第一章「勇者の息子と魔王の娘」
「はぁ、はぁ、まったく初日から!」
ジェイドはクラレス学院の制服に身を包んで緩い坂を駆け上っていく。息を切らせながら周囲を確認するが、人影は全くない。その事実がジェイドを更に焦らせた。
風が吹いた。舗装された通学路の両脇に植えられた木々が揺らめいて音を立てたが、ジェイドに木が奏でる音を聴いている余裕はない。
「入学式から遅刻はまずい。ラルドルのやつ、起こしてくれてもいいじゃないか!」
学生寮で隣の部屋になった同級生に文句を吐きながら走る。
一ヶ月前の入学試験に合格したジェイドは、今日からクラレス学院の生徒になった。だが、その晴れの日に寝坊してしまったのはまずかった。学生寮から学院まではおよそ二十分、入学式が始まるまであと十分だ。寮を出てから五分は走り続けている。
――これは間に合わないな。
結果がわかっていても、ジェイドは走ることを止めない。しかし、一度も立ち止まることなく走り続けた足には、徐々に疲労が蓄積されてきている。額を流れる汗は、頬を伝い流れ落ちていく。肌に張り付くYシャツの感触は嫌悪を生む。それでもジェイドは走った。
そのかいもあってどうにか、坂道を登りきり、校門が見えてきた。校門に設置された『入学式』と書かれ装飾された立て札の脇を一気に駆け抜ける。
学院の校舎は古城を改装したものであるため、敷地面積は広い。つまり、校門に辿り着いたからといって、すぐに学院校舎に辿りつけるわけではないことを意味する。
「ああもう、無駄に広い!」
校門から校舎まで目算であと五百メートルといったところだろう。その距離にめげそうになるが、ジェイドは諦めなかった。しかし、ジェイドがやっと校内に辿りついたところで、無情にも鐘が鳴った。それが入学式開始を告げるものだと、ジェイドでもわかった。
「やっぱり間に合わなかった」
間に合わなかったとはいえ、入学式をサボるわけにはいかない。しかし、重大な問題に直面した。
「……あれ? 入学式をやってる大講堂ってどこだ?」
大講堂へは行ったことはないが、学院の校舎地図はおぼろげに覚えている。だが、ハッキリとしない。誰かに道を聞こうにも人影がないため、諦めて記憶を頼りに歩き出した。
しかし、それが良くなかった。
「迷子になった……」
歩き回った結果、ジェイドは自分がどこにいるのかすらわからなくなった。それでも歩き続けて、大講堂があるだろうと自分が思う方向へ向かう。
古城をベースにして校舎としているためか、自分の居場所がよくわからなくなっていた。しかし、右手側は特別教室なのか、もしかしたら空き教室かもしれないが、人の気配がしないため、道を尋ねることもできない。
だから記憶を頼りに歩き続けることにした。
ガラッ。
ドアが開く音がした。
学生寮から学院まで走り続けて体力が無かったこと、大講堂がわからなかったことで余裕がなかったこともあるだろう。ジェイドは右のドアを開けて出てきた女生徒に気が付かなかった。
「きゃっ」
「おっと」
だから、女生徒との衝突が回避できなかった。
ジェイドはどうにかバランスを保って転倒を免れた。しかし、相手は姿勢を立て直すことができなかった。何かを掴もうと咄嗟に伸ばされた手が、ジェイドの制服のネクタイを掴んだ。その行為が不意打ちだった。
結果は簡単だった。相手に巻き込まれる形でジェイドも転倒した。一瞬だけ意識が途切れたが、すぐに頭を振って身体を起こそうとした。
「いてぇ……。すみません、大丈夫ですか?」
「あ、あの……」
相手の女性の声が近くに聞こえた。おかしい。そもそも自分はどこに倒れているのだろうか。床に倒れたとしても、床から感じられる無機質な冷たさがない。それどころか、温かささえあり、右手に柔らかい感触がする。
「あの……退いてもらえませんか?」
徐々に状況がわかってきた。
ジェイドが転倒した際に女生徒の上に覆い被さる形になってしまったのだ。先ほどから自分の右手に伝わってくる感触は、彼女の胸だった。理解したからこそ、ジェイドは慌てて飛び退いた。
「うわぁっ、ホントにすみません」
女生徒を立ち上がらせようと、手を伸ばした。
「私が不注意だったからいけないんですよね、ごめんなさい」
ジェイドの手を取り、立ち上がった女生徒はひたすらに謝ってきた。
