ハゲ、穏やかなる平和の使者
前回までのあらすじ!
誤って飲んだ酒により、悪酔いした小娘の妄想が爆走して暴走した!
もはや妄走特急小娘は誰にも止められないのだった!
※未成年は飲酒しちゃだめ!
踊り子の舞台が終わったためか、砂の魚亭の食堂には人々の声が満ちていた。
皆、それぞれの食卓で楽しげに雑談をしている。
甚五郎が忙しそうに走り回っているウェイトレスを呼び止めた。
「キミ。水をいただけるかな?」
「は~いっ、ただいまっ!」
ウェイトレスがエプロンドレスの裾をつかみ、膝を曲げる。
しかし甚五郎は歩き去ろうとした彼女の手をつかむと、細身の彼女を引き寄せてその耳元で囁いた。
「……すまないが、できればこの木製ジョッキに入れて欲しいのだが……」
シャーリーを横目に、ウェイトレスの耳元に口を近づけて囁く甚五郎を、シャーリーがくわっと血走った目を見開いて睨む。
「ジンシャマ~、近ひ、近ひれひゅう! ま~たうわきれふかあ!?」
「ぷふぉ、ぷン、ぷふぁ~~~~~~っ、も、死ぬ……、ふぁふぁ~~~~~~っ!!」
アイリアは、今やもう突っ伏したテーブルをバシバシと叩きながら腹を抱えている。
やがてウェイトレスはだいたいのことを察したのか、シャーリーの木製ジョッキを手に、苦笑いで足早に去っていった。
「にゃ~んでわらくひのあの~あれ……あれ、もってくんれふか~……」
「シャーリーがあまりに良い飲みっぷりだから、おかわりを頼んだのだ。気を利かせたつもりであったが、フ、余計な世話だったかな?」
甚五郎がニヒルな笑みでシャーリーを諭す。
恐ろしいほどに真っ赤に染まったシャーリーが、胸の前でぽふっと両手を合わせる。
「ありぎゃとごじゃ~しゅ。にゃは、にゃははははははっ! ほれならほ~と、もっろ早ふ言っれくらはいよぅ~、このハヘ~!」
シャーリーが突然立ち上がって、ふらふらとテーブルを両手で伝いながら甚五郎に歩み寄り、パァンと防御力ゼロの頭皮を叩いた。
瞬間、空気が凍る――。
アイリアの笑いが消滅した。
他のテーブルの歓談だけが、食堂に響いている。
「ちょ――」
「ふぉぅ! このハヘ、きもち~」
シャーリーはなおも甚五郎の頭部を撫で回す。頭髪を失いしその貧困なる頭部を、左腕で自らの貧相なる胸部に抱え込んで。
右手でつるつる、つるつる。ひたすら、つるつる。
「ハヘ~、にゃはは、かわひぃ、ハヘ~」
「ちょ、ちょ、ちょっと、キティ! だ、だ、だめだって!」
「ハヘ~、ハヘ~、とぅる~んとぅるる~んっ」
表情を失った甚五郎は、まるで石像のように動かない。
見かねたアイリアがフードを取って立ち上がり、シャーリーを羽交い締めにして甚五郎から引き剥がす。
シャーリーが今にも泣きそうな表情でアイリアを振り返った。
「あぁん、もっろしゃわる~、ハヘしゃわるぅ……」
「だめ、もうだめだって!」
瞬きひとつせず、虚ろな瞳で食べかけの肉を眺める甚五郎をよそに、アイリアはシャーリーを引きずってその肩を押し、元の席へと座らせる。
美しき娼婦はごくりと喉を鳴らし、頭髪を失いし戦士に視線を向けた。
そうして気づく。
「……げ、解脱してる……」
甚五郎はまるで悟りを開いた東国の高僧か石仏のように、憂いを称えた穏やかな瞳のまま、気絶していた。
ちょうどそのとき、木製ジョッキを持ってウェイトレスがやってきた。
「は~いっ、お水――じゃなかった、果実酒のおかわりになりまぁ~……す……?」
何やら異様な雰囲気に勘づいたのか、ウェイトレスは木製ジョッキをシャーリーの前に置いて挨拶だけをすると、そそくさと立ち去っていった。
「ジンさん? ねえ、ジンさんってば!」
返事はもちろん瞳孔反応すらない。ただの屍のようだ。
恐る恐る、アイリアが甚五郎の頬を軽く叩いた。
「ジンさん!? ジンさん!? ちょ、ちょっと、戻ってきて! しっかり!」
二度、三度、頬を強めに叩いても反応はない。ただ一筋、美しき漢の涙をこぼしただけで。
