第二章「今夜月の見える場所で」
マリオンが黒板にカツカツとテンポ良く板書していく音が教室内に響く。生徒達は皆、せっせとノートに書き写していく。しかし、ジェイドだけは若干様子が違った。
「……すっごく気だるい」
小さな声で漏らした。心当たりはなんだろうか? と自問するが思いつかない。昨日の歓迎会も寮の門限までには解散となっているし、寮に戻ったあとも夜更かしはしていない。
唯一、原因と考えられるのは、夢にカルファが出てきたような気がすることのみだ。
「情けないのう。とはいえ、夢魔のカルファに食われたなら仕方ないかのう」
「なにがさ」
ラルドルの言葉の意図するところをジェイドは理解できなかった。
「夢魔の特性なんじゃが、知らんのか……」
「だから、なにがさ」
カルファが夢魔だからと言ってどうして自分の気だるさに結びつくのかわからなかった。
「おい、そこ静かにしろ。授業がつまらんか? ほう、なら、天使族じゃなくとも容赦しないぞ?」
小声で話していたラルドルとジェイドをマリオンが注意した。
「いえ、そんなことは」
「よろしい、ジェイド。なら、魔法学における魔法の基礎について述べてみろ」
しぶしぶ、ジェイドは起立し、頭の中の知識をまとめる。
「魔法は大きく四属性に分かれます。これは火、水、風、土です。ここにもう一属性、万物属性を加えて、五属性であるという考えもあります。四属性であろうが、五属性であろうが、魔法発動の方式は同じです。体内外の魔力を利用して、魔法術式に乗っ取って魔力に形状と意味を与えます。形状は文字通りであり、意味は効果と考えて差し支えありません」
「まあ、ほぼほぼよろしい。次、授業中に私語があれば、吊すからな」
どこに? と思ったが疑問を口にはせずに黙って座った。マリオンはジェイドの言葉を補い、授業を進めていく。
「ジェイドが答えたように魔法は基本的には魔法術式に則って行使される。だが、毎回魔法術式を構築するのが手間である。その場合、用いられるものが魔石だ。魔法術式を結晶化し、形状と効果を封じ込める。あとは魔石に魔力を流してやれば、封じられた魔法術式が発動するというわけだ。そのうち魔石化技法については教えるが、手段として魔石があることは知っておけ。さて、次に種族についてだ。」
黒板に魔法と種族と書いたところでマリオンが振り向いた。
「ラルドル、お前、まさか安心していないだろうな?」
マリオンからの突然の指名だった。
「な、なんのことじゃろう」
ラルドルはとぼけようとマリオンから視線を外した。
「貴様も私語をしていたな。貴様には特別に、種族特性について述べさせてやろう」
ラルドルはあからさまにイヤな表情をして立ち上がった。
「あー。種族特性は言葉の通り、種族の特性じゃ。たとえば、儂のような竜人族は、身体の一部を竜化させたり、全身を竜化できる。夢魔族は人に淫夢をみせ精気を奪う。あとはそうじゃのう……天使族は神聖魔法で穢れを払ったり祝福を与えることできるなどあるのー」
あ、とジェイドは理解の言葉を出した。ラルドルの夢魔族の説明を聞いて、自分の気怠さの理由がわかった。カルファに精気を奪われたのだ。原因がわかった途端悔しくなった。
「よろしい。では、人間族はどうだ?」
む? とラルドルは一瞬戸惑い、しかし回答にすぐに至ったようで、戸惑いが消えた。そしてジェイドの方をみた。
「人間族は……そうじゃの。強いて言えば、魔法が使えない。といったところかの」
「座れ。私語は慎むように。次はえぐり取るぞ」
なにをだろう? とやはり疑問を浮かべたが、口に出すことはしなかった。
ラルドルが言っていたように人間族は魔法が使えない。しかし、その答えは正確ではない。ラルドルの回答に対する疑問を抱いたことを読み取ったのかマリオンがジェイドに確認した。
「ジェイド、補足はあるか?」
恐る恐るジェイドは立ち上がり、口を開いた。
「あ、じゃあ……ラルドルの回答はほぼあっています。ですが、正確には魔法が使えないのではなく、魔法術式を通した発動ができないだけです。これは人間族が魔力に意味を与えるのはできますが、形状を与えることが不得手であるためです。なのでたとえば、形状が作れないため炎という意味のみの垂れ流しになってしまい効率的な魔力運用ができません」
「その通りだ。だから人間が魔法術式を使う場合非常に効率が悪い。しかし、この問題も先に述べた魔石を使えば解決できる。あれは他者が構築した魔法術式でも魔力を流せば発動可能であるからな。では授業の続きだが」
マリオンは教科書を見つつ板書を続けていく。彼女の手は止まることなく、黒板に文字を敷き詰めていく。
「理論と基礎はこんなところだな。ちゃんとノートに書いておけよ。種族特性によって使える魔法もあるが基礎理論はかわらん。知っておいて損はない。さて、理論ばかりではつまらんだろう。実技で誰か」
チョークを置いたマリオンが教室を見渡すと、スッと一人の生徒が手を上げた。
「では俺がやります」
名乗り出たのはレイリーだった。マリオンは彼に前に出てくることを促した。
「じゃあ、レイリー。下級魔法ならなんでもいいから、一度魔法術式を組んでみてくれ」
