ハゲ、愛なる紳士㊥
前回までのあらすじ!
ハゲの頭皮と愛が爆発だ!
ブラウンの、とても大きな瞳だった。
あるいは少女の憔悴が、そう見せているのかもしれないけれど。
「やあ。隣に座っても良いかね?」
「うん」
甚五郎は少女の隣に腰を下ろした。
海から吹き付ける潮風に、柔らかなウェーブを描く金色の髪が揺れるたび、前髪に覆われた小さな角がちらりちらりと顔を覗かせている。
うらやましいと、心の底から思う。私にも、これくらいの年頃には、まだ風になびく髪があったのだと。ましてや髪以外の生えるものまで存在するなどと、生物としてはこれ以上ないほどの完成形だ。
それに比べて、私ときたら……。
静かに自嘲し、甚五郎はビジネスバッグを開けた。中から取りだしたカレー味のリンゴを、無言で少女へと差し出す。
「あ、カレェンゴだ。すごい」
「ほう、こいつはカレェンゴというのか」
カレー味のリンゴだから、略してカレェンゴなのか? なんという安直な……。シャーリーやアイリアは何も教えてはくれなかったが……。
どうでもいいことを考えて首をひねっていると、少女が得意げな表情で教えてくれた。
「ううん。ゲオルパレスではそうよんでいるだけだよ」
「地方によって呼び方が違うのか」
「ん~……。シャナウェルやウィルテラでしかとれないから……?」
なるほど、それならばそういうこともあるかもしれないと、理解する。
頭皮を撫でる風のように穏やかな微笑みを浮かべながら、甚五郎が呟いた。
「半分、食べるか?」
「……いいの?」
憔悴した弱々しい笑みが、甚五郎の微笑みを迎え入れた瞬間、少女の小さな腹が、ぐぅ、と鳴った。
「ふはは」
「えへへ……」
甚五郎はカレェンゴを両手でつかみ、力任せに半分に割った。パキっと音がして、カレールゥのような芳しき匂いが一瞬広がった。
すぐに潮風に流されたけれど。
「うむ。ルゥ――じゃなくて、蜜もたっぷりだ。よく熟れている。さあ、食べなさい」
割れたカレェンゴの片方を差し出して、甚五郎は残り半分の果実を囓る。シャクっとした噛み応えの後、口内いっぱいにカレー味とスパイスの刺激が広がる。
食感ばかりは完全にリンゴなのでいかんともしがたいが、やはりこの味はたまらない。それに、スパイシーな刺激があるためか、身体が温まる。腐りかけまで放置しておけば、あるいはこの食感も解消されるのかもしれない。
少女が少し躊躇って、甚五郎をもう一度見上げた。
「ほんとに、いいの?」
「……? かまわんぞ」
無垢なる顔が曇る。
「おかね、ない」
「いらんよ。高いものでもない」
「そうなの? ゲオルパレスでは、すっごくたかいよ。たべたことない」
気づく。シャナウェルとウィルテラでしか収穫できないからであると。魔人は農業をしないのか、それとも――。
潮風はますます冷え込んでいる。
――気候の違いか。
確かゲオルパレス付近には水精や氷精が多いと、シャーリーが言っていたか。
「おとなになったら、ルーがカラダではらう?」
「ルー?」
「ルー」
少女が自らを指さす。
「おお、名前であったか。これはまた実にスパイシー且つ、おいしそうな響きを持った良き名前だ。私は甚五郎だ。よろしくな、ルー」
この無骨な男は、女性の褒め言葉など知らないのだ。だから思ったことを思ったままに口に出してしまう。
だが。
「あい」
ルーは嬉しそうにうなずいて、はにかむ。そしてカレェンゴを恐る恐るひと舐めした。
「……! じんごろー、これぴりぴりする!」
「ふははっ、身体が温まるぞ」
ルーが口を開けて、カレンゴを小さく囓り取った。
しゃり、しゃり、咀嚼する。
やがて、頬を赤く染めて目を大きく見開いた。
「ふおおおおおっ」
ルーの瞳に涙が浮いた。
「どうだ? 腹が減っていたのであれば、このうまさは感動ものであろう」
「べっ!」
吐き捨てる。容赦なく。
「なぬぅっ!?」
「からい! からいぃぃ!」
舌を出して座ったまま右往左往するが、あいにくと舌を洗うものは何もない。
甚五郎はあわててビジネスバッグからペットボトルを取り出して、ルーの口へと突っ込んだ。ルーが夢中で水を貪る。
「はぁ、はぁ、はぁ……じんごろー、ルーをころすきか?」
ルーは砂浜に四つん這いとなって、荒い息をついている。
「う、うぬぅ。すまん。子供には少々早かったか」
ビジネスバッグから紙に包んだパンを差し出す。
「塗るものも挟むものもないが、パンならばあるぞ」
