四話 名
10/20改稿しました
戻ってきた屋敷の扉をあけた先の風景に目を見開いた。
何故か少年が棚にあがっていたのだ。彼の背丈の倍はある棚に。
「!」
突然入ってきた私に驚いたのか、体が傾く。
「っ危ない!」
ダンッ!
床を強く蹴って、少年と床の間に身を滑り込ませる。続いて落ちてきた薬草入りの瓶を払いのけた。
「……あ」
少年が呆然とつぶやく。がしゃんと音がして瓶が割れた。この音を聞くのは二度目だ。
「! もうしわ、うっ」
少年を乱暴に蹴落として、立ち上がった。ギン、と睨みつける。
「余計な事はするなと言ったはずよ!」
「も、申し訳ありません……!」
いったい何をしようとしていたのかは分からない。分かりたいとも思わない 。
……腹が立つ。背の倍ある棚から落ちたらどうなるか温室育ちの坊ちゃんには分からないのだろうか。
「……あの、怪我、は」
「はっ、怪我ですって?」
嘲笑とともにふっ、と息を吐いて気を静める。
人間の行動に何を取り乱す必要がある。人間がどうしようと、どこで死のうと関係ない。
心配げな青に見下すようにせせら笑う。
「馬鹿にしないで頂戴。私は深淵の魔女。お前達人間のように軟弱ではないのよ」
そう。魔女。魔女なのだ。私は名高き深淵の魔女。誇り高きこの森の支配者。
心でそう唱えると、ただの少年の行動に声を荒げたことが馬鹿らしくなる。
「……仕事は終えたんでしょうね。効能を記した紙は?」
「こちらに」
少年の顔色がよくなり、わずかに零れた分ではないハーブの香りもする。言いつけどおりきちんと処理したようだ。
紙を受け取り、読む。幼さを感じさせない達筆で、香りで気分が和らいだ、発汗効果があるようだ、肩のコリが少し緩和されたと書かれていた。
「……まあ、いいわ。想定通りよ」
「そうですか」
着替えた服が整った顔立ちによく似合っている。着替える前より少し、大人びた印象に変わった。
「座りなさい」
突っ立ったままの少年をそう促す。食事なんて何年も作っていないから、勝手が分からなく、バルドに頼んだ。というかあの気のきかない男が自らすると言ったのだ。出かける前に食べ物は与えてきたが、人間は三食必要のはず。丁度良い頃合いだろう。
少年は座ったまま私をじっと見つめる。
「何しているの? とっとと食べなさい。こんな時でも遅いのね」
「……その」
迷うように口を開いた少年に机をとんと叩き、何? と促す。
「お名前をお聞きしてもいいですか?」
「……」
名前なんて。
とうの昔に捨てた。知らない。覚えていない。いらない。
「嫌よ」
動揺したのは刹那。冷たく吐き捨てた。
「ですが、それでは呼びかける時に困ります」
だが、簡単に引くと思った少年は引かなかった。出て行く前はもう少し警戒心があって余計な事を言わず振る舞っていたのに。これが本来の少年なのか、それともあの騒動の最中、強かに成長したのか。
まぁ、どちらだろうと関係ない。
私は髪を払うと見下すように笑う。
「お好きにお呼び? たかが物に名乗らなくてはいけない道理はないわ」
人は、私を魔女と呼ぶ。だから、そう呼べばいい。もとよりただの気まぐれで拾ったものだ。飽きたら捨てる。名前で呼び合うほどなれ合うつもりはない。
「では。ご主人様」
「ふざけないで」
驚いたような表情をしていた。従順そうに振る舞うことにしたのかと思ったが、本気だったらしい。眉がよる。
「私は貴女の所有物なのでしょう。この呼び名が妥当かと」
何故。
「……もう一度いってご覧なさい」
「私は貴女の所有物なのですから、この呼び名が妥当です」
どうしてそれを受け入れるのだろう。
彼の矜持は高いはず。
父と母、そして兄、居場所を一度に亡くした悲しみは浅くはないだろう。けれど、私の前で泣いたのは一度きり。それくらい、気高い、人間。
なのに、魔女の所有物という己を受け入れるのか。
それは。
「あの」
「……エル」
酷く―――、
「そう呼びなさい」
―――――不愉快だ。
「……そうですか。エル様」
少年はほんの少し口角を上げた。なぜそこで喜ぶのか意味が分からない。
少年の正面に腰掛ける。
「それと、私の物というは撤回するわ」
「……それは。どういった意味ですか?」
どこまでも透き通るような綺麗な瞳に戸惑いの色が浮かんだ。
質問には答えずに、指先に魔力を込める。
「っ」
突然出現した火に驚いた顔をした少年をくすくすくすと笑って馬鹿にする。
「人間にはこれが珍しいのでしょう?」
「は、い」
まだ戸惑いの残る子供らしい顔だ。こういう表情は嫌いじゃない。
火を操って会話中にさめた料理を温めた。
「早く食べなさい。そうしたら、さっきの質問に答えてあげる」
「エル様は食べないのですか?」
「私は魔女よ。人間とは違うの。私に食事なんて必要ないわ」
一人で全を補う。他は必要ない。それが魔女だ。
「そうですか」
その顔が悲しげに見えたのはきっと、気のせいだ。
食べ始める少年をなんとく見つめる。
背筋はぴんと伸び、指先まで優雅さが宿っている。洗練された仕草は癖がなく、すぐに位の高い貴族だと分かってしまうだろう。
「御馳走様でした」
優雅に、それでもすばやく食事を終えた少年が手を合わせた。ああ、そういえば人間にはこんな習慣があった。
魔術で皿を浮かせてさっと洗った。この皿もバルドのものなので後で返さなくては。
「お前ね、あまりにも使えないの」
じっと皿を洗う様子をみる少年に向かって言葉を投げる。
「使えないお前に同情したから、この深淵の魔女が、魔術を教えてあげるわ。魔術を覚えたらお前でも多少は使えるようになるでしょうし」
「えっ」
一気に言い切ると少年がわずかに目を瞬かせた。生気の無かった瞳に随分感情が映るようになった、と内心で呟く。
「ま、魔術を……?」
「そういっているの。だから……お前は所有物から、弟子になるわ」
「!」
それほどまでに人間にとって、魔術は魅力的だろうか。
そうでなければ、あんな―――……。
“ ”
僅かに頭部に走った痛みに眉をしかめる。
「……は、」
いっそ笑える。まだ人間だった頃の事を引きずっているらしい。
「エル様?」
「何」
短く答える。
「体調が優れないのですか?」
「まさか。いい加減覚えたら? 人間の様に軟弱ではないの」
馬鹿にした言葉。けれど、少年は
「良かった」
安心したように笑う。
表向きの態度だと分かる。生き延びるため従順そうに振る舞っているだけだと。
なのに、ああ。調子が狂う。