後ろ髪は腰ほどの長さ、前髪は眉の上で切り揃えられている。彼女を包むドレスは、髪に合わせたのか黒色だ。黒一色の中で金色の瞳がせわしなく動き、戸惑っているようだった。一見すれば人間に見える彼女だが、その額には小さな突起――角が二つある。それが彼女が人間ではないことを示していた。
「いや、こちらこそすみません」
「え、あ、ごめんなさい。私、急ぐので」
ペコペコと何度も頭を下げて走り去ってしまった。
「あ、彼女に大講堂までの行き方を聞けばよかったんじゃ……」
ジェイドがそのことに気が付いても既に後の祭りだった。考えが至らない自分に呆れながら、どうしたものかと思案していると、背中に何かがぶつかる感触がした。
直後、バサバサとモノが落ちる音がした。
――今日はもう次から次へと……。
内心で自分の不運に呆れながら振り返った。
「……そんなところに突っ立っているな。せっかく妾が重たい本をここまで運んできたのに嫌がらせか?」
今度は本を抱えた女の子が立っていた。彼女の銀色の髪を肩口で揃っており、翡翠色の瞳は半目で抗議の意志を宿してジェイドを見つめている。
彼女の足元を見ると、十冊近くの本が散らばっていた。
「ああ、ごめん! えっと……」
「いいから妾が抱えている本の上に重ねてくれないか?」
謝罪と同時にジェイドはしゃがみ込み、本を拾い集める。
「え、でも重いよ? 子供の君じゃ――」
拾い集めた本を抱えながら女の子に聞いたが、彼女は不機嫌な声色で反論してきた。
「誰が子供か。確かに人間族で言えば、十歳前後の女性の外見をしてるかもしれないが、妾は君の何倍も生きている」
「え? え!?」
「人を外見で判断するとはなんと愚かな」
あまりにも残念だと思ったらしく、呆れながら首を振られてしまった。
ジェイドの胸の高さほどの身長しかないため子供に見えるが、彼女に言われてみれば纏う雰囲気に子供らしさはない。
驚きながらも彼女が持っている本の上にジェイドが拾い集めた本を載せた。本一冊あたりの厚さも辞書並にあるため積み重ねるとすぐに彼女の身長を超えたが器用にバランスを整えると、ふむ、と満足したようで本の塔の横から顔を見せた。
「助かった、ありがと。で、君は何をしているのか?」
問われた。だから、ジェイドは自分の事情を説明した。
「……えっと、入学式で……まあ、もう遅刻なんですけど、大講堂への道がわからなくて」
笑って誤魔化しながら頭を掻いた。
ジェイドの言い分に彼女は呆れながらも顎でジェイドの後方を示した。
「大講堂ならこのまままっすぐいって、階段を昇れば扉が見えるからわかるだろう」
頭の中にあった地図を頼りにきたが、結果としてだいぶ目的地に近づいてたようだ。そのことに喜んでいいのかはわからないが、どこか苦労が報われたような気がした。
「ありがとうございます」
ジェイドが走り出そうと踏み出したとき、
「ああ、そうだ。君、名前は?」
「ジェイド・カリュスです」
「そうか、ジェイド。覚えておくよ、また会うこともあるだろう。さあ、入学式へ急ぎな」
「はい、ありがとうございます」
彼女へお礼を述べるとジェイドは、大講堂へと走った。大講堂につくと、教師が静かに扉を開けてくれた。
大講堂の中は緊張感に包まれていた。中央には今日の主役である新入生たちが座っている。その後方にいるのは在校生だろう。右手側はジェイドが面接試験を受けたときの巨人族と悪魔族の姿あるため教員だろう。左手側は来賓といったところだろう。
ジェイドは物音をたてないように身を小さくしゆっくりと空席にたどり着き座った。席に着くと、隣の男子生徒がにやけながら小声で話しかけてきた。
聞き慣れた声に内心でうんざりとした。
「ジェイドよ、遅かったのう」
「ラルドル、おまえなー、起こしてくれてもいいだろ」
逆立った赤髪が印象的な男子生徒は竜人族のラルドルだ。外見は運動が得意そうな同世代の青年に見える。初めて会ったとき、ジェイドもそう思った。しかし、彼は年齢で言えば、ジェイドよりも百歳も年上だ。それでも竜人族の中では未成年の扱いになるらしい。
「儂もぎりぎりだったんじゃ、すまんすまん。次は新入生総代の挨拶じゃのう。人間族のおぬしは、ちゃんと総代の顔を覚えておけ」
ラルドルが言い終えるのとほぼ同時に号令がかかり、新入生全員が起立した。気持ちを切り替えて、緊張感を高める。改めて周囲をみると、天使族、人狼族、夢魔族、エルフ族、悪魔族などと多種多様な種族がここにいるのがわかる。
