「石の上にも三年」て言うけどそんなにいたら餓死しちゃうよ。
てなわけで徳田家(今川家?)包囲網ができたのだった。織田・徳川・武田・北条・佐竹・伊達という超強豪が手を組んだわけだが、同時に彼に賛同するものもいた・・・・・・
ここは土佐の国(今の高知県)岡豊城・・・・・・
(盛親)「連絡です。駿河から三河の国東部までで徳田家が旗揚げしました。」
(元親)「よしっ、我らも徳田家の側につくぞ!」
そして、薩摩の国(今の鹿児島県)内城・・・・
(義弘)「兄者!」
(義久)「だからその呼び方止めっておい、位前の立ち位置見て気付かないか?」
(義弘)「何がです?」
(義久)「お前近すぎ!半尺有るか無いかの場所に座わられても困るだけだぞ!お前のボケ癖いい加減 直せよな!ところでなんだ?」
(義弘)「遠江を中心とした旧今川領で徳田家が旗揚げしました。長宗我部もそれに乗って同盟を組んだとか。それに対し、織田・徳川・武田・北条・佐竹・伊達が包囲網を敷いたそうです。我らも織田家に我らに付けとの書状を預かっています。どうするんですか。」
(義久)「・・・よしっ、徳田家につく、戦闘準備だ!」
ってな感じで日本国内の大名達がどちらかにつくことになった。その中でこの人だけは違かった。
(兼続)「武田家からの書状です。」
(謙信)「ふむふむ。なるほど、我らはどちらのもつかない、中立な立場を取る。」
こうして、完全二つに別れるまでわずか三週間しかかからなかった。こうしたなかで浪人や剣豪などが続々と徳田家の方に集まっていく中、宮本武蔵だけは包囲網側に付いた。そして、織田・徳川・武田・北条・佐竹・伊達・毛利・立花・竜造寺・大友等の包囲網同盟軍と、徳田・長宗我部・島津・里見・最上等の革命軍に別れたこととなった。