ハゲ、愛なる紳士㊤
前回までのあらすじ!
誰かハゲ魔人にも愛の手を差し伸べてあげて!
あかね色の空の下、その少女はやつれた瞳で両足を抱えて海岸に座していた。
港湾都市ウィルテラから徒歩で三日。馬車ならば一日ほどの距離であろうか。
人気のない静かな場所だった。管理するもののいない長く放置された宿には、今でも旅人は立ち寄るけれど、人と魔人の間に線引きがなされてからは、それもまばらだ。
両種族の間には、表だった交流はないのだから。
クマの消えぬ瞳で海を眺める少女の背後で、旅人は立ち止まる。
少女を自らの影ですっぽりと呑み込んだ大男は、ハゲ上がった頭皮に手をあててしばらく黙した後、ぽつりと呟いた。
「美しい景色だな。良い風も吹いている」
少女は振り向かない。
ゆえに、男の側にふたりの女が控えていることにも気がつかない。
ひとりは少女よりも若干年上だろうか。あかね色の陽光を受けて、オレンジに輝く銀髪の魔法騎士。そしてもうひとりは旅の娼婦の姿をしている。
少女は――。
少女の額からは、角が生えていた。だが、それ以外は人間なのだ。柔らかに揺れる金色の髪もあるし、痩せこけた腕に鱗などは生えていない。
アイリアが甚五郎の腕を少し引いて、その耳元で静かに囁いた。
亜人とは、人と魔物の間に産まれた子のことを呼ぶ。けれども、人と魔人の間に産まれた子に呼び名はない。
禁忌の子。王都シャナウェルではもちろんのこと、魔人の国ゲオルパレスにいてさえ居場所などない。
けれども、ウィルテラならばあるいは。前例はないけれど。
甚五郎はアイリアの説明に、静かにうなずいた。
シャーリーが遠慮がちに尋ねる。
「あなたのご両親はどこにおられるのですか?」
妙なのだ。すでに日は暮れかけているというのに、街や集落から遙かに離れたこのような海岸に、十にも満たぬ子供が、ひとり膝を抱えているというのは。
まとう衣服もぼろぼろだ。どこかに引っかけたのか穴が空いているし、洗濯すらできていないのか汚れだらけで、すでに臭っている。
ようやく自らが話しかけられていることに気がついたのか、少女は振り返らず、しかし骨張った細い腕を持ち上げて、海の遙か彼方を指さした。
甚五郎とシャーリー、そしてアイリアが互いに目を見合わせて、困ったような表情をした。
アイリアが少女の隣にしゃがみ込み、首を傾けながら視線を合わせて尋ねる。
「いつ頃戻ってくるって言ったの?」
乾き、ひび割れた唇がわずかに開く。
「……わかんない。おさかな、とってくるって、とうさんが……」
「お母さんは?」
「……とうさんと、いっしょ……」
アイリアが額に縦皺を刻んだ。
「どれくらい待ってるの?」
少女が両手の指を折って……しかしすべての指を折りたたんだ後に首を傾げた。
「……ずっと、ずっと」
シャーリーが目を見開いた。振り返った少女の顔が、あまりに痩けていたから。目はぎょろりと大きく、頬はへこみ、表情は曇っていたから。
けれどシャーリーはすぐに表情を柔和に戻すと、自らの木筒を取り出して少女の手を取った。
「水、飲みますか?」
「……いいの?」
「いいですよー。ぐいぐいどうぞ」
木筒の蓋を開けて手渡す。少女は少し躊躇った後、瞳をぎゅっと閉じて木筒を渇いた唇にあて、ゆっくりと喉を鳴らしながら傾けた。
すべてを飲み終えた後、唇の端から垂れた分を手の甲ですくい、まるで猫のように舌を這わせる。
「ありがとう」
「いいえ。お腹は空いていませんか?」
「おなか、すいた」
シャーリーが甚五郎を見上げる。
「少々早いが、今日はやたらと疲れたなー。うむ。おお、偶然にもあそこに見えるは宿屋さんではないかー。廃墟のようだが、今夜はあそこで休ませてもらおうか」
あまりの棒読みに、アイリアが顔を背けて噴き出した。
「あなたもご一緒にどうですか?」
シャーリーが少女の前にしゃがんで微笑む。
けれど少女は、大あわてで首を左右に振った。
「……ここでまってろって……とうさんがいったから……」
「……それはわかるのですが……。……ですが、もう何日もそうやって――」
シャーリーの口をアイリアが両手でそっと塞ぐ。振り向いたシャーリーに、アイリアがゆっくりと首を左右に振った。
甚五郎が努めて明るく呟く。
「よし、では我々は宿に向かうか」
「そうね」
「え、でも、ジンサマ……あ、ちょっと……」
大きな手でシャーリーの背中を押して、甚五郎が歩き出す。しばらく歩き、廃墟の宿の近くにまで来てから、甚五郎は大きなため息をついた。
「シャーリー。幼子には正論を言っても始まらん」
「でも……」
振り返ると、少女は無邪気にこちらに手を振っていた。
シャーリーがおずおずと手を振り返す。
宿のなかは思ったほど荒れてはいなかった。
管理者がいなくとも、人と魔人とを繋ぐ旅の商人らが利用するのだろう。雨風が凌げるだけでありがたい。
ゲオルパレスに近づくほどに、気温が下がっている。