自分も含めて、全生徒の目的は一つ。魔王になることだ。
隣で笑っているラルドルも、将来自分が打ち破らなければならないライバルになる。
「新入生代表挨拶、シャス・サルミニア」
「はい」
小さくしかし凛と通る声がした。呼ばれた女子生徒は新入生の列から抜け出し、中央の通路を歩いていく。
――あの子は、さっきの。
先ほどぶつかったドレスの女生徒だった。ピンと背筋を伸ばし、前方にある壇上へ、しっかりとした足どりで向かっている。新入生代表……つまり、今回入学した全六十六人いや、全受験生の中で、もっとも優秀な成績で合格したことになる。
壇上へ続く階段の前で、一度足を止めて、歩き出した。最初の一段へと踏み出したときにそれは起きた。
ずたん!
盛大にシャスがこけた。どうやらドレスの裾を踏んづけて前方に倒れ、額を階段の三段目にぶつけ、ずるずると滑った。
大講堂内が静まる。厳粛な式、特有の緊張感とは、別の緊張感が広がっていく。シャスがこける様を目の当たりにしただろう前方の生徒たちからはクスクスと笑い声が漏れる。それは徐々に後方へと伝搬し、騒がしさへと変化する。
「あのシャス・サルミニアが……こんなミスをするとはのう……」
「ん? ラルドルは彼女を知ってるのか?」
周囲と同じく笑いをこらえようとしている竜人族に聞く。
答えは頷きの前振りをもって、
「ああ、ジェイドは知らぬか。彼女はな――」
「静粛に!」
ラルドルが言葉の続きを紡ぐよりも先に、教師の一声が入った。その効果があり、水を打ったように静まり返った。シャスは立ち上がり、ドレスの埃をはたき落として、咳払い一つして壇上へと無事にあがっていく。
新入生代表シャス・サルミニアによる挨拶が始まった。
彼女の言葉に耳を傾け、ジェイドは自分の意志を再び固めた。
入学式はジェイドの遅刻とシャスの転倒事件を除けば、つつがなく終了した。その後、新入生全六十六人は、教室へ移動した。教室は正面に黒板があり、そこから十列に分けられ机が並んでいる。ジェイドはラルドルの隣の席を選んで座った。
黒板の前に黒い翼を持った女性教師が立った。
女性教師は全員の顔を見渡して、
「あー、諸君。まずは入学おめでとう。私が君たちの担任のマリオンだ。種族はご覧のように、堕天使族だ。天使族の連中は覚悟しろよ。お前らは絶対に許さない」
キッと睨み付けるマリオンに、天使族の生徒達がブルッと身を震わせた。
「今更説明するまでもないが、このクラレス学院の目的は一つ。次期魔王の育成だ。魔王様が、三界大戦のあとに後継者を選ぶために設立した。設立以来、今日まで学院が続いているということは、まだ後継者が見つかっていないということだ。仮に三年後魔王になれなくても落胆することはない。ここで得た経験は必ず役に立つだろう」
マリオンが一息吐いて、
「さて、ここに集まった六十六人は、これから三年間苦楽をともにすることになる。中等部からの上がり組が半分、受験組が半分といった具合だ」
クラレス学院へ入学するには大きく二つある。一つはジェイドのように入学試験を突破すること。もう一つはラルドルもそうであったように中等部で進学試験をパスすることだ。
「初日ということもあるし、自己紹介といこうか。じゃあ、おまえからだ。前に出てこい」
指名された夢魔族の生徒が前に出てきた。桃色の髪が揺れ、制服の背中からは黒い羽根が出ている。彼女のように夢魔や天使、堕天使など背中に羽根が生えている種族向けの制服には、羽根を出すための穴が開いている。
黒板の前に立って、全開の笑顔、いや営業スマイルで自己紹介を始めた。
「はーい、みなさんこんにちわ。中等部上がり組は知ってるよね? カルファ・フェルナンドです。種族は夢魔、中等部に引き続いて、何でも屋をやるのでよろしくねー」
「カルファちゃーん!」
「カルファ、また仕事頼むわー」
中等部からの上がり組であろう生徒達からの声に、カルファは笑顔で応じながら自席へと戻っていく。
「カルファは相変わらずじゃのう。ジェイド、忠告はしておくが、アレには気をつけておけ」
「え?」
「悪い意味ではないんじゃが、カルファは金が絡むと何でもやるんじゃよ。普段はいいやつなんじゃがなー」
