聖女様は悪女になりたい!
山も谷もオチもないお話ですが、ゆるーくお楽しみいただければと…。
広い心でお読みいただけますと幸いです。
魔術大国グランバレル。
その首都に立派な邸宅を構える伯爵家の若き当主殿は、応接間に姿を見せると硬質な美貌にちょっぴり困った色を浮かべてこちらを見た。
伯爵邸に客人として招かれた十九歳の聖女フィリア・クローゼは、豊かな金髪をほわほわと揺らしてソファから立ち上がり、柔和な面立ちに微笑を湛えて、出迎えてくれた青年を見返す。
薄氷色の双眸を眇めて、青年が形の良い唇を動かした。
「お初にお目に掛かります……というのは、俺たちの間柄では適切な挨拶とは言い難いですね」
フィリアにとって知人と呼べるほど口数を交わしたことはなく、かといって初対面でもない彼は、両者の距離感を図りかねるように言葉を迷わせた後。
「改めまして。本日より貴女の監視役を務めるセシル・アーガイルです」
そう言って洗練された所作で会釈するセシルは、美しい青年だ。
癖のない青み掛かった銀髪。人目を惹く容貌は整い過ぎていて、冷たさすら感じられる。背はすらりとして高く、長い手足に均整の取れた体つき。
二十歳という若さで伯爵家の当主を務めるセシルからの挨拶に、フィリアはにっこりと微笑んだ。
「フィリア・クローゼです。先立っては取り返しのつかない事態となるところを未然に防いでいただきまして、アーガイル卿には感謝してもしきれません」
フィリアは十二歳の時から聖女として王国に仕えている。そして目の前のセシルもまた、国属の魔術師として国に仕える身の上だ。
名声と称賛には事欠かず、王国の至高の存在として民から愛されてきたフィリア。千五百年の歴史を誇るグランバレルでも類を見ない天才魔術師として、注目を浴びてきたセシル。
何かと目立つ存在だった二人は時折任務を共にすることはあっても特に親しくはなかったのだが、お互いの存在はなんとなく認知している、という間柄だった。
そんな二人の道が交差したきっかけは、ほんの二週間前まで遡る。
肝の冷える出来事を思い返してフィリアがほう、と嘆息すれば、セシルは緩やかにかぶりを振った。
「俺は職務を全うしただけです。礼を言われるようなことは、何も。それにあれは事故ですよ。非があるとすれば、貴女の不安を無視し、押し切った神殿でしょう」
グランバレルに聖女は二人。十九歳という若さで筆頭聖女として国に尽くしてきフィリアだったが、ひと月ほど前から己の能力に疑念を抱くようになっていた。それまで息を吸う様に容易く操れていた魔力の制御が思うようにいかなくなったのだ。
神殿に不安を伝えたものの、聖女に代わりは効かない。重篤者の治療、人体に害を及ぼす瘴気に侵された大地の浄化、その他諸々。果たすべき役割は山ほどあって、漠然とした不安でフィリアが職務を休むことを国は許さなかった。
そして、最悪の事故が起こった。遠征先の森林で浄化の任務に当たっていたフィリアは術を暴発させ、周囲一帯を更地と化した挙句、聖女の魔力に惹かれて魔獣が押し寄せる事態となったのだ。近隣の村を血に飢えた魔獣が襲う。そんな大惨事に発展する前に駆けつけ、魔獣を一掃してくれたのが、任務に同行していたこのセシルである。
「大事には至らなかったわけですから、貴女がそこまで気に病む必要はないと思います。大事なのは、これからです」
これから。
フィリアはほう、と嘆息する。
「私が未熟なばかりにアーガイル卿にご負担をおかけすることになり、なんとお詫び申し上げればいいのか……」
