星の航路
暗闇に、一瞬、小さな点が光った。それは段々と強く、はっきりと、淡い光の明滅を繰り返すようになった。次第にその点は増殖し、和音を奏でるようにポロポロと光り出す。星だ。空を覆っていた雲が晴れ、夜という世界の中で静かにその姿を現す。この夜の世界を照らすのは、空の真ん中で一際強く輝く金色の月であった。
彼は天を仰いだ。そうして、そっと歌う。
『それは 今より昔の話
月明かりが 風の波 照らす
夜のこと』
満月の光が、彼の浮かんでいる海へ溶け込んでいくようだった。空と同じくらい黒く染まった海面に、無数の星と満月の光が映る。そこに北風が舞い降りて、僅かに波をたてるのだ。
出航の準備は万全だった。
「君は……やっぱりあの話を信じているんだね?」
呆れたようにそう言ったのは、一本の古びたクラシックギターだった。
ギターの声は、弱く掠れたものだった。六弦が全て切れてしまっているのだから、弱々しい声しか出せないのも仕方ない。
船の甲板に力無く倒れているギターは、星が騒いでいる空を見上げながらため息をついた。
「君は、ただの船に過ぎないんだよ。いや、もう船ですらない。主を亡くして、体も潮風で痛んでしまった……使い物にならない存在。そうだろう? 俺と一緒だ」
ギターは、自分を乗せている船へと声をかけた。波は穏やかで、船はゆらりゆらりと小さく揺れる。
「……そうなのかな」
そう答えた彼は、今はもう誰も乗せることのなくなった船だった。
彼は、少し寂しそうにしながら、それでもあの満月を見上げて笑っていた。空から降りてくる北風を、二本のマスト一杯に張られたセールをなびかせて感じる。長い時を風雨に打たれて過ごしてきたはずだが、それを肯うことができないくらい、彼のセールは光るほど映える白色を夜空へ放っていた。彼自身もそのことは以前から知っていたのだが、それでも、彼は今までそのセールで風を受けようとしなかった。彼には、一つ、信じて疑わないことがあったのだ。だからこそ、彼は今日という日を待ち続けて海に浮かんでいた。
船首から細長く突き出したボウスプリットのそのまた先に、彼は黄金に輝く月を見据えた。
「だけどね、キミ。今日の夜空をごらんよ」
彼に言われて、ギターもまた夜空を見上げてみる。寒さで清められた夜風に、月明かりがぼんやりと染み込んでいた。確かに幻想的だ、とギターは思う。
「でも、百年前の話なんだろう? 海に浮かんでいた船が、月明かりに導かれるように空へ飛び立ったというのは」
ギターが溜め息を吐くと、彼は苦笑するようにして小さく頷いた。
その話は、ギターにとってはただの伝説だった。百年前の冬の夜、満月の明かりが北風の波を照らしたその夜のこと……孤独な船の元へ無限の星が降り注ぎ、その船を空へと導いたのだという。彼はこの伝説を信じているのだ。百年に一度、北風が空から降りてくる満月の夜に、何かが起こると確信している。
彼は再度ギターの言葉に頷いて見せるが、それでも夜空から目を逸らさない。
「……キミは、何のために船が空へ飛び立ったと思う? それはね、分かりきったことなのさ」
彼は続ける。
「船はいつだって、旅をするために生きているんだよ。路がある限り、僕は進みたい。誰も見たことのない冒険をするんだ」
波が規則正しいリズムを刻み始めた。ど、ど、ど、ど、ど、ど。まるで鼓動のように彼へと寄せる波は、次第に強く飛沫をたてるようになる。
「だから、僕はここで百年も待ったんだ。そして今日、僕の目の前に、今までのどんな旅とも違う、新しい航路が開かれるんだよ」
彼の真剣な声に、ギターは一瞬言葉を失った。ギターが彼に出会ったのは十年ほど前だったが、少なくともその頃から、彼のこの情熱は何一つとして変わってはいない。
「どうして……どうしてそんなに自信満々な口気で、そんなに希望に満ちた声で……。君は、もう動くはずもない自分に、一体どんな力が残っていると思うんだい?」
すがるような声で、ギターは小さく呟いた。
六弦を失ったギターにとって、未だ自分の存在に希望を持っている彼のことが不思議で仕方なかった。彼の白いセールが沢山の風を抱いているのを、憎らしいような羨ましいような気持ちで見上げる。
「僕は船だからね」
「だから……行くのかい? 一人で、あの空へ?」
「一人じゃない。キミがいてくれるじゃないか。……そう、キミも行くべきなんだよ」
彼のセールは、百年ぶりに風を受けた。刺すような北風が三角のセールを押して、静かに輝く満月の方へと彼を動かす。ギターは、ただジッとその様子を眺めていることしかできなかった。
風は強く吹き抜けている。しかし辺りは極めて静かだった。メインマストがギシっと音をたてて僅かに揺れている。彼はゆっくりと波を掻き分けて進んでいた。
満月はじわじわと海面に近付き、透き通る輝きを波に映す。海の波と、北風の波に。
一瞬の後、その静寂が破られる。
「あっ」
彼がそう叫んだのと、ギターが目を丸くしたのは同時だった。ボウスプリットが指す満月が海面に触れるような形になった時、海面に赤と青と黄色の淡い光が散らばった。まるで炎のようなそれらは、真っ黒な夜空から落ちてきているものであった。
星が落ちている!
