑いで立ち上がった。
「――羽毛田式殺人禁術“愚”、脱毛張り手」
その右手の中には、掌打を放った瞬間につかみ取った、純白の体毛。それも大量に。
舞い散る粉雪に投げ捨てて、凄惨な笑みで呟く。
「……もう止まらんぞ。貴様の体毛が、すべて失われるまではな」
ボスイエティの左脇腹の毛皮は、大きく失われていた。
肉体に大したダメージはない。だからこそ、ボスイエティは己を愚弄するかのようなこの技に対し、怒る。怒るのだ。
だが、それこそが甚五郎の思うつぼ。愚弄技でムキになって怒らせ、倒してしまうことも、逃がしてしまうこともせず、すべての体毛を奪う。
毛髪のみに照準を絞った、愚かなる殺人禁術。
甚五郎が両手を挙げて膝を曲げ、レスラーのかまえを取った。
「さあ、かかってくるがいい。長き友らを失いし私を、お上品な貴族笑いなどで嘲り嗤ったこと、後悔させてやろう」
や、誰も笑ってねーから……。




