ハゲ、獲物を譲る
前回までのあらすじ!
変人ハゲと変態バージン、そしてエロティクス娼婦の旅に、金髪フサフサが加わったぞ!
その日、幼い少年は、世にも不可解な恐ろしいものを目撃した。
王都シャナウェルの程近く。深き森の中心に位置する、名もなき小さな集落。
その怪物は――その怪物たちは、半年をかけて集落の大人がこしらえた石造りの防護壁を、手にした岩石の棍棒の一振りで破壊した。
夜の静寂が一気に破られる。
物見櫓から金属を打ち鳴らす音が響いた。
「トロゥルだ! トロゥルが出たぞッ!!」
体長は成人男性のおよそ三倍ほど。だが、全体的に太く分厚い肉体は、人間のものなどとは比較にならないほど強靱だ。
その数、六体。
わずか十五世帯しかない集落の家々から、次々と人が飛び出す。
「ひ……ッ」
まだ、遠く。けれどもあまりの威圧に息を呑んだ子供を両腕でかっ攫い、母親らしき女が走って逃げ出す。裸足で。
人の足では、どれだけ早く行動を起こしたとしても早すぎるということはない。むしろ、もはや手遅れなくらいだ。
トロゥルの一歩は、女の五歩にも相当する。
集落のあちこちから響く悲鳴、そして叫び。
防護壁のすぐ近く。木と土でできた住居など、まるで砂の城のようだ。岩石の棍棒を振り回すまでもなく、その腕で、その足で突き崩してゆく。
「女子供は逃げろッ! 王都まで走るんだッ! 男は殿を務めろ!」
物見櫓の見張りが、金属板を槌で打ち鳴らしながら叫び続けている。
「剣や槍はだめだ! 弓を放ちながら後退しろ! 王都まで逃げるんだッ!!」
だが。
「年寄りと子供に手を貸せ! 先に逃が――う、うわあああぁぁぁ!」
櫓よりも体長のあるトロゥルが、必死で叫びながら金属板を打ち鳴らしていた見張りの男を、無造作に櫓ごと薙ぎ払った。
木造の物見櫓は軋む音を立てる暇すらないまま、ばらばらになって夜空に散る。
少年の瞳には、見張りの男がどうなったかはわからない。
着の身着のまま、住居から転がり出た集落民らは、思い思いの大切なものだけを抱えて、一目散に王都の方角へと走った。
しかし幼い少年はひとり、その流れに逆らった。
ガギリと歯を食いしばり、激しい憤怒の表情で、その手に鋭い剣を持って。
少年は逃走の流れに逆らって、裸足で走り出す。
六体のトロゥルに脅えた視線を向けながら走る女の横をすり抜けて、泣きながら走る子供を跳躍で越え、弓を番えて放つ男らの前線さえも走り抜け。
「な!? ま、待て、カイル! やめろ! 戻るんだッ!!」
制止の声など聞こえてもいない。ただひとり、一体のトロゥルへと向かって。
「ッ……わああああぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーっ!!」
その矮躯には長すぎる剣を引きずり、駆け抜け様にトロゥルの足の甲を斬る。
「――クソ! 弓ィッ! カイルが向かった方向には矢を放つなッ!! 他のトロゥルを足止めしろっ!!」
たかだか非戦闘員二十程度の人数で、トロゥルを仕留めることなどできはしない。そんなことは叫んだ男にだってわかっている。
それでも矢を番えるのは、トロゥルの気を惹き、女子供が王都まで逃げる時間を作るために過ぎない。
なのに、この子供は。カイルと呼ばれたこの幼い少年は。
少年の剣は、トロゥルの皮膚一枚を斬り裂いた。
ダメージを与えるどころか、巨大で鈍重なこの怪物は、自らが攻撃を受けたことにさえ気づいていない。
ここで逃げれば良かった。
けれど少年は両手に持った剣を逆手に持ち替えて、頭上から地面へと刃先を向けて、トロゥルの足の甲を刺し貫いたのだ。
緑色の巨大な足から、青い血がわずかに滲む。
トロゥルの視線が、足下で彷徨く矮小なる存在へと向けられた。
「父ちゃんを返せぇぇぇ!」
カイルはなおも剣を持ち上げる。だが、それを振り下ろす頃には、すでにそこに貫くべき足はない。
巨大な足は、高く持ち上げられていた。
月光を遮る大きな影が、さらに剣を突き下ろそうとしていた少年の姿を深く呑み込んだ。そうして、一気に大地へと下ろされる。
ズン……と重い音が響いて、地面が穿たれた。
けれど、そこに赤い血はない。肉片もない。折れ曲がった剣だけならば、あるけれど。
「ま、間に合った――大丈夫ですか!?」