ギターが見上げている夜空から、無数の星が超スピードで海へ飛び込んできていた。丸い光の玉に、それと同色の直線が尻尾のようにして続いている。それらは海面に触れる瞬間にキラリと弾けて「キラキラ」と音を発した。
絶え間なく降り注ぐ星のシャワー。彼の掻き分ける海水に、それらの色と月の黄金がじわりじわりと溶け込む。真っ黒だった海は、数え切れない程の光に塗られていて……夜という世界は、辺りに響く星の音に支配された。
「キミ、見えるかい!?」
「見えるさ! 見えるに決まっている!」
黒い波が、低い音を発して押し寄せる。嵐を予感させるような、何か迫ってくるような、そんな緊張感があった。既に星々は海面へのダイブを終了させていて、意味深に低く唸る波の様子を伺っているようだった。
やがて、一つの星が、黒い波に乗せて彼に打ち寄せる。
「海の中に星がいる!」
打ち寄せる星の数は次第に増殖し、声を高めて輝き出した。あるものは海面を滑るようにして……またあるものは大きく跳ね上がって彼の甲板にまで光を運ぶ。いつの間にか、彼はかなりのスピードで波を切っていた。
「あの話は本当だったのか!」
ギターは夢中で叫ぶ。海や風の中に溢れる、星と月明かりを見遣って叫んだ。
彼の周りを飛び交う星屑は霧のように広がり、風が作り出す空気の曲線に合わせて彼の真下で靡いていた。そうして風波の輪郭がくっきりと現れるようになると、ビュオウ、ビュオウと、その光る風波が鳴いた。ずっと遠くまで、その光りは一本の道を作っている。その向こうへ音が吸い込まれるように、辺りは徐々に静まっていった。
「見てご覧よ。さっきまでは海の中に星がいたけど、今は星の中に海がいる……」
なんて素晴らしいんだ、と彼は溜め息をついた。今や彼が掻き分けて進むのは黒い海ではない。七色に光る星の波を、彼は滑るように前進していたのだ。
空を見るしかできないギターには、自分を乗せた彼が本当に飛んでいるのかは分からない。しかし、今自分が奇跡の中にいるのだということは理解できた。星屑がギターにそっと降り注ぎ、それは細い糸のようになって六つに分かれる。
「これは……これは確かに奇跡だ」
ギターには、星の光りを束ねて作られた六弦が張られていたのだ。
「見てくれ! 星屑の弦だ!」
「星屑の弦!? それは素晴らしい! 残念だけど僕には見えないんだ。だから、代わりに歌ってみてくれよ!」
彼からのリクエストに、ギターは少し困ったように笑った。今となっては、自分の音が美しかったのか、上手く歌えたものだったのか、そういったことに自信がなかったのだ。それでも、記憶の隅っこに押しやっていた自分の音色をなんとか思い出してみる。手触りの優しい六弦をはじいて歌ったあの日々を回想しながら、ギターはそっと和音を奏でた。
低く深みのある音から、高く輝くような音まで……広大な星空への感動を表すように、ギターは自分の奥底に眠っていた音楽への情熱を六弦に託す。星の弦をはじく度、自分の存在がよりはっきりしてくるようにギターは思った。星屑の六弦は力強く、それでいて優しい旋律をなぞる。自分にはまだこんな歌が歌えるのだ……と、気付けば涙を流していた。
「とても、とても綺麗な音色だね……ありがとう、ギター。そんな素晴らしい音を出せるのは、やっぱりキミがギターだからだね」
彼が掻き分ける星の波は、ギターが歌った旋律に声を重ねるように輝いた。空には、視界を半分覆うくらい巨大になった満月が浮かんでいる。
「見てご覧、月があんなに大きくなっている……。僕達は今、星の航路にいるんだよ」
彼はギターへ微笑みかけた。色とりどりに輝く星の波に揺られて、彼はあの満月に向かって伸びる航路を進んでいた。満足そうに微笑んで、月明かりに染まった風を純白のセールで抱きしめる。
ギターも、彼に応えるように笑ってみせる。涙で濡れた視界には、月明かりがとても眩しく感じた。溢れる光の中で揺れるセールを、ギターは素直に美しいと思った。