ラルドルが目を細めてるのを見て、ラルドルとカルファの間に、昔、何かあったのかと推測した。
そうこうしているうちに自己紹介は進んでいく。
今年入学した一年生は、六十六人。一人が一分で自己紹介したとしても全員が終えるまでにおよそ1時間かかる計算になる。それでもやっと半分が経過した。
「俺はレイリー・ベルモット。詳しい自己紹介は不要と思うが、してやるよ。四大貴族の一つベルモット家の次男だ。次期魔王の座は譲らない、俺はシャス・サルミニアには負けない」
名指しされたシャスにクラスの注目が集まる。彼女はレイリーの敵意剥き出しの視線に驚き、戸惑っているようだった。レイリーはシャスへの挑戦を残すと、自席に戻っていった。
自己紹介の番はシャスへ廻ってきた。彼女が立つと同時に教室内が騒がしくなった。レイリーの挑戦を受けて、彼女が何を話すのか、教室内の期待感が高まった。
「えっと、みなさん。初めまして、シャス・サルミニアです……。特に他にはないので以上です」
簡単な自己紹介が終わった。レイリーに対して何か反論するのかと思っていたクラスメイトたちは落胆した。ジェイドにとってそれはどうでもよかった。シャスの自己紹介では、ジェイドが浮かべていた疑問は解決しない。隣のラルドルを肘で突っついて、
「なあ、結局彼女は何者なんだ。入学式と今の自己紹介で、ざわつく理由がわからない」
「シャスはある意味でおぬしと同じじゃ」
「僕と同じ?」
「彼女、シャス・サルミニアは、ヴラド・サルミニアの娘なんじゃ」
「ん?」
ラルドルの説明を聞いてもジェイドは首を傾げた。
ヴラド・サルミニアの娘というのがどういった意味を持つのかわからない。そんなジェイドの心中を察したのかラルドルが説明を追加した。
「あー。そうか、人間のおぬしにはこういった方がわかるのかのう。シャスは魔王様の娘じゃ」
「……なっ!」
魔王に娘がいること自体初耳だった。しかし、なるほど確かに自分と同じだということは納得した。だからだろうか、気がつけば自席に戻るシャスのことを目で追っていた。
「シャス様、レイリー様がご迷惑をおかけしました」
謝罪とともに前に立ったのは侍女服に身を包んだ天使族の女生徒だった。侍女のたしなみと言わんばかりにホウキを左手に携えている。
長く柔らかそうな金髪が揺れる。正面を見る彼女の瞳は、細目なのでハッキリと見ることができない。
「皆様初めまして、ライラ・スタンリーでございます。マリオン様が毛嫌いしている天使族であり、レイリー・ベルモット様の侍女でございます。以後、お見知りおきを」
優雅に一礼する天使に、男性陣は、
「おおお、メイド様だーー!」
「しかも天使だと!」
「さすがは四大貴族……天使族をメイドにしているとは」
驚きと称賛の声が上がった。ジェイドは溜息を吐いて、何気なくマリオンに視線を向けた。
「ほう、ライラ。貴様のことはよく覚えておこう。天使族様」
ギリギリと歯を食いしばりながら、ライラを睨み付けていた。マリオンはそれほどまでに天使族に恨みがあるのだろうか。
しかしライラは向けられた敵意など意に介さず、
「光栄です。堕天使族様」
ライラは席へ戻った。自己紹介は進み、ラルドルが終わったところで、ジェイドが前に立つことになった。
改めて教室を見渡した。様々な種族が自分に寄せる視線に、思わずこの場を立ち去りたくもなった。好意の視線は少なく、興味と敵意が入り交じっている。自分が勇者の息子であることからある程度は覚悟していたとはいえ、居心地が良いものではない。それでも最初が肝心だと思い、笑顔を作った。
「初めまして、ジェイド・カリュスです」
●
「え?」
小さな驚きの声はクラスメイトには聞かれていないだろう。彼女の声をかき消すように、教室内はざわめいているのだから。
シャス・サルミニアは彼の名前を聞いたときに、心が揺れたのがわかった。彼は入学式前に出会ったので顔は覚えていた。人間族がこの学院に来ること自体珍しかったため、印象的であったんだと思う。
口の中で彼の名前を反芻した。
――カリュス。人間の勇者と同じ名前。
勇者という三界大戦の英雄を父親に持っている人間。そういった点では、魔王の娘である。自分と似ているのかも知れない。
「見ての通りの人間族です。大したことはできませんが、三年間よろしくお願いします」
ごく簡単な彼の自己紹介も、後に続いたクラスメイトの声も耳に入らなかった。
