ハゲ、その心乱さず
前回までのあらすじ!
オーガが頭部に攻撃を加えたことで、ぶちキレた三本の髪とハゲ!
ハゲの筋肉が不毛な戦いに終止符を打ったぞ!
少女は銀色の長い髪を揺らして、ほんの少しだけ首をかしげた。
「えっと、すみません。仰っておられることが、わたくしにはまったくわかりません。まずそのニッポンという国に心当たりがないのです」
街で買った果物と、塩漬け牛の燻製、そして乾いたぱさぱさのパンの乗った皿を、甚五郎と名乗った男の前へと静かに置いた。
「どうぞ。オジサマ」
「うむ、かたじけない。いただきます。では、アジアやユーラシア、アメリカという呼称に覚えはないか?」
冒険者たちの建てた六角形のテント内であぐらを掻き、羽毛田甚五郎と名乗った男は困惑したように眉根を寄せた。
小型の水場を囲うように椰子の木などがわずかに生えている砂漠のオアシスには、冒険者と王国騎士らの仮設合同キャンプができていた。
みな、件のオーガとワイバーンを犠牲を払うことなく無事に討伐できたということで大盛り上がりだ。両組織の関係はお世辞にも褒められたものではないが、今宵ばかりはと炎を囲んで酒を酌み交わし、わずかばかりの料理に舌鼓を打っている。
正円型の月と篝火に照らされて輝く水面が、テントの入り口からも見えている。
テントのなかもだいぶ冷え込んできたというのに、裸ネクタイの甚五郎は気にする様子さえない。
頭だってほら、あんなにも寒そうなのに。
余計な思考を咳払いで消して、少女は首を左右に振った。
「申し訳ありません、オジサマ。どれもわたくしには聞き覚えがありません」
「……そうか。ならばここは私の知る海外ですらないということか」
低く渋い声。他の誰かを安心させる声。優しい声。
何事かを思案するかのように瞳を閉じた甚五郎へと、少女は熱い視線を向けていた。
先ほどから彼女は正座の太ももの間に両手を入れて、もじもじとしている。
男らしい太い眉に、シャツを失ったジャケットの隙間から覗く鎧のような筋肉。瞳は優しげで包容力がありそう。前頭部と頭頂部の髪はないけれど、よく見ればそれだってかわいらしいと、少女は考える。
彼女は少々偏愛主義だった。
「あ、あの」
「ん?」
「帰れない、ということですよね?」
「どうもそのようだ」
裸ネクタイで両腕を組み、羽毛田甚五郎が大きなため息をついた。
「オジサマはこれからどうなさるおつもりですか?」
「…………うむ…………。…………どうしよう……? 先月仕事も失ったとこなのに、よもやこのような不可思議な事態に陥ろうとは……。……ああ~、家賃が……」
がたいに合わぬ子犬のようなかわいらしい瞳に、少女の胸は一層高鳴る。
「はっ! いかん、いかんぞ羽毛田甚五郎! ネガティブなことを考えていては、また抜け落ちてしまう! この程度のことはどうということもない! ふはははははっ!!」
明らかな空元気に少女の視線に同情が混ざるが、甚五郎は気づかない。
「どうせ帰れぬならば、この世界で職を探すまでのことよ!」
その言葉を受けて、少女は嬉しそうに小さくガッツポーズをした。
この強くステキなオジサマが残ってくれるというのは、非常に嬉しい。
甚五郎が塩漬け肉を一枚取って、口に含んだ。咀嚼し、にんまりと笑う。
「おお、うまいな。これは生ハムか?」
「ミノタウロスの塩漬け肉です。ハニーマスタードを塗ったパンに葉野菜と挟んで食べると、もっともっとおいしいですよ。助けていただいた恩をこの程度のことで返せるとは思っていませんが、よろしければぜひ、お召し上がりくださいませ」
少女が片手にパンをのせ、嬉しそうな顔でせっせと作り出す。
「はい、どうぞ」
「おお。うまそうだ」
少女の手からサンドウィッチを受け取った甚五郎が、大口を開けて豪快に食らいつく。
「これもまたうまい。ふむ、麦のパンか。噛みしめるほどに香りが立つ。すでに乾いてしまっているのが少々残念ではあるが、うむ、確かにこうしたほうがミノなんたらの塩漬け肉もうまい」
少女が嬉しそうに口もとで手を合わせた。
「わっ、嬉しい! 麦のパンは昨日わたくしが焼いたのです! あ、あの、お気に召したなら、今度焼きたてを食べにいらしてくださいっ。もっともっとおいしいですよ」
「はは、そうだな。機会があれば、よろこんで」
少女が再び甚五郎からは見えない位置で、小さなガッツポーズをした。
「ところでお嬢さん」
「はい?」
「よろしければお名前をお聞かせ願えるかね」
「これは失礼いたしました。シャルロッ――シャーリーとお呼びください、オジサマ」
「うむ、シャーリー。もうひとつ頼みがある。オジサマはやめてくれないか。私はこう見えても、まだ四十路前だ」
おじさん以外の何者でもないし、こう見えても何もむしろ老けてるくらいだ。頭のせいで。などと心のなかで思いながらも、シャーリーはにこやかな笑顔でうなずく。
