表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雨上がりのプレリュード

作者: 久遠 睦

第一章:雨上がりの再会


火曜日の午後、東京は朝からしとしとと降り続く雨に濡れていた。システムエンジニアとして働く相葉悠人あいば ゆうと、28歳は、クライアントとの打ち合わせを終え、東京駅へと続く道を早足で歩いていた。彼の頭の中は、今まさに「炎上」しかけている大規模プロジェクトのことでいっぱいだった。大阪支社からの栄転で東京に来て数ヶ月、彼を待っていたのは、キャリアの中でも特に過酷だった過去のプロジェクトの記憶を呼び覚ますような、悪夢の日々だった 。


要件定義の甘さから生じた度重なる仕様変更、逼迫するスケジュール、そしてチーム内のコミュニケーション不全 。新たなプロジェクトが崩壊することへの恐怖、再びあの混沌に飲み込まれることへの警戒心が、じっとりと心を湿らせる 。雨に濡れた丸の内のビル群は、光を乱反射させ、まるで近未来のサイバーパンクな風景のようだったが、今の悠人の目には、ただ冷たく巨大な無機物の塊にしか映らなかった 。


KITTE丸の内の軒下で人の流れをやり過ごそうとした、その時だった。一人の女性が、突風にあおられてひっくり返りそうになる傘と格闘しているのが目に入った。ほとんど無意識に、彼は手を差し伸べていた。


「大丈夫ですか?」


彼女が顔を上げて「ありがとうございます」と微笑んだ瞬間、悠人は息を呑んだ。見覚えのある顔。記憶の引き出しを慌てて開ける。そうだ、大学時代の写真部の後輩、藤井葵ふじい あおいだ。


藤井葵、27歳は、中堅文具メーカーの商品企画部で働いている 。彼女もちょうど、実りのない打ち合わせの帰りだった。キャリアも、そして人生そのものも、まるで出口のない迷路にはまり込んだような停滞感を感じていた。今日のこの鬱陶しい雨は、そんな彼女の心象風景そのものだった。


だから、予期せぬ形で現れた悠人の顔は、灰色の日々に差し込んだ、あまりに唐突な光だった。


「もしかして、相葉先輩…?」

「やっぱり、藤井か。久しぶりだな」


就職して離れ離れになってから、もう5年が経つ。数年ぶりに交わす会話は、雨音と都会の喧騒にかき消されそうなくらい、少しぎこちなかった。互いの近況を当たり障りなく報告し合う。彼はSE、彼女は文具の企画。懐かしさが空気に溶け出すが、それはまだ、どこかためらいがちな色をしていた。


葵の時間は、三年前で止まっていた。当時付き合っていた恋人、智也ともやが仕事でシンガポールへ旅立ってから。彼らの別れは、劇的な喧嘩や決定的なすれ違いによるものではなかった。物理的な距離が心の距離を生み、互いの未来が少しずつ違う方向を向いていることに気づきながら、どちらもそれを認めるのが怖くて、ゆっくりと関係が薄れていった、そんな自然消滅に近い終わり方だった 。


そのせいで、葵の中の智也との思い出は、悪い部分が削ぎ落とされ、完璧に美しいものとして保存されていた 。彼以上に自分を理解してくれる人はいない。あの恋以上に幸せな時間はもう二度と訪れない。そう固く信じ込んでいた。だから、新しい出会いは、その完璧な思い出を汚すような、罪深い行為に思えたのだ 。


このまま別れて、また巨大な都市の雑踏に紛れてしまうのは、あまりにもったいない。仕事のプレッシャーから解放される、人間らしい繋がりが欲しい。そんな衝動に駆られ、悠人は口を開いた。


「もしよかったら、今度ゆっくり話さないか?積もる話もあるだろうし」


葵は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく頷いた。連絡先を交換し、それぞれの駅へと向かう。二人を見送る空は相変わらずの鉛色だったが、彼らの心には、ほんの少しだけ、雨上がりの気配が漂い始めていた。


第二章:すれ違う心、デジタルの影


デート、対話、そして不協和音


最初の再会から数週間、二人の関係は慎重に選ばれた一連のデートを通じて花開いていった。最初は大学の先輩後輩という懐かしさだけだったが、会う回数が増えるにつれて、互いの存在が心の中で少しずつ大きくなっていくのを感じていた。