「わかりました」
マリオンの指示に従って、彼は手前の空間に向けて魔法術式を組んでいく。組み上げるために指先に魔力が集まっており、わずかに光をまとっているようにみえる。
レイリーが魔法術式を組み上げるまでにかかった時間は十秒にも満たない。完成に至るまでの時間にマリオンは満足そうに頷いた。空中に浮かんでいる魔法術式を指さして、
「いいか、これが魔法術式だ。もちろんこのように魔法術式を描かずと行使できる魔法体系もある。あーちなみにこれは──」
「これはベルモット家の特性である創成魔法です。こい、ゴーレム」
魔法陣が発光し中から土の塊でできた巨人が出てきた。高さは三メートル近くはあるだろうか。ゴーレムの頭は天井ギリギリまであるため、生徒たちは見上げることになる。
「どうだ、サルミニア」
エルフ特有の尖った耳をツンッとさせてレイリーは自信満々にシャスをみた。名指しされたシャスは戸惑うように視線を動かしながらも口を開いた。
「え……あ……、そうですね。魔法術式が粗くて雑です。まだ展開速度を改善できると思います」
「なっ……!」
驚きの声を上げるレイリーをよそにシャスは言葉を続けた。
「あと、そうですね……。魔力運用周りも改善できます。例えば──」
次々とレイリーの魔法術式について、シャスが改善点を述べていく。その様子に教室内は静まり返った。一目見た種族特性魔法術式の改善点を述べていく彼女があまりに異様だったからだ。魔法学の教師であるマリオンですら、呆気にとられていた。
種族特性の魔法というのは、基礎魔法とは違い、魔法術式が知られているわけではない。中にはその種族における秘奥に当たるものあるためだ。だからこそ、レイリーの魔法術式を一目みただけのシャスの行動は異様いや異常だった。
指摘を受けていくレイリーの顔が次第に赤く染まっていく。
「おい、サルミニア」
苛立ちを含んだ声がした。
しかし、シャスは聞こえていないのか、解説を続けていく。もしかしたらシャスはレイリーがなぜ苛立っているのかわかっていないのかもしれない。また彼女は自分が、まさかレイリーを侮辱することをしているとは思っていないかもしれない。
「あとそれから……」
「サルミニア、貴様は……!」
レイリーが声を荒げた。まっすぐにシャスの席を目指し歩き始めた彼をマリオンが止めた。
「レイリー……やめろ。シャス、もういい。まったく。レイリー、席に戻れ。さて授業を続けるぞ」
マリオンに止められたことでレイリーは爆発しかけた怒りが不発で終わったため、あからさまに不機嫌になった。一方のシャスはレイリーの纏う怒気に気が付いていないのか、何事もなかったかのように授業を聞いている。
「今日の魔法学はここまで。さっき出したレポートは明日までだから忘れるなよ」
マリオンの言葉に項垂れる生徒たちだったが、それも彼女が去るとざわめきに変わった。今日午前中最後の授業が魔法学であった、つまりこれから昼休みだ。食堂へと急ぐ生徒達を尻目に、ジェイドは机に突っ伏した。
「にゅふふ、ジェイドちん疲れてるねー」
彼女の声に、ジェイドは顔を上げた。
「カルファは元気そうだな」
「そりゃあ、ジェイドちんの精気をたくさん吸ったしねー」
「それで思い出した、ラルドル、昨日教えてくれてもよかったじゃないか」
隣の席のクラスメイトに抗議する。しかし、ラルドルは頬を掻きつつ、
「お主が夢魔の特性知ってると思っておったのじゃがなー」
「ふふん。いやー、ジェイドちんはかわいかったよー」
今朝のことを思い出してげっそりしてるジェイドとは対照的にカルファはどこか活力に充ちていて、肌にもツヤがある。
「カルファはどうやって僕に夢を見せたのさ……」
「ほら、昨日、おでこにキスしたでしょ?」
「あれが目印か……」
「そういうこと。目印さえあれば、カルファたち夢魔は相手の夢に辿りつけるの」
夢魔族は相手に――主に異性――淫夢を見せて対象の精気を奪い、自らの魔力としている。昨日、カルファに悪魔の鍋で額にキスされた。それが夢魔にとってのマーキングであったため、ジェイドはカルファに淫夢を見せられ精気を奪われた。
「夢だから僕はほとんど覚えてないんだけど……」
「だったらー」
カルファは口元に笑みを浮かべて、ジェイドの頬に指を這わせる。白く細い指が輪郭をなぞり、唇に触れた。細い指が僅かに口内に侵入する。カルファは指を引き抜くと、ジェイドの唾液で濡れた指を口に咥えた。青色の瞳がジェイドを覗き込んだ。
「実際にやってみる? カルファはかまわないよ? 生身の方がいっぱい食べれるし」
立ちこめる色気にクラクラとする。小さく首を振って邪念を払おうとする。しかし、カルファはいつの間にかブラウスのボタンを外し胸元を露出させ、その色気を増強していた。そして、ジェイドの思考を鈍らせる甘い匂いが彼女から立ち込めているような気がした。頭がぼんやりする。カルファのヤツ、何をした? 疑問を結ぼうとするが思考の糸はすぐに解けてしまう。
思考がぼやけている中、カルファが手を取り、自分の胸元に引き寄せた。
「ほら、触ってみる?」
甘い声と温かな手の感触が思考を更に鈍らせる。
