ハゲ、その胸の奥
前回までのあらすじ!
王国騎士の包囲網に、わずかふたりで挑むハゲと小娘!
金狼と娼婦の助けを借りて、力尽きながらもどうにか生き延びるのだった!
魔人(笑)? いたっけ?www
「ふしゅ~~……」
口をすぼめて息を吐き出しながら、右足を横に伸ばして左足を曲げる。
立ち上がり、今度は右足を曲げて左足を伸ばす。
「うむ」
下半身に問題はなさそうだ。
うつぶせで砂の大地に右手をつき、両足を伸ばして右腕を曲げる。顎を地面につけたところで筋肉を意識しながら右腕を伸ばす。
数百回それを繰り返し、右手と左手を入れ替え、同じ回数繰り返す。
下半身どころか、全身すこぶる調子が良い。
ベッドの上で一週間も過ごした後とは到底思えないほどに、体内にエネルギーがみなぎっている。
「しゅうぅぅ~~~……」
立ち上がって膝を曲げ、まるで拳法家のように拳を空へと放つ。
ぶん、と風を切る音が響き、甚五郎の周囲の砂がふわりと浮いた。膝を曲げたまま足を深く踏み込むと同時に両腕を振り、上半身を斜めに傾けて背中から仮想敵へと体当たりをする。
八極拳、鉄山靠。
よろけた仮想敵の下半身を両腕ですくい上げ、そのままレスリング技へと持って行く。むろん、これはイメージに過ぎない。
「うむ」
これまではレスリング技のみで乗り切れると思っていたが、多対一になればなるほどに厳しくなるのは自明の理だ。
己のくだらぬこだわりが原因で、長き友やシャーリー、アイリアを失うわけにはいかない。
ここから先、やれることは、なんでもやるべきだ。
武器を持つことは己の感覚を鈍らせ、生殺与奪への躊躇いが生じてしまう。だが、截拳道のような打撃技の強化ならば問題はない。
踏み込み、打ち、よろけさせたところをレスリング技で決める。
踏み込み、蹴り、踏み込み……決める。
周囲の砂がふわりと浮かぶ。
「シッ、ハッ、フ……ッ!」
愚直なまでに何度も反復し、新たな技と既存の技を繋げてゆく。
このシミュレートは意外と楽しい。戦術の幅の広がりを感じる。筋肉が蠢き、喜んでいる気がする。
やがて、大きな全身に汗が滴る頃、甚五郎は再び長い息を吐いて筋肉から力を抜いた。
「ふしゅぅ~~……」
地べたにあぐらをかいて座り、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭う。
「うむ。悪くないな。次はもう少しやれそうだ」
百の騎士に囲まれても。
そうして自らの掌を広げて見つめ、微かに呟いた。
「……戻った……か……?」
あの四角いリングで戦っていた頃に。
今ならば狼の咀嚼力をも上回り、魔人を砕くこともできる。そんな確信が肉体に宿っている。
「ぎゃあああ、ジンサマ! 何をなさっているのですかッ!?」
振り返ると、鎧を外したシャーリーが、娼館の入り口から大あわてでこちらに駆け寄ってきていた。
逆光で少々眩しい。一切の濁りがない銀髪が、陽光を通して輝いて見える。
なぜかシャーリーまでもが、こちらを見ながら眩しげに目を細めて手をかざしているのだけれど。
妙だ。逆光ですらないというのに。
まあいいか。
頭皮を手ぬぐいでキュッキュと磨き、甚五郎は笑顔を見せる。
「おはよう、シャーリー。今日も美しき朝だ」
「何言ってんですか! ジンサマのケガは一週間やそこらで治るようなものではありません! 早くベッドに戻ってください! わたくしたちはお尋ね者だから、医療魔術師様だって呼べなかったんですからねっ!」
「フ、それならば心配はいらん」
甚五郎は自らの手で、肉体に巻かれていた包帯を外した。アイリアが日に何度も取り替えてくれたため、血液の痕跡などはない。
それに。
シャーリーが両手で口を塞いで目を見開く。
「し、信じられない……。人間の回復力じゃないですよ……」
「ふははっ、ひどい言われようだな」
傷が、傷痕になっている。内出血の痕跡はあるけれど、見事にすべて塞がっているのだ。
続いて甚五郎は右腕の包帯を取った。こちらに至っては、もはや痕跡すらない。むしろ以前よりも腕が太くなっているようにさえ見える。
「これこの通り。もはや私の肉体に欠点はない」
シャーリーの視線が一瞬だけ上がり、すぐに目線の高さに下げられた。
「は……はあ……。あ、でもリキドウザン先生に噛まれた……その……アソコは……?」
「む!?」
こればかりは確認を怠っていた。だが、頭部に痛みはないし問題はないだろう。
甚五郎は意を決し、額に巻かれた包帯を解いてゆく。
すべての包帯が固められた砂の大地に落ち、甚五郎はゆっくりと顔を上げる。
瞬間、甚五郎の周囲を歩きながら視線を向けていたシャーリーが、背後に立って両手で再び口を塞いだ。
