ハゲ、救いをもたらす
前回までのあらすじ!
おや? 幼女の様子がおかしいぞ?
小川に浸けた手ぬぐいを絞って甚五郎に背中を向け、アイリアが上半身の肌着を腰のあたりまではだけさせた。
甚五郎はさりげなく背中を向ける。
すでに太陽は高く昇っているため、凍えるような寒さは緩和されている。それでもまだ少し肌寒い。
アイリアが身体を手ぬぐいで拭いながら、背中越しに声をかけてきた。
「で、どうするつもりなの、ジンさん?」
美しき娼婦に背中を向けたまま、甚五郎は紳士のたしなみ、ハンケチーフでキュッキュと音を立てながら頭皮を磨き、皮脂を落としてゆく。
毎朝の習慣だ。日本にいた頃から変わらない。いつか帰ってくるであろう、長き友らのために。
アイリアが焦れたような声を出した。
「ジンさん?」
「すまない。聞こえている」
この羽毛田甚五郎という男は、背後のあられもない姿の女性が気にならぬほど枯れた男ではない。むしろ有り余るエネルギーを抑える必要すらある。
だが、振り向くことは決してしない。
紳士なのだ。この男は。ハゲの分際で。あきれるほどに。
「……むう」
埒もないと思ったのか、アイリアが先に口火を切った。
「ウィルテラに一度戻る?」
「いや、それは……」
シャナウェルの侵攻は今日この瞬間にも始まるかもしれない。そうなってからではエリクサーを分けてもらうどころか、魔人王に謁見することさえできない。
「あのさ、ジンさん。もしかしてあたしにルーを連れてウィルテラに戻れって言おうとしてない?」
アイリアが移動したのだろうか。今度は手ぬぐいを浸す音ではなく、水に身体を浸けたような音が聞こえてきた。
昨夜はずいぶんと汗を掻いた。おそらくは髪をせせらぎで洗っているか、もしくは足を浸けているのだろう。そういえばここへ来る途中、アイリアは着替えを一式用意していたか。
ずいぶんと信頼されたものだ。
質問に対して無言でいたことを肯定と取ったのか、アイリアが不機嫌そうに唸った。
存外に子供っぽい態度を取る。あるいはこのハゲの前だからだろうか。
「いや、そうではないのだ」
「じゃあどうするのよ?」
「ルーにとっては出戻りになるが、ゲオルパレスに連れて行こうと考えている。あなたの意見を聞きたくてな。私はゲオルパレスや魔人に詳しくはないから」
ぱしゃ、と水の跳ねる音がした後、濡れた足音が聞こえてきた。
どうやらもう上がるらしい。残念ではあるが、この寒さで流水に身体をさらしたままではさすがの魔人狩りとて長くはもたないだろう。
「……帰すつもりならあんまりおすすめできないわね。この前も言ったけど、魔人と人間の間に産まれた子に呼び名はないの。つまり、ゲオルパレスにあの子の居場所はないってことよ。じゃなきゃご両親も亡命なんて考えないでしょ」
「差別を受けるのか?」
「そうね。どの程度のものかは知らないけど。魔人って種族は基本的に気性が荒いから、シャナウェルと対立してることもあって、今は特に人間を毛嫌いしてるの。ルーみたいな存在はちょっとまずいわね」
「ふむ。魔人とは、みなヘドロのようなものか?」
数秒の沈黙の後、アイリアが笑った。
「あれは特殊よ。魔人の中でも相当特殊な個体だわ。力も並外れてるし、性格もぶっ飛んじゃってる。まあ、あいつは魔人界のジンさんってところかしら」
甚五郎が心底嫌そうな表情でうめいた。
「……あのようなハゲと似ているだなどと、勘弁してくれ。私には横にも後ろにも長き友らがいる」
「あはっ。冗談だからそんな顔しないで。ま、普通の魔人は……そうね。基本的に一騎当千の戦闘民族ではあるけれど、一般的な個々の力は知性を得たオーガってところかしら」
手強いな。オーガの筋力はとてつもない力を秘めている。やつらが知性を得たと考えれば、これまでのように簡単には屠れないだろう。
一般的な王国騎士では太刀打ちできないはずだ。
「人間を敵視した結果の差別か」
「そういうこと。……人間のほうに問題があるのかもしれないわね」
少なくともルーの両親にとってゲオルパレスという国は、我が子を連れてウィルテラに逃れようとする程度には危険だったのだろう。