「いつ魔力を暴走させるとも知れない危険があるとはいえ、貴女のこれまでの功績を思えば、生涯に渡って監獄塔に幽閉するというのはあまりに情のない裁定です」
魔力を暴走させ、あと一歩のところで国に甚大な被害を与えかけた。そんな実例を作ったフィリアは国の至宝から一転、いつ災厄をもたらすとも知れない爆弾へと成り下がった。
フィリアの処遇は国内でも意見が割れに割れた。術を行使しなければ何事もなく生活できるという保証など、どこにもない。
このまま聖女の職務を務めさせるのは危険、という一点のみ合致していて、では身柄をどうするかで揉めに揉めたのだ。
一部の重鎮はフィリアを監獄塔に幽閉する案を提示した。監獄塔は魔力を持つ罪人を閉じ込めておくための牢獄だ。一度投獄された者は二度と外に出ることが叶わないという制約のもと、その者の魔力を永久に封じ込めてしまう牢獄。
監獄塔に幽閉すればフィリアという危険因子に気を揉む必要はなくなる。
だが、国民から絶大な支持を誇るフィリアを無機質な石牢に未来永劫閉じ込めるという決定は、世間体が悪い。国王は世論を気にして実行に移すのを躊躇った。
議論に議論を重ねた結果、白羽の矢が立ったのが目の前の青年セシルというわけである。
聖女の魔力は特異な性質を備えていて、二十五歳を境に魔力を喪失し、只人となる。
フィリアが魔力を失うのは六年後。それまでセシルの魔術でフィリアの魔力を封印し、万が一に備えて彼の監視下のもとで生活する。フィリアが魔力を失ったら、晴れて自由の身。
これが、最終的なフィリアの処遇だった。
フィリアが今こうして心健やかに過ごしていられるのは、今この時もセシルが魔力を封じてくれているからに他ならない。というか、魔力を暴発させたあの事件の時に咄嗟にセシルが掛けてくれた術がそのまま機能している、というのが正しい。
とはいえ、と。セシルがいくらか低まった声で続けた。
「聖女である貴女に術を掛けることが叶うのは俺だけ。貴女の処遇を不憫に思い、妥協案として挙がった監視役を引き受けはしましたが。己の屋敷で無駄に気を遣いたくはありません。幸い、屋敷は広い。互いに干渉することなく、気楽に過ごしましょう」
淡々とした声音で、彼は事務的に言葉を重ねる。
「必要な物があれば、気兼ねなく使用人に申しつけてください。なるべく貴女が快適に過ごせるよう取り計らいます。貴女の生活資金は国から支給される以上、当然の権利ですから」
セシルの言葉に耳を傾けながら、フィリアは硬質な美貌をじっと窺っていた。わずかな心の機微も見逃さないように。
セシルは感情表現が豊かな青年、というわけではなく。綺麗な顔は無表情に近く、彼の心情を汲み取ることは難しかった。それでも、なんとなく察せられる本音というものはある。
(う〜ん……やっぱり、ご迷惑よね)
彼の言葉にはフィリアへの気遣いがこもりつつも、端々からなるべくなら己の生活圏を脅かされたくないという本音がちらついていた。
フィリアは心の中でこっそりとため息を吐く。
(陛下も何を思ってこのような采配をなさったのかしら。アーガイル卿が不憫だわ)
フィリアの魔力を封じているあいだ、セシルは常時術を行使している状態だ。複数の魔術を同時に発動させるのは彼にとって可能な範疇。だが、使える術の幅はぐっと狭まる。
これまでどおりに魔獣退治や犯罪者の捕縛といった危険な任務を担うのは厳しい。だからフィリアの監視という閑職に回されてしまったのである。
一般的に、魔術師の全盛期は二十代前半と言われている。セシルはその間、自由に外出することすら叶わず、フィリアとの引きこもり生活を強要されるのだ。あまりにも不憫だった。