「カルファ」
諫めるようなラルドルの声に、カルファがパッと手を離した。悪戯が見つかった子供のように舌を出して笑った。
「にゅふふ、冗談、冗談。まったく、ジェイドちん、対抗魔力が弱いねー」
「何をした……」
頭を振って思考をクリアにする。さっきまでの思考のまどろみはなくなり、カルファから感じていた甘ったるさもなくなった。カルファが仕掛けていた何かが解けたのだろう。
「ん? うーん、魅了だよ。夢魔が使える魔法術式の一つかな。さっきみたいに相手を魅了して精気をごっそりいただくんだけどねー」
「今後はやめてくれ。ホントにそのうちコロッといきそうだ」
「カルファはいつでも歓迎だよー。夢でも生身でもいつでもね」
誘惑を含んだ声でいいながらカルファはブラウスをボタンを嵌めて身なりを整えた。
「さてと、お昼いこう、お昼ー!」
「そうするかのー」
クラレス学院の昼食事情はほぼ九割が食堂を利用している。残りの一割は学院街へといく。その一割は移動系魔法が使える種族に限られる。ともあれ九割もの学生を収容する食堂の面積は広い。また栄養バランスはもちろん、種族によっては摂取できるものが限定されるものもいるため、食堂のメニューは多岐にわたる。
「お腹空いたー」
「寮の朝食は少ないしのー。朝の修練の後では、昼まで保たんわ」
食堂に着くとジェイドたちはそれぞれ昼食メニューを選んで、空いてるところに座った。話題はラルドルとカルファの中等部時代のことだった。
「昔からラルドルは、健全な魂は健全な肉体に宿るから修練じゃ、修練じゃーと言ってるのんだよねー。カルファはいつもそんなことを聞かされてたからうんざりだよー」
「カルファとラルドルって中等部以前から知り合い?」
「うーん。中等部からかな。ほら、カルファがやってるギルド『夢魔のお手伝い』でたまーに助けてもらったりしてたんだ」
ラルドルは会話に参加せずに黙々と唐揚げ定食を食べていた。彼にとって今更カルファとのことで語ることがないのだろう。
カルファは中等部の話から話題を切り替えるように、
「ジェイドちんって魔法使えないんだっけ?」
確認のような疑問を投げかけてきた。
「魔法は使えないけど、魔力は使えるので……戦う手段はあるよ。カルファはどうなの?」
「カルファはね、契約魔法かな。本来は悪魔族が得意なんだけど、覚えてみたら結構便利なんだよー」
「契約魔法って、どういうことができるの?」
問われたカルファは数拍の間を生んだ。うーんっと唸って、説明に悩んでいるようだった。
「まともな契約書もってないから口頭での略式でいくね。──ラルドル」
「む?」
定食を一心不乱に食べていたラルドルはカルファに呼ばれて食事の手を止めた。もぐもぐと口の中に入っているものを租借して、飲み込んだ。
「なんじゃ? 唐揚げはやらんぞ?」
「ううん。契約魔法の実演。なんかある?」
「唐揚げを増やしてくれ」
「じゃあ、それでいいかな。『唐揚げを二個増やす代わりに私の肩を五分揉んで』。これに同意する?」
「そのぐらいであれば了承じゃ」
「契約完了っと」
カルファは空中に魔法術式となにやら文面を書き示し、その下に自分の名前をフルネームで記載した。ラルドルもそれに習った。
発光。
一瞬にも満たない発光のあとに、ラルドルの唐揚げ定食の皿に唐揚げが二つ出現した。
「はい、ラルドル。代価支払い」
「わかったのじゃ」
頷いてラルドルはカルファの背後に回って、肩を揉み始めた。
「えっと?」
「つまりね、カルファの契約魔法ってね、すごく簡単にいえば、相手の望みを叶えてあげる代わりに代価をもらうの。カルファはまだまだ魔法が未熟だけど、極めればもう何でも叶えることができるの」
「代価を支払わなければ?」
「強制執行。生命をもって払ってもらうよ」
カルファがこれでもかというぐらいに輝いた笑顔で告げた。
――その笑顔は、もう少し別の場面で見たかったな。
「なのでカルファはこの契約魔法を使って、ギルド『夢魔のお手伝い』をやってるの。基本的には何でも屋。迷子の仔猫探しからレアものの素材探し、何でもござれですよ。ジェイドちんもなんかあったらぜひぜひ」
「うむ。カルファはこうだが、性格も相まって人脈は広いから役立つぞ」
「こうってどういう意味よ!」
「気にするな」
「むきゃーー!」
カルファが、ラルドルの頬を掴んで延ばして抗議していると、
「ふざけるな!」
昼食で賑わう食堂に怒声が響いた。
その声に生徒達の足が止まり、食堂内のざわめきが消えた。
何事かと興味を向けた者は声がした方へと向かったが、関わらないことを決めた者たちは先ほどまで同様に昼休みを楽しむ事にした。
一度消えたざわめきはすぐに戻った。
だが、ジェイドたちは怒声が気になり席を立った。
食堂の中央付近に人だかりが出来ていた。
人だかりをかきわけていくとシャスとレイリー、そしてライラの姿があった。座って食事をしているシャスに、レイリーが詰め寄っていた。ライラはレイリーを止めようと腕を掴んでいる。レイリーはその手を振りほどこうとしながらも、怒りをぶつけていた。
「貴様、よくもさっきは俺に恥をかかせてくれたな!」
