ハゲ、出番なき夜
前回までのあらすじ!
真の変態メル・ヤルハナの登場に、小娘がヤンデレに進化したぞ!
掌ですくい取った赤い湯が褐色肌のしなやかな腕を伝い、微かな水音を響かせながら、水面で正円の波紋を幾重にも描く。
「はぁ~……」
吐息。心からの。
ウィルテラ温泉――。
海岸沿いのほとんどの宿には、海を望む露天の温泉が用意されている。
赤茶けた奇妙な色をしているのは、酸化した鉄分を多く含むからだという。最初は臭いが気になったが、一度慣れてしまえばむしろ気持ちがいい。
身体の芯が熱を帯びて、疲れが抜けてゆく。
一面に広がる星空の下、温泉成分を身体に擦りつけるように、アイリアは赤湯のなかで掌を動かした。
「何が違うんですか?」
「ん?」
温泉を囲むように設置された石を背に、長い銀髪を水面に広げて、シャーリーが拗ねたように唇を尖らせた。その視線は赤湯に揺れるアイリアの胸元に向けられている。
ああ、と気づいて、アイリアが眉根を寄せた。
「年齢じゃない? キティはまだまだ若いから、心配しなくてもちゃんと育つわよ」
「めんどくさそうに適当にこたえないでくださいよ」
「……うっわ、鋭い」
海からの波音が風に乗って流れ、耳に心地いい。
「で?」
「いや、知らないわよ。食べ物かなんかじゃない?」
「牛乳とかってよく聞きますよね!?」
「あたし、あんまり好きじゃないわ~。チーズは食べるけど。あ、お酒は好きよ? チーズと合うから」
「……う、飲んだことないです……」
アイリアが一瞬真顔になって、次の瞬間、深いため息をついた。
やはりロックシティでの一件は、まるっと記憶にないらしい。散々荒らすだけ荒らして、真っ先に眠ったくせに。
そんな思いを知ってか知らずか、自前のまな板を両手で触って、シャーリーは悲しげに瞳を伏せた。
「ジンサマもやっぱり大きいほうが好きなのでしょうか……」
「さあ? どっちでもいいんじゃない?」
水面を波打たせて、シャーリーが勢いよく振り返った。
「適当にこたえないでくださいってばっ。わたくし、これでも真剣に訊いているんですっ」
アイリアが面倒くさそうに額に縦皺を刻んだ。大きなため息をついて、赤湯の温泉をぐるりと囲うように設置された石にしなだれかかる。
石で褐色肌の胸が柔らかに拉げた。
「いや~、今のは適当じゃないんだけど」
「どういう意味ですかっ。わたくし、お城の塔に幽閉されていたとき、使用人の方からほとんどの殿方は大きな胸が好きだと聞きましたっ」
これはまた、ずいぶんと極端な使用人を使っていたようだ。
「ああ、まあ。それはそうかもしれないわね」
「おぐぁ~ぅ……」
事も無げにこたえたアイリアの言葉に、シャーリーが白目を剥きながら口から変な声を漏らした。
「いや~、でもさ、考えてみなよ? ジンさんってハゲだし、年齢ももうオッサンの部類でしょ? あと心は弱いし、鋭いときもあるけど概ね頭もおかしいと思うし」
顎に指をあて、少し考える素振りを見せた後、シャーリーが問い返す。
「二重の意味で?」
「二重の意味で」
女ふたり。露天風呂の石にもたれながら、遠い瞳で海と星空の境界線を見つめた。黒くうねる夜の海は、月や星の明るさをも吸い込んでしまう。
海から虚しい風が吹き荒ぶ。
「ねえ、キティ。あの人、女性にモテると思う?」
シャーリーが拳を握りしめ、興奮した口調で断言した。
「モテますね! すごくモテると思います! ……だって、深く関われば関わるほど吸い寄せられるんです。長く一緒にいればいるほど、どんどん好きになっていくのがわかります」
「でも、裏を返せば、初対面では印象最悪ってことでしょ? ハゲだし、バッキバキの気持ち悪い筋肉してるし」
シャーリーが赤湯に口まで浸して、ぶくぶくと湯を泡立てながら早口に呟いた。
「わらくひは最初から好きれぷが? ハペもぴん肉も!」
アイリアが苦笑いを浮かべて、顔の前でぱたぱたと手を振った。
「や、あんたとメル・ヤルハナはかなり特殊な性癖してるから。自分を基準に考えないことをおすすめするわ」
「うぁぁ、アイリアさんひどいぃ~……」
メルと同列に扱われたことが相当なショックだったらしく、シャーリーの顔が目のあたりまで赤湯に沈んでゆく。
「最後まで聞きなさいって」
アイリアがシャーリーの首根っこをつかんで、水面からムリヤリ浮上させた。
「まあ、それはいいのよ。特殊なあんたたちと違って、普通の性癖のあたしでさえ、ジンさんには惹かれるの。ハゲでオッサンでスライムメンタルなのに」
ヘドロ魔人から助けられたからではない。感謝はしても、そのようなことで心を奪われたりはしない。冒険者時代であれば、助け、助けられることなどあたりまえの毎日を過ごしていたのだから。