そんなことを考えていると、衣擦れの音が聞こえてきた。
「そうか。ゲオルパレスには帰せんな」
「育てる気なら、ウィルテラしかないわね。もっとも、シャナウェル王が港湾都市に侵攻したら、そこもだめになるけど」
シャナウェル。人間の王が治める王都。
横暴なる王国騎士らによって、偽りの平穏を強いている国。シャーリーを閉じ込め、政治利用しようとしている国。この大陸を支配しようとしている国。人質を取って勇者デレクを操ろうとする国。
息をするように、自然とその言葉が吐き出される。
「……いっそ潰すか」
エリクサーを入手した後の話だ。
「何を?」
「なんでもない。とにかく今はゲオルパレスを目指そうと思う。ルーは連れて行くが、ゲオルパレスには帰さない方向で考えよう」
「連れて行くのは大変よ? 魔人の血が混ざっていても子供なんだから。この旅は、どんな危険があるのかわかったもんじゃないもの」
ハンケチーフで上半身を拭いていた甚五郎が立ち上がり、アイリアを振り返る。
「フ、問題ないさ。ひとり守るのもふたり守るのも同――……」
アイリアは上半身をはだけさせたまま、大きな胸を固定するためにサラシのようなものをくるくると身体に巻き付けているところだった。
「……」
「…………同じ……だから……な?」
甚五郎の視線が、サラシの中で柔らかに形を変えた胸に注がれる。
ざわ、ざわ、死霊の樹林が風に揺れていた。そして、しばらく。
「……見たいの?」
「く……! おおおおおおっ!! ――とぅ!」
叫ぶや否や、甚五郎はスーツのパンツをずり下げ、巨体で高く跳躍する。
「ジンさ――っ!?」
静かなるせせらぎへと。派手な水しぶきを上げて。
やがて陽光に輝くハゲ頭が、静かにぷかりと浮かんだ。続いて、甚五郎の顔が水面からぬるりと生える。
「えっと……? 何してんの……?」
「すまない、アイリア。少し頭を冷やす。先に戻っていてくれないか」
「……あ、そう?」
サラシを巻き終えたアイリアが、いつもの扇情的な服を身につけて、去り際に嬉しそうに笑いながら囁いた。
「ふふ、いいのに。愛されてなくたって、責任取れだなんて言わないわよ。ジンさんだから、ね?」
その言葉を受けて、海坊主のように水面から生えていた甚五郎が再び水中へとゆっくりと潜る。
軽やかな足音が遠ざかってしばらく――。
体内に渦巻く欲望の熱が水流に流されるのを待って、甚五郎はひとり静かに岸へと上がった。
ため息をついて濡れた身体を拭き、廃宿の寝室へと戻る。濡れた下着を替えてキッチンスペースへと戻ると、ちょうどサンドウィッチが出来上がったところだった。
アイリアはあくびをしながら、すでに木製の椅子に着席している。甚五郎はアイリアの隣の席に座った。
「あら、おかえり。ジンさん」
「さっきはすまなかったな」
「あれ? おふたりとも、何かあったんですか?」
「む……ううむ」
シャーリーが甚五郎とアイリアの前にサンドウィッチを並べて尋ねてきた。
ルーがよほど張り切ったのだろう。サンドウィッチはどれもこれも形が歪だ。見た目はうまそうには見えない。
質問にこたえない甚五郎に、シャーリーがアイリアを睨む。
「ア・イ・リ・ア・さん? まさか、ジンサマを襲っ――!」
アイリアが首を左右に振った後、肩をすくめて視線をルーへと流した。
「あ……」
おそらくルーのことだと思ったのだろう。シャーリーがあわてて口をつぐむ。
シャーリーが視線をルーに戻した瞬間に、アイリアが甚五郎に視線を向けて舌を出す。
甚五郎はなんとも言えない味のある表情で、ハゲた頭をぽりぽりと掻いた。
百戦錬磨の元娼婦。おそるべき機転だと、苦笑いをする。
調理台まで身長の届かないルーが、踏み台を使ってサンドウィッチを手にした瞬間だった。踏み台から足を踏み外したルーが、「あ」と小さな声を発して倒れ込む。
「わ、わ……」
「っと!」
シャーリーがすぐさま手を伸ばし、ルーの身体を支えた。
だが、ルーの運んでいたサンドウィッチはひとつ残らず、廃宿の汚れた床へと落ちて崩れる。