「え、そんなつもりは……」
「主、落ち着いてください」
「ライラ、離せ! サルミニア、お前は俺を小馬鹿にしたいのか! この同族殺しが!」
レイリーの言葉が引き金だった。騒動に関わらないようにして、賑わっていた生徒も含めて、沈黙し、取り戻したばかりのざわめきが消えた。
「どういうこと……?」
ジェイドの疑問に対して、ラルドルもカルファも、何も言わなかった。
まるでジェイドだけが事態をわかっていないようだった。
これまでレイリーの言葉を意に介さなかったシャスが立ち上がり、
「レイリー、その言葉は取り消してください」
抗議の声は小さいがハッキリと聞こえた。
「うるさい!」
パン。と音が響いた。
レイリーの右手がシャスの頬を打った。音を聞いたジェイドは、気が付けば人だかりから抜け出し、騒動の中心へと移動していた。
頬を押さえて俯いたままのシャスと怒りから息を荒げているレイリーの間に割って入った。ジェイドを血走った目でレイリーが睨み付けてきた。怯むことなくにらみ返して、
「何も暴力に出ることはないだろう。シャスが何をした? 君が一方的に危害を加えてるようにしかみえない」
「うるさい、人間ごときが」
「人間ごときでも、やれることがある」
「ほう、ならそれを示せよ。人間ごときに何が出来るのかさ」
「いいよ。中庭に出よう」
ジェイドの提案にレイリーが応じて場所を移すことになった。生徒達はこれから始まる出来事を楽しもうと二人についていく。売り言葉に買い言葉の結果ではあるが、ここで引き下がるわけにはいかない。
中庭に移った二人を取り囲むように生徒達が見守っている。その光景はまるで即席のバトルステージのようだった。
レイリーはブレザーを脱ぎライラに手渡すと、ネクタイを緩めた。
「勇者の息子だが知らないが、人間ごときが四大貴族に勝てると思うなよ」
「人間を舐めるな」
答えてジェイドは前に出た。
「ねえ、ラルドル、ジェイドちん大丈夫なの?」
「心配するな、儂が認めた相手じゃ」
ジェイドは軽くステップを踏み始める。
これから動くぞと予告するように身体を動かし、気持ちを切り替える。手足の先まで神経を敏感にしていく。
「いつでもこいよ、四大貴族様」
ジェイドの言葉が合図だった。
「ふん。泣いても知らないからな。ロックブラスト!」
ろくに魔法術式を描くことなく、魔法を完成させた。拳大の石がレイリーの足元から、ジェイドを目指して撃ち出される。
ジェイドは慌てることなく回避する。その後も次々と魔法が撃ち出される。それらもどうにか回避する。レイリーの魔法自体は回避ができるものだ。しかし、問題は魔法術式を描く工程を破棄して次々と休みなく撃ち出されることだ。ジェイドも魔法が使えるなら、撃ち合いや牽制をおこなえる。だがその手段はない。
「なんだ、勇者の息子様、逃げてばかりか? え!」
「うるさい」
それほど広くない空間をジェイドは走る。足を止めることなく走り続ける。
しかし弾幕のような石つぶての連射を完全に回避できるわけではない。時折、腕や脚をかすっていく。バランスを崩しそうになるのを立て直しては走る。しかし一つ一つのダメージは大きくないが、累積されていくダメージは徐々にジェイドの機動力を奪っていく。
「ジェイド、手を貸してやろうか?」
観客に紛れているラルドルが楽しげに言葉を投げかけてきた。心配など微塵もしていない、むしろジェイドをからかっているに過ぎない。
「いらないよ。どうにかできる」
その言葉に観客は沸き上がる。
虚勢ではない。
ジェイドにはこの状況を打破できるだけの手段がある。今はまだそれを使う機会をうかがっている。
「素晴らしいのは口先だけか? こい、ゴーレム!」
石つぶてがやみ、代わりに出てきたのは、先ほどの授業でレイリーが召喚したゴーレムだった。
「ゴーレム、潰せ!」
丸太のように太い腕が振り上げられる。ゴーレムの拳が直撃すれば、ジェイドもタダでは済まない。
つまりは状況的にはジェイドが不利だ。観客にはそう映るだろう。
だが、ジェイドは、笑った。
ここが分岐点だ。
そう判断した。
「あのままロックブラストが続いたら、さすがに困ったけど、これなら」
しゃがみ込む。
岩石が休みなく降り続いている限りは手が無かった。
いや、実際、手があった。しかし、それを使わないでいた。
使うべきタイミングはいまだ。
相手が自分の勝利を確定させようと、決定打になり得る攻撃に出たこのタイミングだ。
視線はゴーレムではなく、その後ろにいるレイリーへと向けられている。
「いくぞ、レイリー。一撃だ。――天翔」
ジェイドの身体が淡く発光した。
一歩を踏み出して、ゴーレムの股下を抜ける。
二歩目で加速する。
三歩目でレイリーの隣へ走る。
一気に駆け抜ける。ジェイドの軌跡を示すように、青い魔力の残滓が煌めいて、消えていく。
ゴーレムはターゲットがいなくなった場所へとパンチを繰り出した。
ジェイドの背後で鈍い音がした。ゴーレムのパンチがジェイドに当たっていれば、レイリーの勝ちは確定していただろう。
しかし、結果はそうならなかった。
「悪いな」