問題は、その後だ。
羽毛田甚五郎は最高級の娼婦の礼を丁重に断り、挙げ句、職を否定することなく、その娼婦に人生について考えさせる機会を与えてくれた。大きく、包み込むような暖かさで。
そのような男がこれまでいただろうか。何百という客を取ってきたのに、初めての経験だった。
奪われたのだ、心の一部を。逞しい腕で、低い声で、頭髪のない頭で、強引に引き千切られて。
この気持ちは、もはや自分ではどうしようもない。
「何が言いたいんですか?」
「わかんないの? ハゲ、オッサン、スライムメンタルと、あんたの悩みのまな板って同じでしょ? キティはそれでもジンさんが好きなのよね?」
シャーリーがぽかんと口を開けた。
「ああ! ……あ、でも劣等感ならハゲだけでもお釣りが来ると思いますよ。うふふ!」
シャーリーがかわいらしく首を傾げると、対照的にアイリアは苦い表情をした。
まるで鬼のような口の悪さだと。悪気がないことが、いっそうひどい。
「ま、まあいいわ。つまり、あたしたちがジンさんの容姿を気にせず彼を選んだように、ジンさんもまた、伴侶を選ぶのに容姿はひとつの要因でしかないってことよ」
「おお……!」
シャーリーの表情に希望の花が咲いた。
「もっと言えば、容姿は第一印象にしか影響がないの。たとえばジンさんはたまぁ~にあたしの腰をエロい目つきで盗み見てるけど、それは性の対象だからなのよ」
シャーリーの奥歯がガギリと鳴った。眉間に縦皺を寄せて、目つきを三白眼に変化させ、斜め下からアイリアを睨み上げる。
とてもではないが高貴な出とは思えぬ表情だ。
地雷を踏んでしまった。
若干焦り、早口となってアイリアは続けた。
「わかりづらいかもしれないけど、それって妻にしたい女を見る目ではなくて、娼婦を見る目に近いのよ。あたしにとっては、それじゃあ意味がないわけ。あたしはジンさんのお気に入り娼婦じゃなくて、彼の家族になりたいんだから」
シャーリーの三白眼がすぅっと元に戻る。
その現金さに、アイリアは安堵の息をついた。
「わかる?」
「はあ。つまり、わたくしやアイリアさんがハゲで変なオジサマであるジンサマを好きなように、ジンサマも、ま、ま、……うぅ……まな……板……を、好きになる可能性もあるということでしょうか」
「半分正解。それはこれからのあんた次第ってこと。ジンさんが理想とするいい女になっていけば、自然とあんたのまな板も好きになってくるだろうから。幸いあたしたちは、しばらくはあの人の側にいられるんだから、変わっていくところを見せることができる」
シャーリーがぽかんと口を開けて、アイリアを眺めた。その眼差しには、多少なりとも尊敬の念が混ざっているように見える。
「……うう、でもアイリアさんが相手では勝ち目がありません……。……今の話だけでも、わたくしはまだまだ子供だということがわかりました……。……ジンサマと肩を並べて戦うには、武術だってまだまだ未熟ですし……」
アイリアがシャーリーのか細い肩をぺたぺたと叩く。
「あははっ、頑張りなよ。応援してるからさ」
意外な言葉に、シャーリーが顔を上げた。
「へ? ど、どうして? アイリアさんもジンサマのことが好きなんですよね?」
「うん。好きよ。でも、あたしは別に二番目でもいいもん。あの人に相応しい人間になるには、ちょ~っと色々やりすぎたから。愛してもらえるなら一番でなくてもいい。だから、愛人枠くらいはゆるしてよね」
黒髪から赤湯の滴を垂らして、アイリアは慈愛に満ちた優しい微笑みをシャーリーへと向けた。
だが、間髪容れずにシャーリーは真顔で吐き捨てる。
「え? 嫌ですよ、そんなの」
数秒間の沈黙。
見つめ合い、にっこり笑い合う。
「いや、あたし結構譲ったつもりよ? あと、いいこと言ったし助言もしたんだけど?」
「はい。ありがとうございます。でも嫌なんです」
アイリアから微笑みが消滅する。
「どうしても?」
「はいっ」
元気に力強くうなずくシャーリーを赤湯に置いて、アイリアがざばっと水面から全身を出した。月光を浴びて輝きながら、赤湯が艶やかな褐色肌を伝って水面へと戻ってゆく。
シャーリーに見せつけるように水面から全身を出して両手を腰にあて、アイリアが不敵に笑った。
「それじゃあ仕方ないわね。本気で奪いにいくから」
瞬間、どぶしゃあ、とシャーリーの碧眼から涙があふれ出した。首をぶるんぶるんと左右に振りながら泣き喚く。
「うわあぁぁ、やめてくださいぃぃ! 勝ち目がありません~!」
アイリアは思った。
この王女様、心の底からめんどくせえと。
あと、感情の振れ幅が怖い。
この小娘、他人の心など決して汲まぬ!
※10月末くらいまでは更新速度遅めの状態が続きます。