夏の井の頭公園では、じりじりと肌を焼く日差しの中、スワンボートを漕いだ 。箱根彫刻の森美術館では、ステンドグラスの塔「幸せをよぶシンフォニー彫刻」の中で、色とりどりの光に包まれながら、アートや人生について語り合った 。代官山のT-SITEでは、洗練された空間で本を眺め、テラスでコーヒーを飲んだ 。


しかし、親密さが増すにつれて、彼らのコミュニケーションスタイルの根本的な違いが顕在化し始める。葵が過去の恋愛についてぽつりと話す時、彼女が求めているのは共感と感情の肯定だった 。対して、エンジニアである悠人は、本能的に解決策を提示し、問題を分析しようと試みた 。葵はこれを、自分の感情を軽視されていると受け取ってしまう。この小さな、しかし重要な感情の断絶が、二人が完全には心を開ききれない微かな摩擦を生み出していた 。


機械の中の亡霊 ― 智也のデジタルな帰還


そんな中、葵の心の平穏を乱す影が忍び寄る。元恋人の智也だった。彼はシンガポールで金融専門職として成功を収めているが、その華やかな経歴の裏で、海外駐在員特有の孤独感に苛まれていた 。


そんな孤独を埋めるように、彼はInstagramのダイレクトメッセージを通じて葵に連絡を取り始める。彼のメッセージは巧みに構成されており、二人の過去の良い思い出、美化された記憶だけを切り取って語りかけた 。彼らが行った場所、二人だけの冗談。それらは葵自身の過去を理想化する傾向を効果的に刺激した。彼は葵にとって、「手に入りそうで入らない相手」という、抗いがたい心理的な魅力をまとっていた。


智也からのメッセージは、葵の心に認知的不協和を生じさせた。悠人に対して本物の感情が育ち始めている一方で、理想化された智也との過去は、痛みを伴わない、甘美な逃避先のように思えた。彼女は別れの決断を疑い始め、「もしも」という思考の罠に陥っていく 。この内なる葛藤は、悠人とのやり取りにおける微かなためらいや上の空といった形で現れ始めた。


嵐の前の静けさ ― 悠人の新しいプロジェクト


悠人は、大手金融機関の次期基幹システム開発という、社運を賭けた巨大プロジェクトの重要なフェーズリーダーに抜擢された。これは彼のキャリアにおける大きなチャンスであり、当初は誇りとモチベーションの高まりを感じていた。


しかし、プロジェクトの初期段階から「炎上」の兆候は現れていた。開発スケジュールは非現実的なほどにタイトで、不測の事態に対応するためのバッファが全く考慮されていなかった 。クライアントの要求仕様は曖昧で、会議のたびに二転三転した 。


悠人は急速に仕事に飲み込まれていった。葵へのメッセージは短くなり、電話の回数も減った 。ある夜、予期せぬサーバー障害への対応のため、彼は約束していたデートを直前でキャンセルせざるを得なかった。彼は状況を説明しようと試みたが、彼の口から出るのは専門用語ばかりで、彼が感じている精神的なストレスの大きさは葵に伝わらなかった。結果として、葵は自分が軽んじられ、重要でない存在だと感じてしまった。


悠人はストレスに満ちた、極めて現実的な「現在」に引きずり込まれている。一方で葵は、心地よく理想化された「過去」へと引き戻されている。彼らの関係が最も強固になるべき瞬間に、二人の感情の軌道は正反対の方向へと乖離し始めていた。


第三章:神楽坂の迷路


起爆剤の到着 ― 東京の智也


智也は葵に、2週間の東京出張が決まったことを告げた 。彼はそれをさりげなく伝えたが、その含意は明白だった。彼は葵に会いたがっている。脅威はデジタルの領域から物理的な現実へと移行した。


葵は今、具体的な選択を迫られている。悠人との間に育ちつつある穏やかな親密さと、芽生え始めた確かな情熱。しかし、彼のコミットメントは仕事の危機によって覆い隠され、希薄に見えている。一方、智也が象徴するのは、共有された歴史に基づく高い親密性と、ノスタルジアによって再燃した情熱だ。しかし、そこに関与は不在であり、試されてもいない。