突然、目の前に現れたジェイドにレイリーは困惑した様子だ。レイリーが状況を理解するよりも早くジェイドは彼の顎に掌底を打ち込んだ。顎への衝撃により、レイリーの脳は揺れ、脳震盪となり、倒れた。
周囲からしたらジェイドが突然消え、次に現れたときにはレイリーが倒れているようにみえただろう。
「ふー。ライラさん、ごめんね。レイリーのことはよろしく」
「いえ」
観戦していた生徒達の中からホウキ片手の天使族の侍女が出てきた。彼女は倒れたレイリーを抱き上げて、
「皆様、我が主がご迷惑をおかけしました。シャス様、主の失礼な発言、申し訳ありません」
ライラの言葉にシャスの周りにいた観客が、数歩退いた。ちょうどシャスを円の中心置く形になる。あまり感情を見せないシャスだが、少し怒っているようにジェイドにはみえた。
「……はい」
納得はしていないがこの場を収めるために彼女の謝罪を受け入れたのだろう。
ライラは観客とシャス、ジェイドに一礼して食堂ではなく、校舎内へ戻っていた。
同族殺し。
レイリーはシャスにそう言った。ラルドルもカルファも知っている様子だった。一体、何だろうか。まるで誰も彼もがそれには触れてはいけない禁忌のように扱っていた。
息を吐き、息を整える。
気が付けば観客たちは解散していた。
残ったのはラルドル、カルファ、そしてシャスだった。
「ジェイドちん、凄いね。あれどうやったの? 短距離転移? あ、でも人間だから魔法使えないんだよね?」
「ああ、天翔? あれはそうだね……あれこそが人間の種族特性かもしれない。天翔以外もあるんだけど、僕たち人間は魔法が使えない代わりに、体内の魔力を制御して身体強化をするんだ。まあ、天翔の場合は地面を蹴るときに魔力を放出して加速を得るんだけどね。それにあの使い方は本来の使い方からはズレてるんだけど」
「うむ。あの技があり、儂を圧倒したからこそ、ジェイド・カリュスを認めておるんじゃ」
「圧倒って……よく言うよ……」
ジェイドは、入寮初日からラルドルと一戦交えている。
理由は簡単だった。暇つぶしがなにもなくヒマだったラルドルが、ジェイドを呼び出して手合わせという名目で戦うことになった。
最初はジェイドは乗り気でなかったが、ラルドルの一撃一撃に本気の殺意や戦意が込められており、それに触発されて、天翔などいくつかの技を使うことになった。
――結局、ラルドルの勝ちだったっけ。
今だから笑えるが、拳を交えてるときは油断したら、死ぬんじゃないかという緊張感があった。さすがは竜人族だと心底思った。
「シャス。なんで殴られた? あの状況を回避できたはずだろ」
彼女は右手で左腕をさすりながら、興味なさそうに答えた。
「……レイリーの魔法術式を指摘したのは悪いと思っていない。それに放っておけば、彼も気が済むでしょ」
彼女の態度はまるで、私には関わらないでくださいと言っているようだった。
シャスはジェイドから視線を外して踵を返した。
「……なんだよそれ」
去って行く小さな背中を、ジェイドは釈然としない気持ちで見つめていた。
昼間の騒動以降、レイリーとライラは授業に姿を現さなかった。騒ぎを起こしたとしてジェイドは担任のマリオンに怒られ、どうにか一日が終わった。ラルドルは学院街へ食事にいき、カルファはギルドの仕事だ。残ったジェイドは図書館に来ていた。
図書館は、学院本館から徒歩で十分ほどの距離だ。図書館の大きさは校舎に負けず劣らずだ。だからなにも知らないければ、こちらを学院校舎と言われても疑いはしないだろう。東棟と西棟の二つで構成され四階建ての本館と、別棟の大きく二つで構成されている。その広さに比例するように蔵書数も多く、数はおよそ二十万冊。本好きには歓迎されるが、これだけの蔵書数となると、デメリットもある。
「えっと、ここからずっと魔法学?」
本館東棟二階の一角、魔法学のコーナーを見て、ジェイドは項垂れた。ジェイドが立っている書架から反対側までの一列全てが魔法学に該当する。
「……これだけ本があるのは凄く嬉しいけど、探し出すのに苦労するな」
ジェイドが探しているのは、魔法学の基礎理論書数冊とレポートに役立ちそうな本だった。いくつかの本を手にとっては、ぱらぱらと捲っていくがなかなか納得のいくものに辿りつけない。内容としては非常に興味深いが、レポートの課題とは無関係ものばかりだ。
「はぁー、これでもない」
手に取った本を戻して大きく溜息を吐いた。
「図書館の中では静かにしてくれないかな? ジェイド・カリュス」
ジェイドの右手側から声がした。視線を移すと銀髪の女の子がいた。この女の子には見覚えがあった。
「覚えているかな? まあ、一日ぶりというところだが」
入学式の時に大講堂までの道を教えてくれた人だ。二度目の対面だが、やはり十代前後の女の子に見えて仕方がない。そんなことを口にしたら、また呆れられることがわかっているため当然口に出さない。
「昨日はありがとうございました。あのままだったら、入学式に出ることもできませんでしたよ」
「それはよかった。ところで何を探している?」
彼女はジェイドが左脇に抱えている本に視線を向けると、何かに納得したように頷いた。