(ここはやはり、私が一肌脱がないと……っ)
フィリアとて望んで生涯をじめじめとした石造りの牢獄で過ごしたいわけではない。だが、この将来有望な魔術師様の未来を奪いたくはなかった。手放しで監視を引き受けてくれたというわけでもなさそうだし。
セシルの迷惑そうな素振りを目の当たりにしたフィリアは、この話が決まってから密かに考えていたことを実行に移す決心を固めた。
「アーガイル卿のお心遣いに、感謝します」
深々と頭を下げ、顔を上げたフィリアはぱちりと目を瞬かせた。じっとこちらを見下ろす瞳がなんとなく、何か言いたげに映ったからだ。
「……? どうかされましたか?」
「あ、いえ。話し方が……任務中にお見かけしていた貴女と違うので。もっと気さくな言葉遣いをされていましたよね?」
ああ、とフィリアは頬に指を充てる。
「神殿で聖女は、誰にもへつらってはならない。常にグランバレルの至高たれと教わります。なので、相手が例え王族の方でも聖女は敬語を用いません。ですが、私は肩書きこそ剥奪されておりませんが、聖女と名乗る資格があるとも思えません。貴族の方にこれまでどおり接するのは失礼に当たります」
ただ、と苦笑して付け加える。
「私はもとより育ちがよくありませんので、多少の無作法には目を瞑っていただけると助かります」
「先ほど告げたでしょう。気を遣う必要はない、と。礼儀など気にせず気楽に過ごしてください」
社交辞令というわけではなく、本心からの言葉に聞こえた。
ふと、思い付くことがあった。
フィリアは緩く巻かれた金髪をふわりと舞わせて、一歩、セシルとの距離を詰めた。端正な顔を上目遣いに見上げて、悪戯っぽく深緑の双眸を眇める。
「それなら、これからアーガイル卿のことはセシルさんと呼んでもいい?」
「……構いませんが」
特段、嫌な顔はされなかった。浮かんでいるのは困惑一色だ。
セシルにとって今回の申し出はメリットが皆無。反対にデメリットならたくさんある。
彼にとっては迷惑極まりない監視役を、渋々であろうとも引き受けてくれたことといい、セシルはとても懐の深い人物なのだろう。
そんな彼に、フィリアはふわふわと微笑かける。
「では、これから末永くよろしくお願いしますね、セシルさん」
フィリアがすっと右手を差し出せば、セシルはこちらこそ、と握手に応えてくれた。
挨拶とは裏腹に、フィリアは伯爵邸に長く居座るつもりはなかった。この先いくらでも功績を上げ、多くの者から必要とされるであろうセシルを六年以上縛り付けてまで、自由がほしいとは思わない。
なので。
(アーガイル卿にとことん嫌われて、監視の任を降りてもらいましょうっ!)
今回の処遇はフィリアに対しては王令であり、拒む権利がなかった。だが、セシルに対してはあくまで打診。強制ではなく、国王は彼に判断を委ね、彼の意志でフィリアの監視役を引き受けたのだ。
引き受けてくれたのはきっと、彼にとってフィリアは偉大な聖女であり、境遇に同情の余地があったから。セシル自身も口にしていた。これまでの功績を想えば監獄塔に幽閉するのは無常だ、と。
セシルにとってフィリアが不憫な聖女ではなく――はた迷惑な客人となれば。彼は監視役に辟易し、やっぱり彼女には監獄塔こそふさわしい、となるはず。
彼が手のひらを返したからといって、非がフィリアの生活態度にあれば、周囲は同情こそすれ彼を責めたりしないだろう。
品行方正な聖女から一転、今日から自分は心根の捻じ曲がった悪女になりきろう。
(私、賢い! 完璧な計画!)