シャーリーはのんきに木製ジョッキのなかの水を飲んでいる。
「ぷひゃあ~、ごぞーろっぷにひみわらりまふにゃあ~」
ぐび、ぐび、ぐび……。
しかしその直後、シャーリーは突然テーブルに突っ伏して寝息を立て始めた。
「あーもう! やるだけやって寝ないでよ! ジンさんも、そんなに強いくせにどうして心はこんなに弱いのよ!」
アイリアは自らのジョッキを手に取って、甚五郎の顎をつかむと無理矢理上を向かせて、果実酒を大量に喉の奥へと流し込んだ。
ごぽん、というなんとも言えない音がした直後、甚五郎が上半身をぶるぶるっと震わせて、大きく目を見開く。
「ジンさんっ、大丈夫っ!?」
「む!? 何がだ? 大丈夫かなどと、ふははっ、このように安全な場所で、妙なことを聞くものだ」
「や、今キティが……その……ほら……」
アイリアが伏し目がちに、甚五郎のテカった頭部に視線を流した。
「うむ。あの謎の言葉、“ハヘ”とは何のことかと考えていたところだった。フ、少々熟考が過ぎたようだな。心配させてすまない、アイリア」
いや、答えはひとつしかないでしょう。
そう言いたげなアイリアから言葉を出させまいとするかのように、甚五郎は涙をいっぱい溜めた穏やかな視線でアイリアを見つめていた。
傍目にもわかる。察してくれと、強く物語っているのが。
「…………まあ、いいけど」
アイリアが自分の席に戻る。
なんとも言えない空気のなか、甚五郎とアイリアは暗鬱とした気分で、もそもそと食べ物を口に運び始めた。
味がしない。
そんなことを考えながら、アイリアはため息をつく。
「……アイリア? あんたアイリア・メイゼスか?」
「……ッ」
今更ながらに気づく。フードを取ってしまっていたことに。
周囲のテーブルからあふれていた雑談が一気に消え去って、どよめきが広がってゆく。
アイリアは額に手をついて、ため息混じりに振り返った。
「え、ええ」
男だ。見覚えはあるけれど、名前までは知らない。
ただの常連客だ。娼館にいた頃の。
ああ、嫌だな……。ジンさんの前なのに……。
「良かった! 娼館街が魔人に灼かれたって聞いて心配してたんだ! あんたが行方不明になってるって、他の娼婦が言うから!」
「え、ええ。ご心配ありがとうございます。でも、この人が助けてくれたから。その、魔人を張り倒して」
「魔人をッ!?」
大声で男が騒いだためか、別のテーブルからも男性客が数名、慣れ親しんだように手を振りながらこちらに向かって歩いてきていた。
みんな名前も知らない客だ。
あっという間に男性ばかり五人に取り囲まれて、様々な言葉が投げかけられる。
「いつから再開するの?」
「あ、えっと、もう辞めたの。その……娼婦……」
喉が詰まりそうで、うまく言葉が出てこない。
「またまたぁ! あんなに楽しそうにヤってたじゃない!」
「おお。アイリアちゃんほどの娼婦は、王都にだっていねえよな」
「テクニックもすごいからなー」
やめて……大声で言わないで……。
口から飛び出しかけた言葉を、苦笑いで誤魔化す。
大嫌いだ。こんな街。
どのような目で自分が見られているのかが怖くて、アイリアは甚五郎に視線を向けられない。
目を伏せることもできず、ただ固めた笑みで男たちを交互に眺めるばかりで。
「また相手してよ~。そうだ。今からどう? 今日はこの店でも部屋がまだ空いてるらしいから」
「ごめんなさい。そんな気分じゃないから」
アイリアが長い髪を揺らして首を左右に振ると、男は長衣の懐から銀色の金属でできた硬貨を取り出した。
「いつもの倍額出すよ。さっき宝石魚を釣り上げてさあ、ちょっと小金が入ったんだ。だから、な?」
「ごめん、ほんとに今日は……連れもいるから……」
「じゃあ、いつならいいんだよ。娼館街が復活するのは、まだまだ先だろ。それまで我慢ってのは、ちょっとたまんね~よなあっ」
男が大声で言うと、他の四人が一斉に笑った。
ああ、だめだ。もう嫌だ。