彼女は、一見完璧に見えるが実体のない過去と、不完全だがより深い未来の可能性を秘めた現在との間で引き裂かれていた。


デジタルの短剣 ― 誤情報と確証バイアス


ある金曜の夜、悠人のプロジェクトチームは、過酷な一週間を乗り切った後、簡単な打ち上げのために居酒屋に集まった。パートナー企業の女性プロジェクトマネージャーが、その席で撮ったグループ写真を自身の公開Instagramアカウントに投稿した。写真は他愛のないものだったが、撮影角度とトリミングのせいで、彼女と悠人が親密そうに寄り添って微笑んでいるように見えた。


すでに悠人からの連絡不足で不安と孤独を感じていた葵がこの投稿を目にした時、それは彼女の疑念を裏付ける「証拠」として映った 。彼女が見たのは職場の飲み会ではなく、悠人が自分をないがしろにして他の女性と楽しんでいる姿だった。


彼女は悠人に、「楽しそうだね」という短く、棘のあるメッセージを送った。深夜のバグ修正作業の真っ只中にいた悠人は、その裏にある感情のニュアンスを読み取ることができない。「簡単なチームの打ち上げだよ。今はオフィスに戻ってる。このプロジェクト、本当に悪夢だ」と、事実のみを簡潔に返信した。彼にとっては、自分のストレスを伝えているつもりだった。しかし葵にとっては、彼女の感情的な揺れに応えず、事実だけを突きつける彼の態度は冷たい拒絶に感じられ、彼女の恐怖を確信へと変えてしまった 。


広がる亀裂


プロジェクトの状況はさらに悪化し、悠人は事実上オフィスに住み着き、危機管理のサイクルに囚われていた 。彼は疲労困憊し、葵に災害の全容を説明しようと試みる気力さえ失っていた。彼は自分の殻に閉じこもり、解決可能だと信じている唯一の問題、つまりコードにのみ集中した。


一方、傷つき、混乱し、そして今や悠人の不貞を確信した葵は、智也からのディナーの誘いに応じた。彼女の決断は、慰めを求める心と、かつて自分が大切にされていたと感じた時間を取り戻したいという願望から生まれたものだった。それは、悠人との関係がもたらす痛みを伴う不確実性から、美化された過去という名の安全な港への無意識の逃避行動であった 。


第四章:炎上と、雨音の告白


炎上するプロジェクト


悠人のプロジェクトは、ついに破綻の時を迎えた。最終テスト段階で発見された致命的なバグが、クライアントの本番稼働中のデータを破損させる危険性があることが判明したのだ。これはシステム開発における最悪の事態の一つである 。クライアントは激怒し、法的措置も辞さない構えを見せた。オフィスの空気は、古くなったコーヒーと不安の入り混じった淀んだ匂いで満たされ、キーボードを叩く乾いた音だけが響き渡る。その嵐の中心に、青白い顔でモニターを睨む悠人がいた 。彼はもう48時間、家に帰っていなかった。


複雑なコードのデバッグ作業に没頭するうち、悠人は強烈な集中状態、いわゆる「フロー状態」に入った 。純粋な論理的思考の頂点で、彼がバグの根本原因を突き止めたその瞬間、彼の心の中の霧もまた晴れた。技術的な問題を解決することに執着するあまり、彼はもう一つの、感情的な問題を完全に放置していたことに気づいたのだ。プロジェクトが失敗することへの恐怖よりも、葵を失うことへの恐怖が、彼の心を強く打った。このプロフェッショナルとしてのブレークスルーが、彼に個人的な天啓をもたらしたのである 。


金色の鳥籠 ― 葵のディナー


その頃、葵は智也と汐留シティセンターの41階にあるレストランで会っていた。眼下には宝石を散りばめたような東京の夜景が広がり、柔らかな間接照明がテーブルを照らす。完璧な空間だった。


智也は魅力的で、気配りも細やかだった。彼は二人の過去を薔薇色に語り、共有した思い出を巧みに引き合いに出した 。シンガポールでの孤独をほのめかし、再び一緒になれるかもしれない未来を暗示する。しかし、葵の心には次第に違和感が広がっていった。会話は空虚に響き、親密さを演じているかのように感じられた。智也が語る過去からは、二人が別れるに至った理由は都合よく抜け落ちていた。彼女は窓の外に広がる完璧で、しかしどこか冷たい街の灯りを眺めながら、これまで感じたことのないほどの孤独に襲われた。