セシルの輝かしい将来のために、彼からの好感度を地の底に落としてみせようではないか。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
そうして、ある日の昼下がり。フィリアはセシルの執務室の扉をとんとん、と叩いた。
どうぞ、と応答があったので扉を押し開け、隙間からひょっこりと顔を覗かせた。
「セシルさん、クッキーを焼いたの。一緒にお茶にしましょ?」
伯爵邸に居候するようになって早六日。
フィリアはここ三日、毎日セシルを午後のお茶に誘っていた。
ちらりと壁時計を確認したセシルは、秀麗な顔に怪訝な色を浮かべた。
執務机には書類が散乱していて、分厚い書物が山と積まれている。現在のセシルの任務はフィリアが問題を起こさないよう監視することなのだが、それとは別に王宮から魔術関連の雑務を任されているらしい。
なので、暇を持て余しているフィリアと異なり、セシルはそこそこ忙しいようだ。
散らかった机とフィリアの顔を困ったように見比べた末に、セシルが答えた。
「……すぐに行きます」
「先に応接間で待っているわね」
軽く片付けてから、という言外の言葉を察してフィリアは執務室を後にした。
セシルの訝しげな態度を思い返して、ふふっと笑みをこぼす。
(なかなかどうして、手応えがあるわ)
廊下を歩く足取りは、自然と軽やかになる。
フィリアは初日に決意したとおり、若き伯爵殿から嫌われるための計画を虎視眈々と練り、現在も作戦を遂行中であった。
午後の陽射しがたっぷりと降り注ぐ応接間で待っていると、程なくしてセシルがやってきた。
向かいの椅子に腰掛けたセシルは、ティースタンドに並んだ焼きたてのクッキーを見て、双眸を眇めた。
「すっかりお菓子作りに夢中ですね」
「楽しくて、お口の中が幸せになって、一石二鳥だもの」
半分は本音。もう半分は下心があってのことだ。
見習い時代は毎日修行。正式に聖女となってからは激務に追われていたフィリアには、これといった趣味がなかった。
暇を持て余すフィリアを気遣ってくれた伯爵家の使用人が、最近ご令嬢たちのあいだでお菓子作りが流行っているそうですよ、と教えてくれたのが、この細やかなお茶会のきっかけ。
これは利用できる、と天啓を得たフィリアは毎日クッキーを焼いて、執務中のセシルをお茶に誘っているのだった。
セシルからの『お互いに干渉せず生活しましょう』という言葉をフィリアが無視しても、彼は文句一つ口にせず、律儀に付き合ってくれていた。
「今日は昨日までと違いますね」
「連日同じ味だと飽きがくるかしらと思って。今日は生地にラズベリーを練り込んでみたの」
「ラズベリー、ですか……」
ぽつりと溢れた呟きは意味深で。フィリアには彼の心中が手に取るように読めた。そのまま彼の一挙一動を見守っていると、セシルはいただきますね、とクッキーを手に取った。
セシルが何も言わずに口にしたのは意外だったが、これはこれでちょうどいいので、フィリアはにこやかに尋ねる。
「お味はいかが?」
セシルが口元を綻ばせた。
「美味しいです」
接してみると、セシルは言うほど無愛想な青年でもなかった。無表情が多いというだけで、困り顔や時折、こうした淡い笑みを見せることもある。
年頃の令嬢ならば卒倒しそうな破壊力のあるはにかみだけれど、フィリアの胸に満ちるのはときめきではなく戸惑いだった。え、と小さく息を呑んでしまう。
細い眉を八の字にして困惑するフィリアに気づいたセシルが、ちょっと首を傾けた。
「……どうしました?」
「あ、ええと……。あの、本当に、お口に合う?」
「ええ。とても美味しいです」
感想を裏付けようとしたのか、彼はもう一枚クッキーを口に運んだ。
(うぅ……心が痛い)
良心の呵責に耐えきれず、フィリアは意を決して尋ねた。
「あの。セシルさんはラズベリーがお嫌いなのよね……? 無理して召し上がらなくても……苦手なものは苦手とおっしゃってくれていいのよ……?」