「カリュス……? じゃあ、彼が勇者の?」
「オズマの?」
「……つまりこのクラスには勇者と魔王の子供がいるってこと?」
波及する声は教室を埋め尽くす。もはやジェイドを無視して肥大化する一方であった。そのざわめきもシャスには届かない。
勇者オズマ。
父であるヴラド・サルミニアを魔界へと退けた勇者の息子。そんな彼がどうして、魔王になろうとクラレス学院に入ったのだろうか?
自分は魔王の娘であり、そして……自分の罪を償うために魔王になる。そう決めた、そう決めて生きてきた。
だから、どんなことがあっても、魔王になる。
「あれが勇者の息子……」
竜人族の生徒と談笑している彼に視線を向ける。魔王になる上で超えなければならない存在になるだろうと、シャスは予感した。
「これで全員の自己紹介は終わりだ。このクラスには魔王の娘、四大貴族、そして勇者の息子、さまざまいる。しかし共通しているのは魔王になることだ。だから私はお前たちを等しく扱う。ああ、もちろん天使族は別だ。今日は簡単な説明のみで終わるものばかりだ。一週間後にはオリエンテーリングがある。そこでお前たち新入生の実力を図ることになるだろう。それが始まりだ」
マリオンは言葉を切って、教室を端から端まで、生徒一人一人の顔を見る。それはまるで生徒達の覚悟を確かめるように思えた。
――覚悟なんてもう出来ている。
あの日から、今日まで、そしてこれから先、シャス・サルミニアは魔王になるまでどんな困難があっても超えていく覚悟がある。
●
入学式ということもあって、今後の学院生活のガイダンスのみであったため、早めに寮に戻ることができたジェイドは、自室のベッドに倒れ込んで呻いていた。その様子をラルドルが椅子に座って眺めている。
クラレス学院は男女共に全寮制だ。そして同じ学生寮に住んでいる。とはいえ、東西の棟に別れており、男女が共用できるのは一階フロアに限られる。生徒に生活スペースとして与えられるワンルームには机とベッド、洋服ダンスが備え付けられている。決して広いとは言えないが、それでも学生生活を送るには充分だ。
「人間で、勇者の息子。天使族や魔族の視線が痛いんだよ」
「……そりゃあ、勇者の息子じゃしなー。興味と好奇心故じゃろうに」
「だけど、僕は僕だ」
ジェイドの言葉にラルドルは苦笑し、言葉を続けた。
「儂はそれを理解しておるが、他はどうじゃろうな。わかってると思うが、おぬしの父は魔族にとって最大の敵じゃ。天使にとっては神と対等に渡り合った人間、その息子となれば仕方ないところもあるんじゃよ」
父オズマの偉業は理解している。だからこそ辛いものがある。初対面の者は決まって、自分の後ろにあるオズマの偉業にしか興味がないのがほとんどだった。
ジェイド・カリュスの人生は、オズマという偉大な父の名声によって価値を失ったと言える。それこそ物心がついた頃からオズマのことを誇りに思っていた。世界を救った勇者、希代の英雄などさまざまな名称でオズマの功績は讃えられていた。子供心に父への憧れはあった。
しかし、あまりに大きく、強すぎる勇者という存在に、ジェイドは次第に押しつぶされていくことになる。勇者の息子、それだけでジェイドへの期待は年齢を重ねるたびに、加速度的に大きくなってきた。何でもかんでもあらゆる全てができて当たり前、できなければ勇者の息子のくせにと言われた。何をしても何を成しても、ジェイド・カリュスという人間を認めてもらえなかった。それでも自分は自分であるという想いは変えずにいた。オズマが自分の憧れであることに変わりはなかった。けれどいつかは超えたいという目標に変化していた。そうすることで自分の中で何かを見いだせると考えていた。
だから、周りの評価なんてどうでもよかった。
どうせ、勇者である父親しか見ていないのだから。
しかし、ラルドル=リーフェナ・エトスは違った。まだ、彼と出会って三日でしかないが、これまでジェイドが抱えていた想いを初対面で一蹴した。
――勇者の息子? ほう、じゃが、そんなことはどうでもよい。せっかくの出会いじゃ、よろしく頼むぞ。
彼にとっては何気ないことだったのかも知れない。しかし、ジェイドにとってラルドルの言葉はどれだけ有り難かったことか。
偉大な父と言えば、シャス・サルミニアはどうなんだろうか?