たった数日、南へと向けて徒歩で移動しただけでこの有様だ。この世界が己の知る地球ではないのだと、否応なしに思い知らされる。
シャーリーの話では、その地に棲まう精霊が、その土地の気候に強く影響しているとのことらしいが、こうも気候がころころ変わるようでは信憑性は増すばかりだ。
甚五郎は海側の部屋に荷物を下ろすと、どっかりと腰を下ろした。
さすがに何もない。殺風景な部屋だ。
隣にシャーリーが、向かいにアイリアが腰を下ろす。
「ジンさん、どうするの?」
「うむ~……」
瞳を閉じて腕を組む。
むろん、あの少女のことだ。
魔人の血を継いでいるとはいえ、放っておけば衰弱死は免れない。逆に言えば、肉体の頑丈な魔人の血が混ざっていなければ、もはや死んでいただろう。
だが、だからと言って危険な旅に連れていくのは難しいし、ウィルテラに辿り着いたとて親がいないのであれば庇護してもらえるとは限らない。
そもそも、あの場から動かすことができるだろうか。
「……時間が、必要だな」
急ぐ旅ではある。シャナウェルがいつウィルテラに侵攻を開始するかわからないし、髪の本数とて日ごとに減っている。
焚き火をたき、野宿をした昨夜などは、枕代わりにしたビジネスバッグに七本もの長き友が力なく横たわっていた。埋葬もろくにできぬまま風にさらわれ、空の彼方へと消えてしまった友に涙し、それでも先へと進むことを決意したくらいだ。
すべてはエリクサーのため。
だが――。
シャーリーの表情。ひどく曇っていて、隣に座りながらも窓へと向けられて。
女がこのような表情をしている。この男にとって、このハゲにとって、理由などそれだけで十分なのだ。
長き友らよ。今少し、持ちこたえてくれ。
甚五郎が静かにため息をついて、晴れやかな顔を上げた。
「シャーリー、アイリア。私はしばらくここに留まろうと思う。どれくらいになるかはわからんが」
アイリアが口もとに笑みを浮かべてうなずく。
「そうなると思ってたわ」
「……ジンサマ!」
シャーリーが両手を広げて甚五郎へと飛び込み、抱きついてきた。
「おっと。危ないぞ、シャーリー」
「……大好きですっ」
シャーリーの身体を受け止めた甚五郎は、シャーリーがアイリアに向けて優越感に浸るかのような挑発的な笑みを浮かべたことに気づかない。むろん、アイリアが瞳を血走らせて額に縦皺を刻み、シャーリーを睨み返したことにも。
「はっはっは、よしよし」
アイリアが表情を戻して甚五郎に視線をやった。
「どうする? あの子を連れてウィルテラに引き返す? ウィルテラ評議会も、手配魔獣だったシャメを倒したジンさんの話なら聞いてくれると思うし」
だが、甚五郎は首を左右に振った。
「いや、それでは意味がない。あの子はウィルテラを抜け出し、ここへ戻ってきてしまうだろう」
胸のなかに顔を埋め、密かに甚五郎の筋肉の匂いを愉しんでいたシャーリーが、視線を上げて戸惑うように呟く。
「では、どうするのですか?」
「シャーリー、そしてアイリアもだ。ひとつ約束してくれ」
シャーリーの肩をつかんで引き離し、甚五郎が視線の高さを彼女に合わせた。
「あの少女に関しては、私に一任して欲しい。決して手を差し伸べないでくれ。毛布も食べ物も不要だ」
シャーリーが眉をひそめる。
「え……、ですがそれじゃあ……」
「大丈夫だ。食べ物は死なん程度に私が渡す。いいか? 決して手を差し伸べるんじゃあないぞ?」
それだけを告げると、甚五郎はビジネスバッグだけを手にゆっくりと立ち上がった。
「では、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい。ジンさん。あら、ネクタイが曲がってるわよ」
アイリアが素早く立ち上がり、甚五郎のネクタイに手を伸ばして歪みを直した。
「おっと、すまない。頭部は少々散らかっていようとも、紳士たるもの身だしなみは整えねばな」
甚五郎のMAX限界めいっぱいな自虐をするりと受け流し、アイリアは視線を斜め下へと向けた。
「……あはっ……これじゃあたしたち、まるで夫婦みたい……ね……?」
「はっはっはっ! そうだな!」
出遅れて座ったままだったシャーリーへと優越感に浸る視線を向け、艶やかな唇で嘲笑を形作る。シャーリーの奥歯がギリィと軋んだ。
「ありがとう、アイリア。では、今度こそ行ってくるぞ」
アイリアの肩を大きな右手で軽く叩き、すれ違い様にシャーリーの銀髪を一撫でして、甚五郎は部屋を出た。軋む廊下を歩き、古びたドアを開けて海岸へと歩を進める。
夜が更けるに連れて、風が強くなった。
前の開いたスーツジャケットの下には、ネクタイ以外は何も着用していない。
強い風が巻き上げた海水が雨のように降り注ぐなか、甚五郎は膝を抱えて座る少女の隣に腰を下ろす。
少女は不思議そうに甚五郎を見上げただけだった。
良かった。かろうじてまだ紳士やってる。