フィリアはとある筋からセシルの苦手な食べ物の情報を仕入れていた。その中には確かにラズベリーが含まれていて、フィリアはわざと彼の嫌いな食べ物を提供しているのである。
この世にはありがた迷惑、という言葉がある。厚意にみせかけて嫌がらせになっているという、我ながら高度な作戦。
フィリアという存在を疎ましく思ってもらいたかったのだが、セシルが厚意に遠慮して無理に食べ進める姿を眺めるのは、想像よりずっと胸に突き刺さるものがあった。
ただただ、申し訳ない。
知っていてどうして嫌いな食材を使用したんだと追及されたら困ってしまうのだけれど。あまりの罪悪感に、確認せずにはいられなかった。
追求されたらどうしましょう、と慌てふためくフィリアの心中に気づいた様子なく、セシルがあぁ、と相槌を打った。
「子供の頃は確かにこの酸っぱさが苦手で敬遠していましたが……せっかくなので試しにと口に運んでみたら、存外に美味しく食べれました」
成長して味覚が変わるという話は耳にしたことがある。その類だろうか。
「無理して、食べているわけじゃない……?」
「はい。美味しい差し入れをいつもありがとうございます」
面と向かってお礼を言われて、フィリアはどうしようもなく居た堪れない気持ちになった。
(嫌がらせなの。混じり気のない、悪意たっぷりな嫌がらせに、お礼を言わないで〜〜)
罪悪感で、胸がズキズキと痛む。
意地悪をしてごめんなさいと平謝りしたくなる衝動をぐぐっと堪えて、フィリアは無理やり顔に笑みを貼り付けた。
「……お粗末さま、です」
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
「セシルさんがいい人すぎて、文句の一つも飛んでこない……っ!」
セシルとの一見和やかなお茶会を終えて自室に戻ったフィリアは、ベッドに勢いよく身を投げて悲鳴を上げた。
「伯爵様も善良なのでしょうけれど。それ以前にお嬢様の嫌がらせがあまりにも他愛無いのが問題なのでは?」
ぼそりとつっこんだのは、聖女時代からフィリアに仕えてくれている侍女のクレアだ。セシルの苦手な食べ物の情報源は彼女である。
フィリアはむむっと眉を顰めて反論した。
「他愛なくなんかないわ。確かに、クッキーの練り物は結果的に嫌がらせにならなかったけれど。そもそも、毎日不定期な時間にお仕事の邪魔をされて、いい気持ちになるはずないもの」
セシルが困った顔をしていたのは、フィリアが呼びにくる時刻を想定して仕事を進めていたにも関わらず、前日とはまったく異なる時間帯に呼びに来られて予定が狂ったからのはず。
フィリアの反論に、侍女がかくりと首を傾げる。
「そのようなささやかな作戦に頼らずとも、あえて不味いお菓子を出せば一発解決ではありませんか? 例えば、生焼けのクッキーとか」
「恐ろしいことを言わないで。食べ物を粗末にするなんてできるはずないでしょう。おまけにそんなひどいものを疲れているセシルさんに食べさせるだなんて、いくらなんでも悪逆非道が過ぎるわ……っ」
フィリアの悲鳴に、クレアはなんとも言えない面持ちだ。
「伯爵様から嫌われたいのですよね……?」
「ええ。でも、物事には限度というものがあるでしょう? クレアの助言は有り難いけれど、あまりにも人の道から外れていると思うの……」
ちょっと面倒くさいな、という顔をしつつも。クレアは大替案を提示してくれた。
「では、飽きるほど同じ味のクッキーを毎日提供し続ける、とかでしょうか。これがひと月ふた月と続けば、うんざりされる可能性も……まあ、皆無ではないのかもしれません」
「今でも罪悪感で辛いのに、ひと月も続けたら私の心が負けちゃう……っ」
こんな意地悪を何十日も続けたら、先にフィリアの神経が参ってしまう。
「天性の聖女の精神をお持ちのお嬢様に、伯爵様がうんざりするような嫌がらせをなさるのは、天地がひっくり返っても無理ですよ」
わかりきっていたことだと、クレアは言う。