「でも、シャスだっているじゃないか」
魔王の娘である彼女も、自分と同じく注目されてもいいのではないか。
「……シャスはアレはおぬしとは真逆じゃよ。魔族の希望、天使たちの敵といったところじゃろう。それ以外もいろいろあるんじゃが……」
ラルドルは言葉を続けずにそこで切った。ジェイドは気になったが、追求することをやめた。ベッドから身体を起こして、窓の外に目を向けると太陽が沈み始め、夜が始まろうとしていた。
「もうすぐ初日が終わるなー」
「なにを言っておる。これからじゃよ。寮の門限まではあと五時間、どうせおぬしは儂以外友人がいないのじゃろ」
「……まあ」
「では街へと出るとするかの」
魔界は大きく五つに区分される。まずは四大陸と呼ばれる東西南北の大陸だ。そこを治めるのが魔王に認められ統治権を与えられた四大貴族だ。レイリーのベルモット家もこの統治権を得た四大貴族の一つである。魔王に認められるだけのことがあり、その実力は確かだ。
四大陸以外の大陸や島は魔王の統治下になる。このクラレス学院がある学院島も、魔王の統治下に含まれる。
この学院島はクラレス学院以外にも施設がある。それの集合体が学院街だ。学院街は島の南全域にわたる。元々はこれまでの卒業生がギルドを出し、住居を構えたことが始まりだ。そのおかげもあり学院島は、ある程度の経済を成り立たせている。
クラレス学院の下校時間が過ぎ、寮生たちの自由時間であるため、制服姿の生徒たちをよく見かける。学院の生徒たちを呼び込もうとしている飲食系ギルドのメンバーたちの声で街は活気づいている。そんな街の喧騒を聴きながら、ジェイドはラルドルの後について歩く。
彼に連れ出されてきたのはいいが、イマイチ目的がハッキリしない。
「街に出てきてどうするんだよ。飯でも食べるのか?」
時間的にもそろそろ晩ご飯にしてもいい頃合いだろう。
「うーむ、近いといえば近いのー」
ラルドルの返答はやはり要領を得ない。その態度にジェイドは歩みを速めて、ラルドルの隣に並んだ。
「なんだよ、はっきりしないな」
「そう怒るな」
ラルドルは笑い、ジェイドの背中を叩く。そんな彼に溜息を吐く。まだ学院街に慣れていないジェイドはラルドルについて歩いて行く。一軒の店の前で、ラルドルの足が止まった。どうやらここが目的地らしい。店の中からは笑い声が洩れてくる。入り口上部には悪魔の頭蓋をモチーフにした看板があり、『悪魔の鍋』と書かれている。
「今日は何というか儂ら中等部上がり組からの歓迎の意じゃ」
そう言ってラルドルは店のドアを開けた。
わっ! と店内に閉じこめられていた場の圧力とも呼べる騒々しさが、外へと逃げ出してきた。それらはざわめきや笑い声、雰囲気自体で構成されたものだ。あっという間にジェイドにまとわりつく。
「おそいんじゃないかなー、ラルドルー」
こちらに気がついた夢魔族――確か名前はカルファ――が手を振る。彼女は背中の羽根をパタパタと動かして、ジェイドの元へ来た。
「お、君が勇者ジュニアかー」
珍しそうにジェイドの顔を、いろいろな角度から覗き込む。青色の瞳がコロコロと表情を変える。そんな彼女に圧されるように、ジェイドはたじろいだ。
「ジェイドです。勇者ジュニアではないです」
「ほいほい、ごめんね。カルファだよ、よろしくね」
屈託のない笑顔とともに差し出された手を取り握手する。私服の彼女は夢魔という種族柄からか、胸元や太股などに露出が多い。だが、卑猥な印象を与えないのは、彼女の着こなしのおかげだろうか。
「ふーん、人間って初めてみたけど、なんかおいしそうだね」
「カルファよ、ジェイドが誤解するじゃろ」