こんな街に寄るべきじゃなかった。娼館街の客の大半は、この街の男たちなのだから、こうなることは予想できていたのに。
意を決して、甚五郎に視線を向ける。
決して助けて欲しいからではない。彼がどのような視線で今の自分を見ているかが気になったからだ。
だが、予想に反して甚五郎は、ただ優しく包み込むように微笑んでいた。
「ジンさん……」
そうして視線が合った瞬間にゆっくりとうなずき、静かに囁くのだ。この男は。このハゲは。
「過去は捨てられん。どこまで逃げてもついてくる。少なくとも私には、人々を苦しめてきた過去を否定などできなかった。だから私は未来の己に正義を課したのだ。……貴女はこれからどうしたい、アイリア?」
それだけだ。甚五郎は木製ジョッキを持ち上げると、静かに口もとで傾ける。
それは決して優しい言葉などではなかった。
なのに。にもかかわらず、心に小さな小さな種火が灯るのだ。この男の言葉は。このハゲの言葉は。
胸から熱いものがあふれ出て、指先にまで行き渡り、勇気に変わってゆく。
「なあ、いいだろ? ここのみんなもあんたを抱きたいって言ってるし、時間がないなら全員同時に相手をしてくれたって――」
「こらこら、だーめ。辞めたって言ったでしょ」
明るく言い放つ。言えた。明るく。笑顔で。
自分でも驚き。
「あ、ああ。あ、でも、一回くらいは――」
「あははっ、ごめんね~。あたしだっていつまでもそんな商売してらんないもん。若いうちに道を修正しなきゃって思ってさ」
そうしてアイリアは笑顔で、五人の男たちにぺこりと頭を下げる。
「みんな、これまでかわいがってくれてありがとう」
男たちは口をつぐんで顔を見合わせ、後頭部を掻きながらため息をつく。
「……そっか……。そうだな。残念だけどしょうがねえやな」
「なんかあったら相談乗るから、いつでも言ってくれよな」
「やめとけやめとけ、こいつ下心残ってっから。あんたのことが好きだったんだとよ」
「てめっ!」
朗らかに、笑い合いながら。
自分も、五人の元お客たちも。
ジンさんのおかげだ。騒動にならなくてよかった。怒らなくてよかった。泣かなくてよかった。
「あははっ、まあまあ。言葉だけありがたく受け取っとくわ。じゃあ、あたしはまだ食事中だから。みんなもテーブル戻って楽しみなよ。ここのお料理、ほんとにおいしいんだからっ」
「そうだなっ」
「じゃあね、アイリア!」
手を振るさなか、ひとりの男が甚五郎を指さしてアイリアに囁いた。
「ところで、アイリアちゃんのことを魔人から救ったっていうこの人は誰? なんかここらじゃあまり見ない、おもしろい髪型してるな。前と上は完全にハゲてるのに、なんで横と後ろは剃らないんだ?」
あ――。
アイリアが額に手をあてて天を仰いだ。
その直後、憤怒の形相で甚五郎が男の頭部を鷲づかみにして持ち上げる。
「ぬふぅぅぅっ! 貴様かッ、今私をハゲと、ひどく激しく無慈悲に罵倒したのはァァーーーーッ!!」
「いがががががッ!? は、放せ!」
「お、おい、やめろ、ハゲ!」
男たちが甚五郎の腕をつかむと、もう片方の手で甚五郎が別の男の頭部をつかんで持ち上げた。
「うぬっ、貴様もグルかァ! ぬぅっ、二人がかりで罵倒とは、なんと卑劣なッ! ゆるさん! ――羽毛田式お仕置き術のひとつ、BL接吻スペシャァァル!」
甚五郎が、両手に持った男同士の唇を、中空で押しつけるように無理矢理合わせる。
「そりゃあ! そい! そい!」
「やめ、ちゅむぅ……ッひいぃぃぃ……ちゅ……オボロエエェェェ!」
「むちゅッオゥエェェェ! やめ、オボエェェェ!」
「ふははははっ、そぃ、そぃ、ソィヤ、ソィヤァ!」
アイリアはテーブルに肘を置き、果実酒を静かに傾け、微笑みながら熱い視線を甚五郎へと向けた。
あ~あ。せっかく丸く収まりそうだったのになあ。
ほんと暖かくて優しくて……変な人……。
「ふふ、大好き」
今夜は砂の魚亭から追い出されないことを祈るばかりだ。
ソイ、ソイ、ソイ! 短気すぎんぞソイィ!