フィリアははあ、とため息を吐いた。
「わざと嫌われるのって、こんなにも難しいのね……」
「もしかして、もう策が尽きました?」
「こ、これから考えるもの」
意気込むフィリアを見て、クレアがちょっと考えた後に言う。
「伯爵様はお優しい方のようですし、監視役を降りてお嬢様を監獄塔送りにするなど、良心の呵責に耐えきれそうにありませんが……」
「わかっているわ。だからセシルさんが罪悪感を覚えなくなるくらいに悪逆非道の限りを尽くして、幻滅される必要があるの」
「そこで至った結論がクッキー攻撃ですか。お可愛らしい悪逆ですね。塵も積もればなんとやら〜と言いますが、お嬢様の嫌がらせは塵にも満たなそうです」
そう言って、侍女は肩を竦めるのだった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
世間では、悪逆が過ぎて最後には断罪される悪女の物語というのが流行っているらしい。
暇を持て余す手段として大衆小説をおすすめしてくれた、伯爵家の使用人からの情報である。
これは最高のお手本なのではと、フィリアはさっそく小説を取り寄せてもらい、嫌われ悪女の参考にすべく、物語に目を通した。
ところが、作中の悪女とやらはどれもこれも行いがひどくて、到底フィリアが実行に移せる手段というのは存在しなかった。使用人を苛めたり、散財したり。そんなのは現実的じゃない。
結局、フィリアは自己流で悪女を目指すしかなく。
セシルから嫌われようと、本日も伯爵邸のサロンで彼と午後のお茶を一緒していた。
伯爵家に居候するようになってひと月近く。流石に毎日突撃するのは心が折れて、彼とのお茶は三日に一度の頻度に下がっていた。その日の気分に合った焼き菓子を作り、セシルをお茶に誘うのはすっかり日課である。
本日のお茶請けはこんがりと焼き色のついたフィナンシェである。お決まりのクッキーでないのは、これも同じ物ばかりを出すのは心苦しくなったからである。
すっかりお馴染みとなった時間に、フィリアはセシルとの雑談でふと、気になったことがあった。
「ねぇ、セシルさん。実は気になっていたことがあるの」
「どうしたんです、やぶからぼうに」
フィリアは透き通ったセシルの瞳を見つめながら、かくりと首を傾げた。
「セシルさんに『貴女』以外で呼び掛けられたことがないなあって」
彼はただの一度も、フィリアを名前で呼んだことがないのである。
「あー……」
押し黙った彼は珍しく、硬質な美貌に弱ったような色を浮かべ、頰をかいた。
「セシルさん、私の名前を覚えていない?」
「そんなはずないでしょう」
セシルは心外そうに眉根を寄せた。フィリアはほわほわと微笑む。
「私は聖女様と呼ばれることがほとんどだったし、セシルさんが忘れていたとしても腹を立てたりしないわ。正直に言ってくれていいのよ?」
「フィリア・クローゼさん」
丁寧に名前を呼ばれて、フィリアはパッと瞳を輝かせた。
「覚えていてくれたのね!」
「どんな薄情な人間だと思われているんですか……」
頭を抱える彼に、ふるふると首を横に振ってみせる。
「セシルさんを薄情だと思ったことなんかないわ。ただ、それ以外に理由が思い浮かばなくて」
すると、セシルが困り果てたという顔で呟いた。
「貴女のことをどう呼ぶのがしっくり来るのか……俺の中で、正解がわからないんです」
フィリアは今でも聖女の称号を有している。だが、現状のフィリアに聖女という呼称が相応しくないことは確かだ。今のフィリアはただの引きこもりである。
これまで聖女様、と呼び掛けていた相手をどう呼べばいいのか、セシルは戸惑っているらしい。
「セシルさんが呼びやすいように呼んでくれればいいわ」
フィリアでも、フィリア嬢でも、クローゼさん、でも。本当に、なんだって構わない。
いくらか躊躇ってから、セシルの唇から音が紡がれた。
「フィリア」
「はい」
呼ばれて、フィリアはニコニコと返事をした。すると。
「……さん」
セシルが、困ったようにそう付け足した。