「魔法学の本だったら、そうだな……ここから二つ目の書架の上から三段目の左から十七冊めあたりがいいだろう。他には――。マリオンの授業ならあれも必要か」
次々と必要な本をピックアップしていく。ジェイドは彼女が指示した本を手にしてはめくり内容を確認する。その内容は確かに自分が求めていたものだ。
「一年の課題ならそのあたりがあれば充分だろうな」
「ありがとございます。えっと……」
「ああ、そうか。すまない、自己紹介がまだだったか。妾はこの図書館の館長をやっているヴァンだ。気軽にヴァンちゃんと呼んでくれて構わないぞ。勇者の息子くん」
「えっと、ヴァンちゃん?」
「誰が婆ちゃんだ!!」
ヴァンがジェイドの頬を叩いた。
快音が響いた。
突然のことに痛みよりも驚き戸惑ってしまった。
「ええ! ちゃんとヴァンちゃんっていいましたよ!?」
「む? そうか、すまんすまん」
「そ、そうですか……じゃあ、僕は失礼しますね。レポートやらないといけないので」
ヴァンが見つけてくれた本を持ち直して、歩き出そうとしたところで呼び止められた。
「レポートで忙しいところで悪いが、今日の夜空いているか?」
「……えっとだからレポートが……」
「空いているか?」
「……空いてます」
「よろしい。なら、今夜、そうだな、図書館の中庭にきてくれ。妾と友人のちょっとしたお茶会をしてるからきてくれ」
「はあ……」
結局押し切られてしまい、曖昧に返事をした。
「そんなに困った顔をするな。別に君をとって喰おうというわけではない」
夜空に月が浮かんでいる。
青い月だ。人間界で見る月よりも幾分か大きく見える。天界、魔界、人間界、それぞれにおいて違いがわかるのは、種族や文化の違いを除けば月だ。人間界では黄色がかった月が空に浮かんでいる。しかし、魔界では今ジェイドの頭上にあるように青い月が浮かんでいる。
魔法学のレポートを半分ほど終えたところで寮を抜け出して、図書館までやってきた。ヴァンが指定した中庭を目指していた。図書館を抜けると、声が聞こえた。距離が離れているせいもあって、ハッキリとは聞こえない。
「――ベルモット――と――だって?」
「――なにも――が勝手に――」
「――お前は――ないのか?」
「――思わないわ――」
一つはヴァンのものだろうか、もう一つは誰のものだろうか?
疑問を持ちながら、話し声のする方へ足を進めた。
「ヴァンちゃん……えっと、シャス?」
意外な人物がいたことに驚いた。
ヴァンに誘われてきてみたら、まさかシャスがいるとはジェイドも思っていなかった。昼間の件以来、シャスとは話していない。シャスはジェイドの顔を見ると驚きと戸惑いが同居した表情を浮かべた。そしてヴァンの方を見た。
「ヴァンちゃん、聞いてないわ!」
抗議を受けたヴァンは一瞬顔をしかめたが、彼女の声を無視した。
「ジェイド、君は空いてる場所に座ってくれ。シャス、聞いてないも何も言ってないのさ」
テーブルを挟んで対面で座っているシャスとヴァンの間に座るような形になる。空のティーカップに、ヴァンが温かな紅茶を注ぐ。
「えっと、シャス、レイリーに叩かれた頬は大丈夫?」
「……」
問いかけには答えたもらえなかった。
バン! と音を立て、テーブルを叩いて、シャスが立ち上がった。
「ジェイド・カリュス、今日のことはお礼をいいます。ありがとうございました、ケガのことも大丈夫です。失礼します」
怒鳴り声ではなかったが、深く静かにシャスが怒っているのがわかった。ジェイドの返事を聞かずに彼女は歩き出してしまった。
「お、おい! あー、いっちゃった……」
「放っておけ」
「楽しそうですね」
「そうか? ああ、そうかも知れないな。アレがああいう感情を表に出すのはというのは、非常に珍しいからな」
「というより、僕、嫌われてません?」
「あれは照れてるだけだよ」
とてもそうは思えないのだが、ヴァンはただただ楽しそうに笑うだけだった。
「ヴァンちゃんとシャスって仲よさそうですよね。二人はどういう知り合いなんですか?」
ふむ。とジェイドの疑問に頷いたヴァンは、空へ、月へと目を向けた。
「妾がシャスの父親ヴラドと千年の付き合いというのもある。シャスと趣味が同じでな、こうやって月を眺めながら紅茶を飲んでいるのさ」
「ちょっと待って下さい」
思わずジェイドが止めに入った。今、ヴァンはなんといった? 千年? いや、それは三界大戦が始まるよりも遥か昔じゃないか。長寿と呼ばれているエルフや、竜の血を引く竜人ならまだそれだけ長く生きているのも理解できる。しかし、ヴァンはどうだ? 外見だけで言えば、人間の十歳にも見えない。エルフの特徴である尖った耳は見えない、かといって竜人と言われてもそんな気はしない。だから、疑問を口にした。
「ヴァンちゃん、アナタは一体……」
「なに、大したことないさ。妾はただのしがない真祖。戦うことに疲れて、今はこうして学院の図書館館長兼魔導書学の教師をやってるだけだ」
「真祖って……」
魔族の種族というのは百近くある。その中で最強種は大きく三つある。一つは、ラルドルの竜人族、もう一つは竜人族の祖である竜種、そして真祖だ。