雨の中の衝突


チームに修正作業の最終指示を託した悠人は、コートを掴むとオフィスビルから駆け出した。外は、彼の内面の嵐を映し出すかのように、突然の激しい豪雨に見舞われていた。


夜の丸の内の街路は雨に濡れ、アスファルトがネオンの光を乱反射させ、美しくも混沌とした、近未来的な光景を作り出していた 。大気は、雨が乾いた地面に降る時の独特の匂い、「ペトリコール」で満たされていた。それは土埃とオゾンの混じった香りで、浄化と新たな始まりを象徴していた。


ディナーを早々に切り上げる口実を見つけ、レストランを出た葵は、タクシーを待つためにビルの軒下で佇んでいた。彼女の心は、行き場を失っていた。そこに、ずぶ濡れで息を切らした悠人が現れた。クライマックスは、怒鳴り合いではなく、生々しく、必死な言葉の応酬だった。彼は不在の言い訳をしなかった。ただ、自分が飲み込まれていた「炎上」という地獄の現実を説明した。彼はプロとしての、そして個人としての失敗への恐怖を告白した。そして、あの写真を見て、彼女が傷つくのは当然だと理解していること、そしてそれをきちんと伝えられなかった自分の非を認めた。葵もまた、見捨てられることへの不安、智也に対する混乱、そして自分の抱える弱さを吐露した。


その時、レストランから智也が出てきて、二人を見つけた。彼は二人の間の張り詰めた空気を見て、葵に簡単な逃げ道を示した。「葵、君にこんなドラマは必要ない。こっちへおいで」。その言葉は、葵に、二人の男の前で、最終的かつ決定的な選択を迫るものだった。


第五章:新しい朝


残響と終章


雨の中、葵は悠人を選んだ。彼女は智也に、どんなに美しく見えても、思い出の中では生きていけないと告げた。たとえ困難であっても、本物の何かが必要なのだと。この新しい恋が、彼女を過去の亡霊から解き放った瞬間だった 。智也は悲しみを帯びた諦めの表情で彼女の決断を受け入れ、去っていった。


悠人は、大げさな愛の言葉を口にしなかった。彼はただ、葵と共に雨の中にしばらく立ち尽くし、二人が乗り越えた嵐を静かに分かち合った。彼は自分のジャケットを彼女の肩にかけ、二人はタクシーを探して歩き始めた。彼らの間の沈黙は、もはや緊張をはらんだものではなく、心地よい安らぎに満ちていた。


最初の日 ― 恵比寿での新たな始まり


数日後、プロジェクトの危機が去り、感情が落ち着きを取り戻した頃、二人は会う約束をした。彼らが選んだのは、恵比寿にある洗練されたバー、「Bar Noir」だった。それは意図的な選択であり、初期のデートで訪れた明るくカジュアルなカフェとは対照的な、大人のための空間だった。高い天井、大きな窓から望む夜景、静かに流れるジャズ、そして完璧でありながら控えめなサービスを提供するバーテンダー。そのすべてが、彼らの新たな関係の始まりを祝福しているかのようだった。彼らは窓際のカップルシートではなく、あえてバーカウンターに並んで座り、共に未来を見据えた。


彼らの会話は穏やかで、率直だった。悠人はプロジェクトの結末を語った。結果的には成功を収めたが、その経験を通じてバランスとコミュニケーションの重要性という貴重な教訓を得た、と 。葵は、智也との最後の丁寧なテキストメッセージのやり取りについて話し、その章が完全に終わったことを伝えた。彼らは雨の中での口論を蒸し返すのではなく、そこから学んだ教訓を認め合った。互いの恐怖と希望について語り合った。


物語は、シンプルで静かなやり取りで幕を閉じる。


悠人:「いろいろあったけど…それでも、俺は藤井さんと一緒にいたい。ちゃんと、始めたいんだ。」

葵:「私も…相葉先輩と始めたい。」


それは情熱的な告白ではなく、熟慮の末の、相互のコミットメントだった。最後のショットは、磨き上げられたバーカウンターの上で、互いに寄り添い、今にも触れ合おうとしている二人の手。かつての緊張は、より深く、より強靭な絆へと昇華されていた。


彼らの関係は、試練があったにもかかわらずではなく、試練があったからこそ価値があるのだ。悠人は、仕事上の成功が個人的な繋がりなしには無意味であることを学んだ。葵は、ロマンチックに美化された過去は鳥籠であり、真の幸福は不完全だが本物の現在を受け入れることにあると学んだ。彼らはそれぞれ、自分自身の内なる「炎上」を乗り越え、逃避ではなく、互いの中に安らぎを見出したのである。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