ぱちぱちと長いまつ毛を瞬かせたフィリアは、次いで、ふふっと口元を綻ばせ。そして、はにかんだ。
「ありがとう。嬉しい」
セシルの中では、どうにもフィリアを呼び捨てることが難しいらしい。それはきっと、彼がフィリアにとてつもない敬意を抱いてくれているからに違いなく。
とても光栄で、嬉しいことだった。
そんな、セシルとの和やかなお茶会を終えて自室に戻ると。侍女のクレアがあら、と目を瞠った。
「ご機嫌ですね、お嬢様」
一目見てわかるほどに、フィリアはご機嫌だったみたいだ。
「あのね、セシルさんが私を名前で呼んでくれるようになったの」
「微笑ましいご報告ですが、よろしいのですか?」
「え?」
きょとん、と目を瞬かせる。
「伯爵様にとことん嫌われて、屋敷から追い出されるのがお嬢様の野望なのでしょう?」
「……」
少しの沈黙の末に、フィリアはハッと我に返った。
「忘れていたわ!」
彼とのお茶があまりにも心落ち着くものだったから、すっかり失念してしまっていた。
「よくないわ。私はセシルさんから嫌われないといけないのに。セシルさんがいい人で、ついつい忘れちゃう」
気を引き締めて、決意する。
「明日から、明日から頑張るわ」
「明日から、はだいたいやらないですねー」
「そんなことないもの。聖女に二言はないんだから」
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
聖女に二言がないことを証明するため、フィリアはその日の夕食後、セシルの私室の扉を叩いた。
「こんばんは、セシルさん」
彼にとっては意外な訪問者だったのか、ちょっと驚いたような顔だった。
「俺に何か用が?」
「あのね、明日の朝食なのだけれど。よかったら一緒に召し上がらない?」
「朝食、ですか? フィリアさんがそうしたいのでしたら」
あっさり承諾が返ってきて、フィリアはびっくりした。
初日に彼はなるべくお互い干渉しないで生活しましょうね、と言っていたから、てっきり渋られるものだとばかり。
嫌がる彼に強引に承諾を得る、はた迷惑な同居人になる作戦だったのだけれど。
「本当に、いいの?」
「ええ。構いませんよ」
念の為に確認しても、セシルは嫌な顔一つしなかった。
そうして、翌朝。
前日の約束通り、フィリアはセシルと共に朝食を摂っていた。
洗練された所作でオムレツを切り分ける彼を、じぃ〜っと眺めながら。
フィリアはこの時間を利用して、どうにか彼からの好感度を落とせないかなと算段を立てていた。
(たくさん話しかけてお食事の邪魔をする、とか?)
名案に思えたのも束の間、はっと気づく。
(いえ、でも……セシルさんは疲れているでしょうし、せっかくのお食事を台無しにするのも……)
暇人なフィリアと違って、セシルは屋敷でこなせる仕事を王宮から割り振られているのである。
なんてことを、悶々と悩んでいると。
フィリアの熱い視線を受けて、とうとうセシルが困り顔になった。
「……あの。そんなに見つめられると食べにくい、です」
「あ、ごめんなさい」
嫌がらせとしては機能しているが、食事の邪魔をするのはよくない気もした。
フィリアは慌てて視線を外して、自身も食事に手をつける。
オムレツを切り分け、口に運ぶとふわふわの卵の優しい味に、頬が綻んだ。
「お口に合いますか?」
「ええ、とっても美味しいわ。伯爵邸のお料理は何を食べても美味しくて、幸せ」
「当家の料理どうこう関係なく、フィリアさんは聖女時代から何を食べても幸せそうにしていた気がしますが……」
フィリアはぱちりと目を瞬かせる。
「確かに、私は元々お食事自体が大好きだけれど。どうして知っているの?」
「任務が重なった時は目に入っていましたし、聖女様の話題は自然と耳に入ってきましたから。幸せそうに食べてくれるからついつい餌付けをしたくなる、とか」
「私、食いしん坊な聖女として有名だったの?」
愕然とする。
「食いしん坊とまでは」
