第1章:鞴の跡
夕暮れは村を洗い流すように浅く、渇市の家並は泥色の帯で繋がれていた。軒先に残る短い綱に、紙片が擦れてはかなくこすれる。芹沢綴は外套の襟を立て、肩にぶら下げたノートを軽く押さえて立ち止まった。人の気配は希薄で、笑い声も祭囃子も、ここ数年はすでに伝承としてしか存在していないはずだった。
小夜の家は、村の端にある古い蔵屋敷の一角にあった。戸は半開きで、風に当てられた藍布の端が蜘蛛の巣のように震えている。小夜は黒ずんだ手を糸に絡め、芹沢を見上げた。目が二つとも、年を経た紙片のように薄くなっていた。
「道具はある。だが、道具が歌を知っているかね?」彼女はゆっくりと笑った。笑いは砂のように乾いていた。
蔵の中には太鼓が複数、鈴や鉦、色褪せた布帯が積まれていた。どれも丁寧に並べられているが、どれも長い間使われていないことを告げるしわと欠片を持っている。芹沢は太鼓の面に触れた。皮は冷たく、目には見えぬ亀裂が一筋走っている。触れた指先にだけ、微かな振動の残滓が伝わった。
「最後に使われたのは、いつです?」芹沢はノートのページをめくる。筆跡は整っているが、ページの余白が妙に寂しくて、書き込むたびに彼は遠い日の夕立を思い出すような気がした。
小夜は答えずに指先で一枚の古い祭札を撫でた。札の裏には消えかけた文字で一節が書かれている──まだ誰の耳にも届かぬ歌の一句のように。だが、その文字を読み上げると、村の向こうの草むらでごく遠く、鈴の残響が返った。音は低く、時がずれて戻ってきたようだった。
夜、芹沢は宿でノートを広げ、今日の観察をまとめた。字を綴ると同時に、彼の手のなかで何かが微かに震え、書かれた文が自分の記憶を確定させる感覚があった。確定という行為は温かく、また冷たい。筆先が紙を引くたびに、壁の向こう側で薄い影が動いたように思えた。
翌朝、ノートを開くと、見知らぬ一行がそこにあった。自分が書いたはずの字で、だが記憶にない言葉。――「太鼓は最後の問いで微笑んだ」。日付は明日のものを示していた。芹沢は胸の中で何かが弾けるのを感じ、紙の余白を指でなぞった。指先がインクの上を滑ると、文字が少しだけ曇るような気がした。文字は消えるでもこなれるでもなく、そこに「在る」ことを主張していた。
彼はそれを消そうとした。消し取れば記録は変わるのではないかと。だがその瞬間、外から子供の声が聞こえた。遠いものが近づいてくるような錯覚。声は村の古井戸の方角から来ている。芹沢はノートを閉じ、外へ出た。
井戸の側には、古い石の縁に座る男がいた。男は若くはないが、年齢を定めがたく、衣服は祭礼の白に近い色をしていた。手には薄い紙を握っている。
「誰か歌える者はおらんか?」男は問いかけるように井戸を見下ろした。声は風の中で徐々に溶けていき、答えはやはり無かった。男はため息をつき、紙をふっとめくると、一節を低く歌い始めた。歌は子音を欠いた合唱のようで、耳には明瞭さがない。だが、聞く者の記憶の端に触れると、触れた部分はいつのまにかくっきりと輪郭を得てしまう。
芹沢は男に近づき、紙を覗き込んだ。その文面は見覚えがあった。幼い頃、彼が見た芝生の匂い、母の膝の温度、初めて叩いた太鼓の重み――それらが散文の断片になって並んでいる。しかし、並んでいる順序は彼の記憶と違っていた。出来事は少しずつずれており、ずれた分だけ過去は別の人のものに見える。
「これは、どこで拾った?」芹沢は訊ねた。
男は笑った。笑いに、どこか遠い祭場の埃が混じっているようだった。「拾ったのではない。忘れた者が落としていった。忘れると、ものはここへ来る」
忘却の入れ物、あるいは忘却そのものが物質化した場所のように思えた。芹沢はその言葉を胸に入れると同時に、自分が何かを取り戻すためにここへ来たのか、あるいはここに何かを差し出すために来たのか分からなくなった。
夜が深まると、村の外縁で太鼓の残響が再び聞こえた。音は不規則で、誰かが拍子を崩しているようにも、誰かが拍子を作っていないようにも聞こえる。芹沢は歩を進め、音の出所を確かめようとした。辿り着いたのは、小さな祠の前。祠の中には、裸の木箱が一つ置かれていた。箱の蓋は少し開いており、中には布に包まれた小物が見える。芹沢はゆっくりと手を伸ばし、布を払うと、そこには古い鈴と破れた写真があった。写真の中の人物は祭具を抱えて笑っている。だが、よく見ると、写真の背景に写る建物の屋根の形が今の村のそれとは微妙に違っていた。時間が層になって重なっているのだという確信が、芹沢の胸を押した。
そのとき、背後からページをめくるような音がした。振り返ると、小夜が祠の縁に立っていた。彼女は手に、芹沢のノートと同じ大きさの白紙を持っている。白紙の上には、既に薄く文字が浮き上がってきていた。
「記録は書けば書くほど空を埋める」と小夜は言った。その言葉には責めも恐れもなく、ただ事実が並んでいるだけだった。「だが埋めると、何かが抜け落ちる。空いた所が疼くのよ」
芹沢はノートを確かめた。確かに、ひとつの行が消えている代わりに、別の行が濃くなっていた。彼は紙の上で自分の指の痕を確かめると、指先がほんの少し震えているのを感じた。
小夜は祠の蓋を閉じ、ゆっくりと村へ向かって歩き出した。後ろ姿は年老いた布の影だが、影の端からは微かな歌が漏れていた。芹沢は短く息を吐き、ノートの中に残った余白を指で撫でた。余白は夜のように深く、そこに何かを置いておくことができるなら、それはきっと安心のようなものだろうと彼は思った。
だが、余白はすぐに満ちる。彼はそれを知っていた。そして満ちるたびに、彼の中のある記憶が薄れていく感覚も知っていた。彼は手帳の端をしっかりと握りしめ、もう一度写真の笑顔を見た。笑顔は静かにこちらを見返した。写真の縁に記された日付は、彼が生まれる前の年を指していた。
村が深い夜に沈むと、どこかで太鼓の一打ちが欠けて消えた。芹沢は立ち尽くし、頭の中でその欠落の形を確かめようとした。欠落は輪郭をもっているが、輪郭を掴めば別の何かが消える。彼はノートを胸にあて、できるだけ多くの余白を残すことを心に決めた。余白はやがて誰かが歌を入れるための容れ物になるはずだと、どこかで信じていたからだ。
夜の終わりは来ず、ただし音は変わる。欠けた拍子が、かすかな歌の間隙をつくる。芹沢はその間隙に耳をすませた。そこに、まだ誰も知らない一節が眠っているのを、彼は確かに感じた。