「えー、勇者の息子でしょー。おいしそうじゃん? あ、別にジェイドちんを頭からパクッといくわけじゃないからねー」
「え? じゃあ、何を?」
疑問符を浮かべるジェイドをみて、カルファは最初きょとんとした表情になったが、すぐにいたずらを思いついたような笑みを浮かべた。
「体験した方が早いねー、ふっふっふー」
ジェイドが再度疑問を持つよりも早く、カルファが行動を起こした。握手したままの右手を引かれた。ジェイドはわずかにバランスを崩して、前のめりの形になった。
「ちょ……」
右手を離したカルファはジェイドの頭を両手で固定すると、その額に唇を寄せた。わずかな温かさと湿り気が額に残った。
「はい、これでマーキング完了っと」
「まったく程々にしておくのじゃぞ」
「な、なにするんですかーーー!」
「顔真っ赤にしてかわいいなー。ささ、中はいって」
何をされたのかイマイチ理解しきっていないジェイドと、カルファの行動に呆れているラルドルは彼女に背中を押されて店内に入っていく。
そこにはクラスメイトになったばかりの学院の生徒たちがいた。パッとみたところ全員いるわけではないが、八割ほどはいるという感じだ。彼らは店内のテーブルに置かれた料理や飲み物を飲食しながら談笑していた。
「さっきも言ったが中等部からの上がり組主催の親睦会じゃよ。半分ぐらいはわしら上がり組じゃが、これからの三年間を共にする編入組との仲も含めておかねばな」
「そういうこと。ジェイドちんはこっちこっち」
カルファに手を引かれ、宴の中心へと連れて行かれた。「なんだなんだ」とクラスメイトたちがざわついた。
カルファがパンパンと手を打つと、ジェイドとカルファに注目が集まった。
「はーい、注目。注目。シャスちんもレイリーもいないけど、ジェイドちんが来てくれたよー。はい拍手ー」
ぱちぱちと疎らな音が生まれる。うんうん、とカルファは満足そうに頷き、一方で戸惑うジェイド。彼を置いて、カルファは進行を続ける。
「自己紹介だけじゃ、ジェイドちんのことわからないよねー。というわけで、質問ターイム。あ、夢魔族にはご連絡、既にジェイドちんの夜はカルファが取っちゃったからー」
「抜け駆けずるいわよ、カルファー」
カルファと同じ夢魔族からは抗議の声があがった。だが、カルファは勝ち誇ったように、
「ふふん、早い者勝ちだもんねー」
「ちょっと待ってくれ。夜ってなんのこと!? というか、この流れはなに!?」
ジェイドだけ、やはり状況が理解できていない。彼の態度にカルファは目をぱちくりとさせ、小首を傾げた。
「え? 質問ターイムだけど?」
「いや、意味が……」
「ジェイド……あきらめろ」
苦笑顔のラルドルが、ジェイドを取り囲む輪の中から声をかけた。その声色からジェイドは諦めるしかなかった。あとは堰を切ったように、質問が押し寄せた。「好きな食べ物は?」「人間界ってどういうところ?」「勇者ってどうなんだ?」矢継ぎ早の質問に答えていく。
「あーもう、わけがわからんないよーー!」
宴の場にジェイドの訴えは通じなかった。
●
月下、クラレス学院敷地内の図書館の中庭に二つの影があった。それらはティーセットが用意されたテーブルを挟み、対面に座っている。
夜特有の静けさに僅かに学院北の森から木々や虫たちが奏でる音が染み渡るように広がっていた。
「お前は歓迎会にいかないのか?」
銀髪の女性が紅茶で満たされたティーカップを傾け、静かに喉を鳴らす。
「騒がしいところ嫌いだから……」
問われたシャス・サルミニアは、ティーカップを両手で包み込むように持ち、小さく頭を振った。
「クラスメイトと親睦を深めるのも大事なことだぞ」
