ハゲ、最強の人間と遭遇する
前回までのあらすじ!
ルーの叫びに、ハゲ目にも涙だ!
だが、廃宿まで半分ほど来たところで、甚五郎は唐突に立ち止まった。
自然と全身の筋肉が肥大化し、意識すらせぬうちに臨戦態勢となった。同時に、全身に鳥肌が立ち、汗が噴出する。
「じんごろー?」
「うぬ……」
何か来る――。
あの金狼やヘドロさえも凌駕する恐ろしいほどの威圧で、進行方向から近づいてきている。これ以上進むことを躊躇わされてしまう。
およそ人間の発する気配ではない。
隠れてやり過ごすか……。
今はルーがいる。彼女を危険な目に遭わせるわけにはいかない。いくら魔人の血を引いているとはいえ、その力とて成人男性よりはわずかに強い程度だ。
まだ見えていない。
甚五郎は針葉樹を張り倒してきた道から突然進行方向を変えて、南側の針葉樹林へと早足で向かった。
樹木の一本ずつはそれほど太くはないが、距離さえ取って息をひそめれば見つかることはないだろう。
そう思っていた。
だが――。
気配は進行方向を正確に変化させる。甚五郎たちが逃れた方角へと、まっすぐに。移動速度はそれほどではない。むしろ遅い。自分たちと変わらないくらいだ。
舌打ちをする。
だめだな。すでに捕捉されている。
ルーをこの林に隠し、己が囮となって敵を引きつけるしかない。オーガの潜む危険な林ではあるが、真正面から来る気配よりは遙かにマシだ。あれは並大抵の生物の発する威圧ではない。
この針葉樹林は、まるで猛獣の檻だ。
このようなとき、ルーを任せられるシャーリーやアイリアが近くにいないことが悔やまれてならない。
「ルー」
泣き止んだルーに視線を向ける。ルーはごしごしと何度も目元をボロ切れのような服で拭っていた。
「……?」
目を擦り、肩に座ったままのルーが不安げに視線を下げた。そのルーを両手でひょいと持ち上げて、ゆっくりと地面に下ろす。
「……じ、じんごろー?」
それは弱々しい声だった。
察したか、幼い瞳と口が同時に歪む。目尻に涙が浮いた。
また置いていくのか、と、責め立てるように。
すがりつくようなあまりに悲しい表情に、ぐじゅりと心臓が痛んだ。
だが、しかし――。
ざわざわと、針葉樹がざわめく。
「危険なやつが近づいてきている」
「……じんごろーも、やっぱりルーを――」
「決して、私から離れるんじゃあないぞ?」
――口から吐き出された言葉は、正反対のものだった。
「お、おお!」
ハゲ上がった頭をぺたぺたと手で触り、甚五郎は大きなため息をつく。
言ってしまった以上は、もはやどうしようもない。ルーに危険が及ばぬようにしながら、おそらくは超大型と思しき魔獣を仕留めればそれで済む話だ。
可能かどうかはさておきではあるが。
やがてそいつは、静かに姿を現した。甚五郎の予想を大きく裏切ったその姿は、濃紺色の外衣をまとった、ひとりの剣士だった。
人間。魔獣ではなく、魔人ですらない、生粋の人間だ。しかも若い。甚五郎よりも、遙かに。
甚五郎が大きく、これ以上ないほどに大きく、血走った目を見開く。
驚愕に心が震えた。心臓が激しく波打つ。沸騰したかのような熱い血流が血管を押し広げ、全身に青筋が浮いた。
「な――ッ!? あ……あ……っ」
声が出ない。
その男は――。
「あなたがシャナウェルの騎士団に甚大なる損害を与えた、甚五郎という男か?」
穏やかで瑞々しく、それでいて強さを感じる声。いや、そのようなことよりも。
――繊細に、そして爽やかに、わずかな風にすら柔らかにそよぐ、絹ようになめらかで長い金色の髪をしていた。
甚五郎の瞳に諦観の念が浮かび上がり、片膝を土の上に落とす。
「……金髪……ロン毛……ッ」
叫んで求め、手を伸ばして追いかけ、それでも届かなかった完全なる頭髪が、そこにはあった。
生きている。一本一本が。喜びを謳うように。生き生きと。
「今一度問わせてもらう。あなたが王都シャナウェルに危害を及ぼし、シャルロット王女を誘拐した、羽毛田甚五郎なるものか?」
青年の問いかけに正気を取り戻す。だが、甚五郎の筋肉たちは萎縮し、自ら臨戦態勢を解いてしまっていた。
まるで王の前の騎士であるかのように甚五郎は頭を垂れたまま、かろうじて声を絞り出す。
「……そうだ。私が甚五郎だ」
「おれの名はデレク。シャナウェル王の命により、あなたを裁きにきた」
あまりの衝撃に、言葉が脳の中でうまく処理できない。
始末……? 始末とは……なんだ……?