「俺は……」
ギターは呟く。
「俺は、君のそのセールがずっと羨ましかった。憎らしくもあったんだ。そのセールがある限り、君はいつだって自分が船であると誇れたはずだから。だけど俺には、俺がギターである証なんて何もなかったんだ。もう二度と歌うことができない……それならば、俺は何のためにこんな形でここに存在するのだろう。暗い海の上でそう考えている時、俺はとても孤独だった。とても暗い気持ちになっていたんだ。ごめん……俺は、弱い自分に腹が立って、君を嫌いになろうとしていたのかもしれない」
ギターの流す涙に、空の星が写った。
月明かりの向こうで一生懸命光っている星……その星達も、眩しい満月を羨んだり憎んだりしたのだろうか。
「でも、知っていたんだよ。嫌いになんか、なれるわけないって」
もしかしたら、そんな悩みを持ったこともあったかもしれない。それでも……。
ギターは思う。満月の輝きも、白く映えるセールも、どちらもギターは持っていない。それでも、空を照らす月や海を渡る船には、六弦を掻き鳴らして歌うことはできないのだ。それがどうゆうことなのか、ギターは気づいていなかっただけなのだ。
「君はただの船で、僕はただのギターに過ぎない……だから、難しく考えることはないんだ。ただ好きな路を旅することで君が君であり続けるように、僕はただ好きな歌を歌えればそれでいい」
話し終えて、ギターは再度笑った。
それまで黙って話を聞いていた彼は、ギターがもう泣いていないことが分かると、ギターと同じようにニッコリと笑って「うん」と頷く。
「キミが元気になってくれてよかった。素敵な歌のお礼に、いいものを見せてあげようかな。ちょっと揺れるけど……いいかな? 行くよ!」
彼の合図と同時に、星の波がふわりと大きくうねった。彼の右舷に当たって飛沫を上げたと思うと、今度は左舷にぶつかってキラキラとはじける。そうして、飛び上がった星屑は段々と多くなり、彼の左右へぐわりと広がっていった。それは丁度、飛び立とうとする鳥が翼を広げたように見える。
「わぁ……星が君の左右に広がっている! まるで……まるで君に翼が生えたようだよ!」
「これから一気に加速するのさ。見てて」
左右それぞれの星屑達が一つの翼になって、生きているようになめらかに羽ばたいた。そうして、星の航路を滑るように進む。鋭く波を切って翼をはためかす度に、星屑が霧のようになって彼の後へ消えていった。ゴウゴウという風の音、絶え間なく鳴る星屑の音。彼は物凄いスピードで航路を翔る。
その瞬間、彼らの視界の全てを金色に輝く月が覆った。
それまで辺りに溢れていた音が一転、ふっ、と無音になったかと思うと、航路の先から星屑の霧が渦のようになってこちらに迫ってきていた。
「ぶつかる!」
叫ぶとほぼ同時に、彼らはその渦巻きへ体当たりした。周りでは星屑がザアザアと回転し、強烈な向かい風の為に息が止まりそうなほど。余りの風圧に、ギターは思わずギュッと両目を瞑った。風や星屑が体に当たって、滑るように流れていくのが分かる。
それからすぐに、辺りに散っていた星達の音が背後へと消えていった。渦巻きを抜けたのだ、とギターは思った。
「着いたよ、月の上だ」
「月の、上?」
ギターがそっと目を開けると、彼は両翼をゆったり羽ばたかせながら笑って頷いた。
彼が進む航路は、先ほどまで見ていたあの満月の光と同じ色をしていた。月明かりが満ち溢れる穏やかな海を、彼らはゆっくりゆっくり進んでいたのだ。
彼の翼が上下する度に、金色の光の粒がパッと舞い上がる。ふわり、上空まで上がった光の粒は、やがてギターのもとに落ちてきた。翼が動くとまた金色が飛び、それが繰り返されて、空からは無数の光が降ってくるようになった。それは丁度、黄金に輝く雪が降ってくるように。
「……僕はね」
金雪の降る月の上で、彼は遠い日のことを思うような口気で話し出す。