緑の風に乗った銀髪の少女が、幼い少年を抱えて疾風のように駆け抜けていたのだから。
そうして彼女の腕のなかで、少年は大きく目を見開く。
銀色の髪の少女にかなり遅れて、ドタバタとこの場へ走り込んできた男に視線をやって。
「うぬ――っ! この悪党めがぁぁぁ! 貴様らの図体は、力なき者を虐げるためにあるのかァァァ!」
その男は――。
月光をぎらぎらとした頭髪なき頭皮で反射させたその男は、着ていた上着をその場に投げ捨てる。
「未来を担う子らを踏みつけようなどと、そのような悪事は、たとえ天が見逃そうとも、この私! 羽毛田甚五郎がゆるさんッ!!」
そうして助走を付けて跳躍し、空中で両脚をそろえ、まるで流星のような勢いでトロゥルの脇腹を蹴った。
「おおおぅらっしゃああぁぁ!」
誰もが無謀だと考えるだろう。
男は人間にしては巨体ではあるものの、トロゥルにはその倍以上の体長がある。肉体の分厚さなどは、比較することさえバカバカしい。
だが。なのに。
およそ生物の肉が弾ける音とは思えぬほどの、重く鈍い音が夜の森に響く。
直後、男の倍以上はあろうかというトロゥルの巨体が吹っ飛んだ。その巨大な両足が大地から離れ、中空へと浮かび上がり、文字通り吹っ飛んだのだ。
少年の、目の前で――。
着地に失敗でもしたのか、男はトロゥルを蹴ったその体勢のまま、地面にずしゃあっと滑り落ちた。
だが、泥にまみれながらも男は平然と立ち上がる。
「羽毛田式殺人術のひとつ、爆裂32文人間ロケット砲。――そして!」
弾けんばかりの大胸筋をさらに肥大化させ、走る。吹っ飛ばされ、崩れかけた住居に手をついたトロゥルへと。
「ぬおおおおっ!」
男が十二分に勢いをつけて、再び跳躍した。
「――羽毛田式殺人術のひとつ、咽頭滅殺レッグラリアットォォ!」
体勢を立て直そうとしたトロゥルの咽頭部へと、右脚大腿部を鉈のように振りながら。
肉と肉ではない、筋肉ですらない。
骨と骨とがぶつかり、そして粉々に砕け散るかのような気味の悪い音が、夜の空に響く――!
トロゥルの顎が大きく持ち上がった。
その巨体が白目を剥いて血の混じった泡を吹き、住居を突き崩しながら仰向けに倒れ込むのを確認して、男は叫ぶ。
「アイリア! 集落の人々の撤退を補助しろッ!!」
「わかってる! 気をつけて、ジンさん!」
半壊した住居から老女を背負い、褐色肌の美しい女が走り出した。
残り五体のトロゥルのうち、四体までもが羽毛田甚五郎と名乗った男に視線を向ける。
だが、甚五郎は四体のトロゥルには目もくれず、褐色肌の女の背中に叫んでいた。
「一体そちらに行ったぞッ!」
「――ッ、了解、こっちでなんとかする!」
次に甚五郎は、銀髪の少女が抱える少年を指さす。
「シャーリー、その少年を放すんじゃあないぞ? その目はとても危険な目だ。何をしでかすかわからん」
「わかってます!」
少年は、未だトロゥルへと憎しみの目を向けていた。
そこに脅えの表情はない。あるのは自己犠牲をも厭わぬ殺意のみ。
「死を恐れぬものは、決して戦場へ向かわせてはならん。長き友らとは違い、一度でも散ってしまった人間は、この世に戻ることはできんのだからな」
「はい。この子を、ジンサマの頭から去っていった長き友たちのようにはさせませんっ」
シャーリーは少年に両腕を回して、ぎゅっと力を込める。
数秒考える素振りを見せたあと、甚五郎が首を傾げた。
「……ふははっ、何を言っている。私の長き友はいずれ戻るから……」
「え?」
シャーリーの視線が斜め上方へと向けられる。
眩しそうに、わずかに細めながら。
「え?」
甚五郎の顔色が青ざめてゆく。
「……い、今はきっと、髪たちもバカンスに行っているだけに過ぎん。い、いずれまた、帰ってくる……?」
「知りませんよ、そんなこと――ッて、後ろ、後ろ来てますジンサマ!」
四体のトロゥルが、四方から同時に甚五郎へと走る。
「ぬぅっ!? なんと卑劣なッ! まだ話の最中だと言うのにッ!」
だが、彼らが辿り着くよりも早く、金色の獣が甚五郎を守るかのように、高き夜空から雷のように舞い降りた。
金色の狼。それも、トロゥルほどではないにせよ、凄まじい巨体を持つ。
夜の闇を震わせ、金狼は咆吼する。
――オオオオオオォォォォォォーーーーーーーーーーーーーッ!!