先ほどとは違う理由で。
「――ンぷく……っ! ……ぷぶふぉ……ばひゅぅ……っ!?」
「ん?」
シャーリーの肩が小刻みに震えている。
「ン! ぅ、うぅん! げふ、げふん! ……いけませんね。砂漠は空気が乾燥していて喉の調子がちょっと」
「うむ。健康第一だからな。気をつけるのだぞ?」
シャーリーが大きな咳払いをした後、数度瞬きをし、自らを落ち着けるように貧相な胸に手をあてて深呼吸をした。
「ふう~……。良かったです、ジンサマ。傷口は塞がっていますよ」
にこやかに呟き、最後に静かな声を風で散らせる。
「……傷口は……ですが……」
甚五郎の後頭部には、きっちりとリキドウザン先生の犬歯の型が残っていた。
おまけに、当然のようにその部分には、長き友はもういない。毛根ごと噛み潰されたのでは、いかに無敵の苗床を持つ髪たちであろうとも、即死だっただろう。
そう。かつて髪の七割を失ったと嘆いていた男は、すでに八割を失っていた。
そして、甚五郎は未だそのことに気づいていなかったのだ。
風が……吹き荒ぶ……。
「おおっと、これはいかん。髪型が少々乱れてしまった。紳士たるもの、いついかなるときも身だしなみには気を配らなくてはな」
そう言って頭髪に伸ばそうとした二本の手を、シャーリーの細く小さな手がそっと優しく包み込み、静かに阻止をした。
「む? シャーリー?」
シャーリーは慈愛に満ちた表情で、ゆっくりと首を左右に振る。そうしてまるで幼子に言い聞かせるように、優しく、暖かく、穏やかな瞳で囁いた。
「大丈夫です、ジンサマ。ジンサマの髪型は、いつも決まっていますよ」
「そ、そうか……」
また、風が吹いた。
固められた地面の砂の表面が、さらさらと砂漠の大地を流れてゆく。
何事かを察し、甚五郎は弱々しき笑みを浮かべた。
「そう……か」
脱力し、肩を落とした男の頭部を、シャーリーが突然薄い胸に抱え込んだ。
「シャ、シャーリー?」
アイリアのように柔らかく埋もれるような感触はない。女の匂いだって、まだほとんど出せていない。
けれども、シャーリーの薄い胸は陽光のように暖かかった。
彼女の早鐘のような心臓の鼓動が、遮るものなき頭皮を通して伝わってくる。
だから、取り乱さずに済んだ。だから、落ち着けた。
甚五郎はゆっくりと口を開く。
「シャーリー、どうしたのだ?」
「大丈夫です、ジンサマ。ジンサマがわたくしたちを守ろうとして散らしてしまった長き友らは、わたくしたちが必ず取り戻します」
シャーリーが甚五郎の横顔に額を押しあてて、さらに囁く。
「決して絶滅などさせません。わたくしも、アイリアさんも、リキドウザン先生だって、みんなジンサマに救われてきたのです。だから最後の一本が抜ける瞬間まで、みんなでめいっぱい抵抗しましょう」
「そう……だな……」
しばらく、そうして。
彼女の鼓動以外の音もなく、吐息以外の風もなく。
ただ、そうして。
「そうだな」
やがて力強く呟くと、甚五郎はシャーリーの背中に手を回し、軽くタップする。
「そうだとも。ありがとう、シャーリー」
そうして真っ赤な顔で身を離したシャーリーに、穏やかな笑顔を向けるのだった。
「大丈夫だ。絶滅などしない。誰の頭皮だと思っている。そのようにヤワではない」
「……はい」
シャーリーが静かにうなずく。
内心では、あなたの頭皮だから心配なのです、と思いながら。
「だが、ほんの少しの間だけ、ひとりにさせてくれないか?」
「え……」
シャーリーの表情に陰りが差す。
「あ、あの……」
「大丈夫だ。黙って旅立ったりはしない。絶望したわけではないからな。だから、アイリアの朝食作りを手伝いながら待っていてくれ」
「……」
シャーリーが戸惑ったように、眉根を寄せている。
甚五郎は座ったまま、シャーリーに頭を下げた。
「頼む、シャーリー。今だけはひとりにしてくれ」
「…………わかりました。なかで待っていますからね」
やがてシャーリーは、手を振りながら娼館のなかへと消えていった。
かつて緑の魔人に燃やされた娼館街は、完全に復活したわけではない。建物の半数は失われたままだし、戻ってきた娼婦の数もずいぶんと減った。
戻ってきた娼婦らのなかでも、まだ客を取っているものはいない。
だから今は、戻ってこなかった娼婦の娼館を、わずかな賃金を払うことで借りている。
甚五郎は強くなってきた陽光から逃げるように、娼館の軒下に身を置き、木造の壁を背にして座った。
娼館街は今日も静かだ。
「フ、今日は砂が、やけに目に染みる……」
誰にともなく呟き、目元を指先で拭う。
大丈夫、大丈夫だと、己に言い聞かせながら。
こ、こ、こ、小娘ェェェェ……!