「もらう~……」
今度はおいしそうに食べ始めた。甚五郎はほっと安堵の息をついて、ルーの残したカレェンゴを口に運ぶ。
「じんごろー」
「ん?」
「それは、かんせつチュウ?」
「そうだな」
うぬ……。ところどころおかしいぞ、こやつ……
そんなことを考えながらも食事を終えると、潮風がさらに強くなった。どうも夜が更けるほどに、強く吹き荒んできている気がする。
ジャケットがはだけてネクタイが肩に乗り、お乳首様がちらりする。
「ルーはどこで眠っているのだ?」
「え? ここだよ? とうさんが、ここでまってろっていったから」
ルーが無邪気な笑みで返してきた。
「むう……。ならば私も付き合おう」
「さむくないか、じんごろー?」
「ふははっ、それは私の台詞だ」
ルーが無垢な笑顔で笑って、その場でポテっと横になった。
「ルーはだいじょぶ。がまんはなれてるからー」
だろうな。このような劣悪な環境で、両手の指では数え切れぬほどの日数を座って過ごしていたのだから。
痩せ細った胴体を少しでも風から守るように、ルーが両足を抱えて丸くなる。
いや、違うな。それ以前の問題か。
アイリアは言った。魔人と人間の間に産まれた子には、種族名が存在しないと。魔人の国ゲオルパレスからも、人間の国シャナウェルからも受け入れられない存在。
甚五郎は後頭部で手を組んで、ルーを潮風から守る位置で寝そべった。風が轟々と吹き付け、残り少ない横髪を激しく揺らす。
「じんごろー?」
「なんだ? 寒いのか?」
「……じんごろーは、さむくないのか?」
「うむ。この程度の寒さであれば――すぅ……」
全身に力を入れ、大量の酸素を取り込み、血液の循環を早くする。
「ハァァァァァァ――…………ッ……粉ッ!!」
甚五郎の筋肉が美しく肥大したしばらく後、その肉体から白の湯気が立ち上った。
「おおおぉぉぉっ、すごいな、じんごろー。ルーまであったかいわぁ」
「ふはははっ、ならば私にくっついて眠るがいい」
「おー」
ルーが甚五郎に身体を寄せて、ぺとりと脇腹にくっつく。もぞもぞ動き、ジャケットの中に入り込んで顔だけを出した。
「こうしててもいい、じんごろー?」
「うむ。好きにするといい」
正直なところ、これはありがたい。なぜなら体熱を上げる臨戦態勢など、およそ1時間も維持できるものではないのだから。消耗が激しすぎる。
「私も温かいぞ、ルー」
「うむー。これはもうあさがえりコースだなー、じんごろー」
やはりところどころおかしい。まあいいか。
この男は、このハゲは、細かいことなど気にしないのだ。
甚五郎がルーの背中に手をのせて、声色を落とし、静かに尋ねる。
「ルー、私たちとともに来るか?」
「……」
轟々と鳴る風。激しく打ちつける波音。けれども澄み切った空は高く冷たく、凍った息が視界を曇らせた。
しばらく――。
いや、長い時間。ルーは瞳を開けたまま黙っていた。
やがて。
「……とうさんと、かあさんは、ルーのためにウィルテラにいくっていってた。ウィルテラなら、ルーもおそとであそべるからって」
言葉もなく、甚五郎は小さくうなずく。
「……だからルーは、もうすこしここでまってみる」
「そうか。ならば私も付き合おう」
甚五郎がルーの柔らかな金色の髪を撫で、瞳を閉じる。
ようやくわかった。ああ、この子はちゃんと気づいているのだと。
彼女の両親は、おそらくウィルテラまでの路銀が尽きて、食料を得るために船に乗ったのだろう。
だが、帰ってはこなかった――。
ルーを捨てるためか、この荒れた海に呑まれたためかはわからない。
そしてルーはすでに、そのことを無意識下で悟っている。気がついていながら、信じたままの死を選ぶべきか、裏切っての生を選ぶべきかを迷っているのだ。
だがそれは――。
生を選ぶことは、決して裏切りではない。断じてそのようなことはないのだ。
海に呑まれたというならもちろんのことだが、仮に両親がルーを捨てたのだとしても、現時点でルーは生きている。ルーを生かして置き去りにしたということは、生きていて欲しいということに等しい。
ルー、キミは間違っている……。
だが、このような言葉を率直に伝えるにはルーは幼すぎたし、この男もまた、このハゲもまた優しすぎた。
腕の中で、ルーの寝息が聞こえ始めた。
甚五郎は小さな身体を壊さぬよう、両腕でそっと包み込んで、自らもまた眠りについた。
あさがえりコースだなー。