クスリと笑うセシルに、フィリアは意外な想いだった。
「あまり関わりがなかったのに、セシルさんは私のことをけっこう知っていたのね」
「……まあ、自然と耳に入ってきますから」
そうは言っても、だ。
「なんだか、私がセシルさんのことをよく知らないのが申し訳なくなってくるわ……」
しゅん、と肩を落とす。
「俺について知りたいことがあるなら、お答えしますが」
「知りたいこと……」
何かあるかしら、とフィリアは考えてみる。
「………」
「…………」
長い長い沈黙の末に。
セシルがぼそりと言う。
「俺に興味ないですよね」
「違うの違うのっ! 急だったから思い浮かばなくて……っ」
慌てて弁明すると、セシルがくすくす笑い声を立てた。
「すみません、冗談です。気になることができたら都度、聞いてください」
特に気にした様子なくそう言って、セシルがオムレツを一欠片、口に運んだ。
そう言われても。ここで何も尋ねないのは、なんだか本当にセシルにまったく興味を持っていないかのようで、人でなしの所業に思えた。
うんうん唸りながら、何かないかしらと考え込んだフィリアは。
「……あ。あったわ、気になること」
そういえば、と思いついた。
「セシルさん、こうやって私がお食事に誘うの、迷惑じゃない……?」
不機嫌になるでもなく、会話に付き合ってくれるセシルの態度はフィリアの想定とはまったく異なるものだった。
セシルが怪訝な面持ちになる。
「どうしてまた、そんな風に思うんです?」
「最初にご挨拶した時におっしゃっていたでしょう? 自分の屋敷で無駄に気を遣いたくはないから、互いに干渉することなく気楽に過ごしましょうって」
当日の会話を思い出そうとするかのように、考え込んでいたセシルが――あ、と呟いた。
「すみません。あれは、ああ言っておいた方がフィリアさんが俺の存在を気にせず自由に過ごせるかと……。流石に、言い方が悪過ぎましたね」
どうやらフィリアが気兼ねなく屋敷で過ごせるようにという、セシルなりの配慮だったようだ。
「俺は迷惑でもなんでもありませんから、これから食事は一緒に摂りますか? 部屋で一人で食べるのも味気ないでしょう」
「いいのっ?」
思わぬ申し出に、フィリアはぱっと瞳を輝かせた。
「フィリアさんの負担にならないのでしたら」
「ううん、嬉しいっ。一人より二人で食べた方が食事は美味しいもの!」
「……ですね」
新しい取り決めができて、二人はほのぼのと微笑み合うのだった。
食事を終え、自室に戻るフィリアの足取りは軽かった。
これから毎日の食事時が楽しくなりそうで、上機嫌で歩いていたフィリアは――ハッと気づく。
(セシルさんに嫌われないといけないのに、喜んでいる場合じゃないわ……っ!)
もう〜〜、と自身の迂闊さに頭を抱えたくなる。先日己を戒めたばかりだというのに。聖女に二言はないとはなんだったのか。
(というか、嫌われるどころか、仲良くなっているのでは……っ?)
衝撃の事実に気づいてしまった。
呆然としていたフィリアは、いいえ、とかぶりを振った。
(これから共有する時間が増えるということは、つまり! その分嫌がらせだってしやすくなるということ!)
一歩進んだように見えて下がっているのはきっと、おそらくは気のせいで。計画はちょっとずつ前進しているはず、である。
セシルの自由のために、フィリアはなんとしても、彼から嫌われてみせるのだから。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
なんてことを、うだうだと繰り返し続けた結果。
二人の関係性に新しい名前が付くことになるのだが、それはまだまだ先のお話。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。今後の励みになりますので、ブックマークやリアクション、評価で応援を貰えたら嬉しいです…っ!
異世界恋愛での連載もしております。下にリンクがありますので、よろしければ!