「私はヴァンちゃんといる方が楽しいもの」
クラスメイトになったばっかりの人たちといるよりも、ヴァンと居た方が自分は楽しい。クラレス学院の図書館館長と教員を務めるヴァンとの付き合いはもう十年以上になる。元々、父とヴァンが親しい関係であったため、自分が幼いときから彼女を知っている。
ヴァンの趣味が読書と、こうして月の下でお茶を飲むことであったため、シャスもその影響を受けた。読書はシャスに魔法の知識を与えたし、お茶会はシャスに息抜きを与えた。
――十年……ね。
真祖たるヴァンは十年前から子供のような容姿は変わらない。だから、時折、月日の流れを忘れてしまう。もう十年になる。自分が魔王になろうと決意を固めたあの日から。
「それはとても嬉しいが、ほら、面白いやつもいたろ?」
「……? あ、ジェイド・カリュス?」
心当たりは彼しかいなかった。確か四大貴族の一角であるベルモット家の子息もいたが、さほど興味を惹かれたわけでもなかった。
シャスの回答にヴァンは悪戯な笑みを浮かべた。
「ほう、誰とはいっておらんが。なるほど、つまりシャスは彼が気になるか」
「……そういうのはずるいと思います」
「だが、面白いと思わないか? 勇者の息子である彼は人間界で生きていくには不便などないだろう。勇者オズマの功績で何不自由なく暮らしていけるはず。それなのになぜ魔王を目指すのか」
確かにそうなのだ。どうして、ジェイド・カリュスが魔王を目指すのか、それが全くわからない。その一点において、ジェイドという男子生徒はシャスに興味を持たせるには充分だった。
けど、自分が為すべき事は変わらない。
「魔王になるというなら、彼もわたしの敵です」
「ふむ。敵か……そう捉えるのは勝手だが、楽しむのも大事だぞ?」
「……えっと、わからないんです」
どうしたらこの状況が楽しめるのだろうか。
クラレス学院に入ったのは自分の夢を叶えるために必要だったからだ。魔王の娘だからといって、父は自分を魔王に指名しないだろう。そんなことをすればクラレス学院を作った目的から外れてしまう。
自分の娘であるシャスですら、父が抱く後継者の条件を満たなければ魔王に指名されない。他の魔族とは違うプレッシャーが自分にあることはわかっている。
魔王になれなければ、魔王の娘のくせに他の者に後継者の座を奪われたと揶揄されるだろう。だからこそ、この三年間はこれまで以上に努力していかなければならない。
ヴァンにはシャスが思い詰めているように映ったのか、柔らかな笑顔を作って言葉を掛けてきた。
「お前は少しまじめすぎる。いいか、たったの三年だ。ヴラドが作ったこの学院で、お前がクラスメイトと切磋琢磨できるのは。周りは最後にはライバルになるだろうが、楽しむことは必要だ」
「……楽しむ? ヴァンちゃんはずっとこの学院にいるけど楽しいの?」
ヴァンは月を見上げて、目を細めた。
「三界大戦の百年よりも楽しいさ。気ままに本を読み、片手間に仕事をし、夜はこうやって紅茶を飲む。ああ、楽しいさ」
どこか寂しげに笑った。時折、シャスに三界大戦のことを話してくれた。特にヴァンが昔オズマと戦ったときのことが印象的だった。ヴァンの話では七日七晩戦い続けたらしい。そのときのことを、ヴァンは本当に楽しそうに話してくれた。なのに、あの頃より今の方が楽しいという。
「どうして?」
「ん? どうかね。妾も千年以上生きているから、趣味嗜好も変わるさ。それに過去に想いを馳せて懐かしむよりも、今やこれからを楽しむ方がいいだろ」
「よくわからない」
「わかるときもくる」
そうなの? と疑問を浮かべたが口には出さず、シャスは首を傾げた。