「大丈夫ですか、ルーさん?」
「あ、あー……」
ルーがあわてて拾い集めるも、サンドウィッチはパンと葉野菜と肉に分裂し、すでに黒ずんだ砂埃にまみれていた。
直後のことだ。ルーの様子が激変したのは。
「う、う、ごめん、ごめんなさい! ルーがたべる! これ、ルーがたべるから!」
ルーが歪な表情を浮かべる。
「みんな、おちてないの、たべて! ルーのしっぱいだから! ルーはみんなのやくにたつから!」
シャーリーを見て、甚五郎を見て、アイリアを見て。
脅えたような瞳で。今にも泣き出しそうな、不穏な笑みで。
「ちょっと、何言ってんの? あんた、そんなの食べたらお腹壊すわよ?」
「だいじょーぶ! ル、ルーならへーきだ! な? ほら!」
ルーが掻き集めた埃まみれのサンドウィッチを、止める間もなく自らの口へとねじ込んだ。
じゃり、じゃり。嫌な音が響き、シャーリーが大あわてでルーの両手をつかんだ。
「ルーさん! 何をしてるんですか! そんなの食べちゃだめですよ!」
「わ、わー! わああぁぁぁ! ちがう、ちがうから! ルー、いつもはこんなんじゃないから!」
まるで錯乱したかのように、ルーが暴れて叫ぶ。
「す、すてないで! たべるから! もうしっぱいしないから!」
半分魔人であるためか、シャーリーがルーの怪力に押されて背中から転がり、テーブルの脚に後頭部を打ちつけた。
「きゃっ! い、たたた……すごい力……」
「あ……っ、あ……っ、シャーリーねーさ……ごめんなさ――わあ、わああああっ!」
涙の浮いた目を見開き、ルーが金色の頭を抱え込む。つかんだサンドウィッチの残骸が、ぐちゃぐちゃになっていることさえ気づいていない。
アイリアが背後からルーを両腕で抱きしめる。
「ルー! ルー! 暴れないで! お、落ち着きなさい!」
「すてないで……すてないで……ルーのこと、もうおいてかないで……! おいていかないで……! おねがいだから……おねがいだから……!」
その言葉に、シャーリーとアイリアが同時に目を見開いた。
誰に明かすこともなく、小さな身体に抱えていたのだ。父や母がルーを置いて、海に消えた日の寂しさを。
やはり、と。
ただひとり、甚五郎だけは。このハゲだけは気づいていた。ルーが自分たちに対して不安そうな視線を向けていたことを。
それはつまり、また失うかもしれないという恐怖だ。
だから――。
甚五郎がゆっくりと立ち上がり、握りしめたルーの手の中でゲル状と化したサンドウィッチだった物体を、強引に取り上げ――そして。
まるで何事もなかったかのように、その物体を口へと放り込んだ。
じゃり、じゃり。
味わいながら噛みしめて、満面の笑みで叫ぶ。
「おお! うまいではないか、ルー!」
ルーの錯乱がぴたりと制止する。だが表情は不安げで、肩で荒々しく息をしたままだ。
甚五郎は大きな掌をルーの頭にのせて、優しい声で囁いた。
「うむ、感心感心。明日も明後日も、シャーリーやアイリアを手伝ってやるんだぞ。働かざる頭皮、洗うべからず。私のいた国の諺だ」
幼き少女から嗚咽が漏れ始める。
さっき一所懸命洗ってたじゃない、とでも言いたげなジト目で甚五郎を見ていたアイリアが、ようやくルーの束縛を解いた。
安堵のためか、ルーがその場にぺたりと座り込む。
そうして涙で上擦った声で――。
「ずっとか……? じんごろー? いいのか? ずっと、いっしょか?」
「あたりまえだ。まったく。何を言っているのだ、ルー。…………フ、おおかた怖い夢でも見たのだろう。健全なる精神は健全なる筋肉美に宿る。これも私のいた国の諺だ。笑って生きたければ、美しき筋肉を鍛えるがいい」
前腕二頭筋をもりっと盛り上がらせて、甚五郎が不気味な笑みを浮かべる。
「……ルーさんに妙なことを吹き込むのはやめてください、ジンサマ」
「あ、はい」
この瞬間、初めて。幼子は心の底からの笑顔を浮かべたのだった。
ハゲた大男に、飛びつきながら。
違うんです、甚五郎の頭皮は横と後ろは頑張ってるんです。
だから洗ってもいいんです。