「はい。それでは、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか」
水を飲み、今度はパンに果物をのせて甚五郎が食いちぎる。実に逞しく野性的だ。
「ファミリーネームはだめだ。他者から突然呼ばれたら、私が心に深い傷を負ってしまう恐れがある。できればファーストネームで呼んでほしい」
「ハゲサマ?」
「……うぐッ!? かはッ!」
甚五郎の両腕がするりと落ちて、テントの床に手をつく。
「え? え!? わたくし、間違えましたか!? ハゲタ・ジンゴロウ様ですよね!?」
ものすごいダメージが入った気がした。
甚五郎が左胸の筋肉をつかみながら、呼吸を荒くして汗まみれの笑顔をかろうじて浮かべた。
オーガと戦ったときでさえ見せていなかった苦しげな表情だ。
「そ、そうか、すまない。そちらがファミリーネームだ。つまり私はジンゴロウ・ハゲタだ。……ふはは……あまりフルネームを言わせるんじゃあない……」
「……ぷ……ぶふっ!」
思わず噴出してしまった。
「ん?」
「あ、いえ、はい。――では、えっと……ジ、ジンサマ?」
そう呼んだ瞬間、隠しようもないほどに顔が赤く染まるのを自覚した。
「わっ、わあっ、なんか恥ずかしいですっ。ど、どうしてもこう呼ばなくてはいけませんかっ!?」
「うむ。ぜひそう呼んでくれ……」
しかし甚五郎はと言えば、笑顔ではあるものの小刻みに震えているし、目に涙まで浮かべている。先ほどの言葉の刃に貫かれた胸は、まだ痛むようだ。
訪れた気まずい空気に、シャーリーは視線をそらした。
耳が熱い。心臓は高鳴ったままだ。
男性に対して自らの肉体がこのような反応を示すなど、これまで経験したことがない。全身が脈打っているというのに胸が締め付けられ、呼吸が苦しい。もうずっと、身体のあちこちが汗ばんでいる。
会話、何か会話をしなければ。
「あ、あの、ジンサマ」
「何かね?」
「これからどうなさるおつもりですか?」
「住み込み可能な職を探す。だが、あのような化け物が闊歩するこの世界に職安はあるまい。どこへ行けば斡旋してもらえるのだ」
それは難しい話ではないと、シャーリーは考える。
先ほどのワイバーンやオーガにも通じる徒手空拳の謎の技があるのならば、住み込みこそできないものの、即日即金の入る冒険者ギルドに登録すれば良いのだから。
そうしたら、このステキなオジサマと旅をすることもできるかもしれない。
「RPGのように酒場か宿屋か? むう。シャーリー、すまないがどこか良い斡旋所を知らないか?」
けれど冒険者に誘う前に、確かめておかなければならないことがひとつだけある。
「それをお教えする前にひとつお尋ねします。――えっと、ジ、ジンサマの帰りをニッポン国で待っておられる方はいらっしゃらないのでしょうか!」
尋ねた瞬間、か~っとさらに顔が熱くなった。
ばか、ばか! ここで赤くなったら、まるで今から愛の告白をするみたいじゃない!
突然恥ずかしくなって、シャーリーは自らの髪に手を入れて頭を掻き毟った。
「ち、ちが、えと……変な意味ではなくてですね、あ、変な意味でもあるのですけれど……でも、そんなことじゃなくて……あぁ……もう……!」
太く逞しい手がシャーリーの細腕をつかみ、そっと押し下げる。
「よしなさい。そのように頭を掻き毟るのは将来的によくない。私のいた国では、毟るという言葉は少ない毛と書く。髪とは長き友。彼らを掻き毟るなど、とてつもない愚行なのだよ」
「ひゃ――っ」
彼の優しげな笑顔があまりに近くて、シャーリーは慌てて立ち上がろうとして、背中からテントの床に転がった。
「きゃあっ!」
大慌てて起き上がり、腹部までめくれ上がったスカートを押さえる。
わあ、わああああっ!
「おっと、驚かせてしまったようだね」
「み、み、見ました……よね?」
甚五郎がうなずいて、優しげな口調で囁いた。
「ああ、すまない。視線を逸らせようにも間に合わなくてね。見えてしまった。心配しなくても大丈夫だ。色柄や形状を口外したりなどしないし、私も忘れることにするからね」
平然と顔色ひとつ変えず、口許に人差し指を立てて片目を閉じて。
乙女の下着を見てしまったことなど、まったく意識していない。ハゲのくせに。
とくん、とくん。左胸の奥がさっきよりも強くうずく。
でもそんなところがステキ、なんて大人な方なのだろう!
「はい。ありがとうございます、ジンサマ。でもわたくし、ジンサマになら……見られても平気……かも……?」
シャーリーが必殺の上目遣いで様子をうかがうと、甚五郎はすでに瞳を閉じて考え事をしている様子だった。
つたない必殺技が空回りして、シャーリーが苦笑いを浮かべる。
あるいは考え事など本当はしておらず、柄や色のことはもう忘れたから安心しなさいという気遣いなのだろうか。だとしたらそれはとても優しい判断だと、少女は考える。
我知らず、シャーリーの口からは熱い吐息が漏れ出ていた。
この女……チョロイ!