夜の支配者、月の眷属と呼ばれるのが真祖だ。真祖は相手の血を吸うことで対象者を吸血鬼へと変え、従者にする力を持っている。そしてなによりも月の加護を受けているかのように、月の出ている夜であれば、魔力が数倍に跳ね上がり、殺すことができないと言われている。
「なんなら血を吸ってやろうか? オズマの息子を従者にするとはなかなかに得難い優越感だろうな。安心しろ、たまにはおまえの身体を楽しんでやる」
挑発するように笑い、口の端から牙が覗いている。ジェイドは彼女の笑顔に身震いを覚えて、慌てて首を左右に振った。
「ヴァンちゃんは……、オズマのことを知ってるんですか?」
「知ってるも何も七日七晩戦い続けた仲さ。あの戦いはあまりに情熱的で、それでいてとても心地良いものだった。あれほど血湧き肉躍るものはないだろうな」
彼女は懐かしむような声音でつぶやいて、ティーカップに口づけた。
「君はなぜオズマが魔王や神と渡り合えたか知っているかい?」
「……オズマが女神と人間の子であり、七曜の神剣を使えたからです」
「間違ってはいない。オズマはただ自分の意志を貫いただけだよ。――さて、君はなぜ魔王になるのかな?」
いつか誰かに聞かれるだろうと思っていた質問だった。
魔族や天使が多い学院において、人間族、しかも先の大戦の勇者の息子がなぜ魔王を目指すのか。誰もが抱く疑問だろう。
ジェイド自身に隠すつもりは全くない。
「きっと歪んでると思いますよ?」
自分で自覚があるのがまだ救いだと思っている。
「ふん。魔族なんてものは歪んでるものばかりだ。多少のことでは動じぬさ」
「僕が魔王になりたいのは、オズマを探したいからです。父は、オズマは、十年前に姿を消したんです。何も告げずに消えた、当然なんの手がかりもない」
「……オズマが消えた?」
ヴァンは信じられないという表情だ。ティーカップを持つ手が震えている。彼女の瞳を見つめて頷いた。
オズマが自分に七曜の神剣を残して消えたあの日のことは今でもハッキリと覚えている。
雨が降っている日だった。
学校から帰宅すると、オズマが灯りもつけずにリビングにいた。ジェイドの帰宅を確認すると、
『あとは頼む』
その一言と七曜の神剣を置いて出て行ってしまった。慌ててオズマの後を追ったが既に姿はなかった。当時入院していた母アリスに事情を説明したが、母は驚きもせずに、
『そう……』
と納得してしまった。何かを知っているのかも知れない。でも、母はオズマがいなくなったことについて何も話してくれなかった。
あれから十年経った今でもオズマの言葉が何を指して言ったのかわからない。
残された七曜の神剣は、ジェイドが引き継いだ。
神剣であるため適合者が必要だが、オズマと同様に女神の血が流れている自分にはその資格があった。
今、七曜の神剣はジェイドが受け継ぎ、魔法術式によって体内に保管している。
神剣を自分に残して消えてしまったオズマのことがわからなかった。だからか、自分がオズマに会ってあの日、なぜ消えたのか問いたいと思い始めた。
幼いながらどうやってオズマを探すかを考えた。そして至ったのは、周りから歪んでいると思われる方法だった。勇者が勇者であるならば、彼が役割を全うするに値する魔王がいれば、再び戦うことになるだろうと考えた。だから辿り着いた方法は、ジェイド自身が魔王になることだった。
「だから、僕は魔王になって、勇者である父親に倒されたいんです」
改めて言葉にして、自分が歪んでいると思う。
「ククク、本当にどうかしているな。なんだお前は親に倒されるために魔王になるのか」
ヴァンの言うとおりだ。自分はそのために魔王になる。
「ええ。だって勇者が勇者であるためには、相応の敵が必要でしょ。だから、僕は他の誰かではなく、僕が魔王になることを選んだんです」
「あいつが出てくるとは限らないぞ? そして魔王になることの代償はわかっているのか? いや、わかっているからこのクラレス学院に来たのか」
「覚悟はあります。魔王になることは人間と対立することになるかもしれない。けど、そうなったらオズマは出てきますよ。オズマは消える前まで、勇者であろうとしていましたから」
「なるほど。いいな、お前のその目標、いや夢は。歪んではいるが、自分の為である。シャスに見習わせたいよ」
「彼女の目的は違うんですか?」
「うーむ。それの回答は持っている。だが、そうだな、君が答えを見つけた方が良いだろうな」
「え?」
「こういう人の秘密というのは人から聞くよりも自分で確かめた方がいいということだよ」
●
シャス・サルミニアは月下を寮へと歩いていた。自分が魔神族だからか、それとも魔界に生まれたからか、昔から月光を浴びるのが好きだった。
「思わず帰って来ちゃった……」
あの場所に彼が来ると思わなかった。ヴァンからなにも聞いていなかった。自分は彼が嫌いなのだろうか?
――どうなんだろう?
ジェイド・カリュス、オズマの息子、父を打ち負かした人の息子、クラスメイト、魔王を目指すもの……どうして彼は魔王になろうと思ったのだろうか。
わからない。でも興味がある。
自分はどうだろう?