反応がないと見るや、デレクと名乗った青年は腰の剣を抜いた。青白き光をまとった魔法剣だ。
「悪いが、死んでもらう」
少しの躊躇いの後、甚五郎の頸へと振り下ろされる。
だが――。
「――ッ!?」
デレクはとっさに光の剣を止めた。青白き刀身によって切り飛ばされたクセのある金色の髪が、数本、地面に落ちる。
ルーは両腕をめいっぱい広げて胸を張り、キッと目を見開いてデレクを睨み上げていた。額に刀身が触れかけていても、脅えた様子はない。
剣を止めたデレクの眉が中央へと寄せられた。
「子供……だと? 魔人の血が混ざって――」
痩せぎすの胸にめいっぱい空気を吸って、小さな身体を折り曲げるようにして、ルーが大声で叫ぶ。
「じんごろーにはっ、まってるひとがいるんだぞーっ!!」
幼い金切り声が針葉樹林に響いた。
「ルーにはもういないけどっ、じんごろーにはいるんだーっ!! おまえみたいなやつ、ルーがやっつけてやるーっ!!」
「~~ッ!!」
直後、凄まじい勢いで甚五郎の肉体が覚醒する。
「ルー!」
「わっ、ひゃっ」
ルーの身体を両腕でかっ攫い、自らの背後へと乱暴に押し出す。ルーが背中から転がって、泥だらけの顔を上げた。
その視線の先で、甚五郎がゆっくりと立ち上がる。
「そうだった。そうだ。そうだとも」
腑抜けていた。だが、たとえ目の前に立つものが理想の頭髪であろうとも、己の背中には今、ルーがいる。
己が死ねば、魔人の血を引いたルーはどうなる? シャナウェルの騎士は魔人の敵だ。ただでは済むまい。
「私はこのようなところでくたばるわけにはいかん。待たせている女がいる。救わねばならぬ長き友もいる」
そうして甚五郎は、低く、野太く。自信に満ちた力強い声で告げる。
かはぁ~と、甚五郎の口から大量の湯気が吐き出された。
「……もういいぞ、ルー。……すまなかったな。十分だ。下がっていろ」
筋肉が肥大化し、辺りを白く染めて体熱の放出する。
それに、私が死んだらシャーリーやアイリアはどうなる? ルーのように、ずっと悲しませるつもりか? バカめ!
子供に教えられてどうする――ッ!
ゆらり、ゆらりと、全身を揺らす。お乳首様の間を、ネクタイが静かに揺れた。
正眼にかまえられた光の剣の切っ先は、それでも甚五郎を捉えたままだ。
「デレクとか言ったな。貴様はシャナウェルの王国騎士か?」
「違う。おれはどこにも属していない。だが、縁あってシャナウェルのために動かねばならん身だ。それに、あなたを斬ることは、個人的な用件でもある」
あのときに吹っ飛ばした王国騎士の、兄弟か何かか。
「そうか。ならばもはや問うまい」
デレクの表情が険しく変化する。
「先ほどまでとは、まるで別人だな。今のあなたならば、王国騎士の数百名を蹴散らして逃走を図ったということにもうなずける。すごいな、その肉体は」
わかるのか。やはり手強い。
「フ、失礼した。先ほどは少々、衝撃的なことがあってな」
甚五郎の視線が一瞬だけデレクの頭髪へと向けられ、すぐに下げられた。あいかわらず絹糸のように、さらさらと揺れている。
どのような感覚なのだろうか。もはや本物の髪で風を受けた記憶など、過去が遠すぎて思い出せない。今ではもう、風は頭皮を滑っていくのみだ。
ねたましい。実に。頭にくる。なぜ貴様らはそやつの頭皮に生えて、私の頭皮には生えようとはしないのだ。
……いっそ引き抜いてやろうか……。
甚五郎の不気味な笑みに呼応するかのように、デレクの唇がわずかな笑みを浮かべる。
「何に気を取られたかは知らないけど、おれも一方的に人を斬るのは好きじゃない。寝覚めが悪くなる。そこの子供には、礼を言わなきゃならないようだ」
「互いにな」
「ああ、そうだ。お互いに」
それはとても爽やかな、邪気のない笑みだった。
このような出逢いでさえなければ、案外、話せるやつなのかもしれないと思った。そうしたら、きっと毛髪の量を保つコツなども教えてもらえただろうに。
だが、毛根の死滅した今ではもはや手遅れ。戦う運命だったのだ。
互いの放つ巨大な氣がぶつかり合い、上昇気流が巻き起こった。揺れる針葉樹の枝葉から、潜んで様子を窺っていた小鳥たちが一斉に飛び立っていく。
「――征くぞ!」
「――参る!」
両雄、大地を蹴る――。
……まじめにやれや。