「僕は、主を亡くして暗い海に投げ出されたあの頃、こんな綺麗なセールを持ってはいなかったんだよ。ぼろぼろで、穴だらけで、風なんて受けられるようなものじゃなかった。わかるかい? 僕は、ただ波にまかせて死んだように海を彷徨うしかできなかったんだ」
「え? でも、」
今のその純白のセールは、と続けようとしたギターを、彼は「そうなんだ」と頷いて止めた。
「あれは、ある寒い冬の夜のことだった。一人海の上で絶望していた僕は、ずっと向こうから光に包まれた何かが迫ってくることに気づいたんだ。色とりどりの光が海面を跳ねていて、その光の中にいるのは一隻の船。とにかく物凄いスピードで、あっという間に僕の目の前までやってきた。その時だ。一隻の船を包んでいた光の一部が、波のようになって僕に降りかかったんだ。その一瞬、船は僕に微笑んだ気がする。そのまま、その船はすぐに通り過ぎ……僕が見ている前で、満月が溶け込む海から空へと飛び立った。僕が自身の異変に気づいたのは、その船を見送ったあとさ。信じられなかった。僕には、純白のセールがついていたんだ」
月の海から舞い上がる光に溶け込むように、彼の両翼はひらりひらりと離れて消えていった。その代わり、彼の体全体が仄かに金色を帯びるようになる。それはギターも同じで、弦もフレットも全ての輪郭が金色を帯びた。
「誰にだって、自分の存在が不安になることはあるんだろうね。どんなに強いセールだって、長年使っていればくたびれてしまう……それと同じように。単純に、セールを新しくすればよかったんだ。だけど、主を失った僕らには、そんな発想はなかったんだね。単純なことほど、一人で見つけるのはとても難しいもので……長い日々を旅せずに過ごして、自分が旅をしていたことを忘れてしまっていた。自分が船だということすら、忘れてしまいそうになっていた。百年前、あの船を見てようやく思い出したんだ」
そして……と、彼は続ける。
「そして、十年前に、弦を失くしたキミに出会って思ったんだ。今度は僕が、その単純な解決方法を教えてあげる番なんだってね」
ニッと笑った彼が言い終わったと同時に、彼らの進む先に青い光が顔を出した。月明かりの海から姿を現したのは、紛れも無い、澄み切った青を湛える地球だった。
その地球の光を目に映して、ギターもまた満足そうに笑っていた。
「君が空に飛び立つことを確信していたのは、そうゆうことだったんだね……。君は、百年も前から、この場所でずっと待っていたんだ。そして、俺に素晴らしい六弦を与えてくれた。それだけじゃない。君は歌も教えてくれたんだ。……壮大な物語を始めるための、美しい旋律」
ギターは、そうして「ありがとう」と言った。もう一度、もう一度、「ありがとう」と繰り返した。
その時だった。金色の輪郭に縁取られたギターが、僅かに船の甲板から浮かび上がった。水の中にいるように、ゆっくり、ふわりと浮き上がる。
「俺の六弦は星屑でできているから……それなら、俺が歌うことで、何かを救えるのかもしれないね」
空中へ上っていくギターの瞳は、どこか自信に溢れて光って見えた。ここへ来る前に見た、あの時の彼の瞳のように……未来への確信を持った情熱的な瞳。彼は今、その瞳を正面から見据えた。
ギターは、青い地球の輝きに包まれているように見える。そして彼は、満月の色に染まって光を放っている。
「俺は行くよ」
ギターの言葉に、彼は大きく頷いた。
「ギターはいつだって、歌を歌うために生きているんだから」
ここまで読んで下さった皆様、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。私は、砂と申します。
現実世界ではまだまだ秋が始まったばかりですが、一足早く冬のイメージで書いてしまいました。今年の夏は暑いばかりでしたので、早く私の好きな季節になって欲しいという思いも込めて……。
幼稚な文章で、読み進め難い箇所も多々あったと思います……。これから勉強していきたいと思いますので、今後もよろしくお願いします。