勢いづいて走っていたトロゥルたちの足が、一斉に止まった。
金色の瞳の形状が変化し、その体毛が逆立ってゆく。牙を剥き、眉間に皺を刻み、前脚を曲げ、低く唸りながら。
甚五郎が金狼の首もとに手を置いて、静かに囁いた。
「……なるほど、そういうことか。こやつらなのだな? 洞に残っていた臭いは」
――ウォウ!
少年にはなんのことかわからない。
だが、甚五郎はひとつ大きなため息とつくと、両腕を組んだままその場に座り込み、あぐらをかいた。
敵前であるにもかかわらず、ことさら無防備に。
「ならば仕方があるまい。譲ってやろう。思う存分暴れてこい。貴様の雄々しき咆吼は、天の国にまで必ず届く。…………しくじるんじゃあないぞ?」
――オオオオオオォォォォォォーーーーーーーーーーーーーッ!!
巨大な金狼は、一瞬の躊躇いもなく正面のトロゥルへと襲いかかった。その速度に、鈍重なトロゥルは反応できない。
次の瞬間にはもう、金狼はトロゥルの頸部に噛み付いていた。
――グガルルゥゥ!
金狼が牙を深く突き入れるべく、どう猛な唸り声を上げながら何度も首を振る。トロゥルはどうにか金狼を引き剥がそうと、両手で獣の頭部をつかもうとするが、その試みは失敗した。
ブツンという何かが切れる音が聞こえた直後、トロゥルが動かなくなったのだ。
金狼は動かなくなったトロゥルを無造作に投げ捨てると、口の端から獲物の血液を垂らしながら、次の獲物へと視線を移した。
その間、わずか五秒。何者であれ、何かができる時間ではない。
金狼は圧倒する。
旗色が悪いと見たのか、トロゥルは金狼には向かわず、手にした岩石の棍棒を振り上げながら、座ったままの甚五郎へと駆け出していた。
「……」
だが、それでも男は微動だにしなかった。
それどころか瞳を閉じ、全身の力を抜くのだ、この男は。堂々と。
守るものなき頭部を狙い澄まし、岩石の棍棒が振り下ろされる。
だが、棍棒が男の頭部を破砕するよりも早く、金狼はそのトロゥルの胸を四肢で蹴っていた。
――ガアアアアアァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!
体勢を崩したまま振り下ろされた棍棒が、男のわずかに背後へと振り下ろされる。ハゲ頭を掠めて中空を通り過ぎた岩石の棍棒が、森の大地を抉って地面を爆発させた。
男の後頭部にかろうじて残っていた毛髪が、棍棒の巻き起こした暴風でわずかに揺れる。
「……」
それでも、この男。羽毛田甚五郎というこの男は、眉ひとつ動かさなかった。
逃げ出す素振りはおろか、回避行動はもちろん、言葉すら発さないのだ。
まるで金狼に全幅の信頼をおいているかのように、ただ瞳を閉じ、静かに座しているのみで。
直後、金色の閃光は夜の闇を斬り裂いて、一気に駆け抜ける。
その場にいたトロゥル四体が骸と化すまで、それほどの時間はかからなかった。
そうして血なまぐさい夜風のなか、甚五郎は瞳をゆっくりと開く。
「……そうとも。……私の髪はバカンスに行っているだけなのだ……いつか戻る……。……いつか生えるさ……」
まだ青白い顔で、ぶつぶつ妄言を呟いていた。
その瞬間の少年の瞳に映った男――羽毛田甚五郎は、世にも不可解な恐ろしい雰囲気を醸し出していたという。
「……大丈夫……、……私はまだ大丈夫だ……」
や、大丈夫じゃない。