自分が魔王を目指す根本的な理由はなんだろうか。本来自分は、王位継承権で言えば第二位だ。クラレス学院がなければ、魔王になるチャンスはなかっただろう。本来は王位継承権第一位であるあの人が魔王になるべきだ。
「アイビス……」
悲しそうにその名前を口にした。
自分が魔王になるのは、父ヴラドが果たせなかった目的を果たすためであり、魔王にふさわしい人の代わりだ。
ああ、そうか。
シャスは気がついた。
「私は代わりになりたいんだ」
贖罪のために。
償うために。
息を吐いて、夜気で肺を満たす。もう一度繰り返した。
目蓋を閉じる。
浮かぶのは、あの日の金色の草原だ。自分が魔王になろうと決意した日、自分がもっとも泣いた日、自分が咎を背負った日、始まりの日だ。シャスにとって大事な日だ。なのに、シャス自身の記憶が曖昧だ。
黄金の草原を彼女と二人で走り回っていた。それは覚えている。だが、決定的な瞬間の前後の記憶が全くない。
気がついたら、自分の傍らにアイビス・サルミニア――自分の姉が血を流して倒れていた。何がおこったのか、何があったのかわからない。でも、自分の両手が真っ赤に染まっていた。
だから自分がやったんだと思った。
二つ年上の彼女が王位継承権第一位であり、本来魔王になるべき人物だった。だけど、彼女はあれ以来目を開けることなく今も眠り続けている。彼女のケガは治っている、それでも目が覚めない。いつ目覚めるのかは誰も知らない。
「そして、私は同族殺しと呼ばれた」
弁明するつもりはない。
あの日、遭ったことは父とヴァンには打ち明けている。何があったのか明確に覚えていない。気が付いたら自分の手が真っ赤に染まっていた。
それが事実だった。
真実はわからない。それでもあっという間に魔界では、シャスが同族殺しであるという噂が広がった。周りの目が辛かった。父とヴァンの二人だけは真実は別にあると考えてシャスを信じてくれた。この二人が信じてくれるなら、自分は周りからどう思われても構わない。だから、自分が同族殺しであると思われていることを受け入れた。
自分は自分がしたいことを貫き通したい。
魔王になることは容易なことじゃない。
アイビスが眠ってしまった日から、シャスは休むことなく魔王になるために必要なことをしてきた。
基礎勉強、魔法の習得、武術の修練、どれだって続けてきた。目的のための努力は欠かしていない。辛くとも泣きたくとも、人前ではそんなものは見せなかった。泣き言をいうのは一人の時だけだ。
その結果の一つが、学院の首席合格だった。しかし、これに満足するつもりはない。自分が目指すのはその先なのだから。
ふと空を見上げた。
ああ、月が大きい。
確か来週、オリエンテーリングの日あたりは満月だったかな。
満月になれば、魔族は体内魔力が最大活性する。人狼族や、ヴァンのような真祖や吸血鬼のように夜の祝福を受けた種族にとっては最高だろう。彼らでなくとも魔族は、日中よりも夜の方が活性化し、力が発揮できる。
「ジェイド・カリュス……」
なぜあなたは魔王になろうと思うの? 私にはやっぱりわからない。彼が勇者を継がずに魔王になろうと思ったその理由に興味がある。
●
クラレス学院学生寮の一室。
そこには一組の男女がいた。
女性の方はベッドに腰掛けて男の動向を見守っていた。
彼が何をしようとただ黙っているだけだ。
彼女――ライラ・スタンリーは背中の羽根を少し広げた。
「ああ、ムカつく。どうしてこの俺が!」
周囲のものに当たり散らす自分の主レイリー・ベルモットを静かに見ていた。
もうどのぐらいになるだろうか。
主が立腹な理由は理解している。
勇者の息子と魔王の娘だ。
昼の一件以来、レイリーのイライラは時間と共に増加している。ライラが知る限り、レイリー・ベルモットはベルモット家の英才教育を受けてきた。そのため彼としても自分の実力に自信があったはずだ。それに泥を塗る形になったのだ。
今は物に当たり散らしているが、その前はライラが標的だった。証拠にライラの右頬は赤く腫れ上がっている。レイリーが癇癪を起こすのは今となっては珍しくない。今回の件について言えば、頬が腫れる程度で済んでむしろ幸運だ。ずいぶん前には、床に押しつけられて背中の羽根を毟り取られたこともある。
レイリーにそこまでされても忠義を持つのはライラの家が、代々ベルモット家に仕えているからだ。物心が付いた頃からレイリーに尽くすように教えられ、そして今に至る。今更、自分の存在価値に疑問など持たない。
「おい、ライラ。なにかないのか」
「それはレイリー様が、あの二人を懲らしめる手段ですか?」
「そうだよ。このままじゃ、俺の気が収まらない」
ライラは主の要望を満たせることができる事柄を思考する。
今、レイリーが直面している問題を改めて整理してみることにした。
自分のプライドが傷ついた。
懲らしめる手段が欲しい。
つまり、相手を消したい。
なるほど、ならばこういう状況に陥ったとき自分ならどうするだろうか?
そう考えれば、答えは簡単だ。
「闇討ちとかどうですか?」
「そんな卑怯な真似できるか」
却下だった。
闇討ちは卑怯。そういう発想はなかった。
他の方法。
今日と同じ方法で、再戦を申し込んでもジェイドには勝てる見込みはない。魔法においてもシャスの能力を超えることはできない。
他に何かあるだろうか。
ライラは思いついて再度、提案してみた。
「そうですね……でしたら、魔導書を当たってみてはどうですか?」
確か学院図書館には準一級の魔導書が蔵書されていたはずだ。その中にはもしかしたらレイリーが気に入るものがあるかもしれない。
魔導書は過去の知識の蓄積はもちろん、魔法術式と異なり、儀式により効力を発揮するものが多数ある。魔法術式を構築するよりはるかに手間がかかるが、その分強大な効果を得ることができる。
「魔導書か……」
レイリーが顎に手を当てて何か考え始めた。ライラからすれば、レイリーになにかしらの手段を提示できれば、彼が満足できると考えていた。実際、魔導書を読み解いていけば、レイリーが気に入るものあるだろう。
「よし、ライラ、明日図書館へいくぞ。魔導書の中から俺が気に入りそうなものを探し出す」
「わかりました」
彼の決定にただ従う。それが自分の使命だ。




