その三
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樹々を避け、藪を掻き分け、足下に注意しながら、既に無くなって仕舞った峠道を登る。いつ羆が出て来ても不思議ではない。しかし最早それも覚悟の上だ。峠の頂では何んな光景が待ち受けているだろうか。何十年も前の、昔のままだろうか。屹度、屹度、そうに違いない。此処は人間の営みから外れて仕舞った土地だから。だから何一つ変わっていないに違い無い。人間が全然汚していないに違いない。そうだ。変わって仕舞うというのは、汚すのだ。変わらないのが、直ちに汚されないという事なのだ。もう直ぐ昔から名前も無かった峠の頂だ。其処からは、其処からは、屹度逈か遠い昔の景色がそのまま見渡せるに違いない。で、どうしてそんな事を思うのでしょうか。何十年も前の光景を、何故期待するのでしょうか。あり得ない事なのに。また仮に本当にその昔の景色が見えたとして、それで一体何が何うなるのでしょうか。自分が辿って来た人生、運命が今から変わる訳でもないのに。
その通りです。人は過去に帰る事は、昔に戻る事は出来ません。恐らくこの峠を登る人も、そんな事は百も承知なのです。でも辿らずには居れないのです。登らずには居られないのです。何故か。それは、その遠い昔の景色に、その遠い昔の時代に、水に渇く様に餓えているからです。最早道理で説明してもその人の耳が聴くのを拒否する程に。それ程魂の欲求が激しいのです。だから『判っていて、それをする』のです。
私にはそういう、心の激し過ぎる渇きがよく判ります。私もそれを感じるからです。本当にそれが得られる得られないなど既に関係がありません。常軌を逸して、常識を外れて、理性を自分で圧し潰して、欲しがるのです。真実に求めるとは、斯かる心術斯かる行動を謂うのではないでしょうか。そして私は人が重要なもの、大切なもの、無くてはならぬものを欲しがる時、斯かる行動をとるのが自然だと思うのです。いや、それを常識に囚われて出来ない人間になって仕舞うなど、全力で拒否します。
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例えば猛烈に綺麗で可愛らしい女性が自分に『好きです』と告白してくれたとしましょう。男性ならば嬉しいでしょう。これは何の果報かと却って訝しく思うでしょう。加えてこれは斯ういう種類の詐欺なのではないかと疑うでしょう。でも結局嬉しがって数日間、道で何も無いのに躓いて転んだりするでしょう。
これが詐欺ではなく純然たる幸運であれば無論それは喜ばしい事に違いありません。しかし今の私なら怖いと感じるでしょうね。そんな綺麗で可愛い、すなわち私以外に幾らでももっと条件の良い引き受け手の想定される人を私が喜ばせてあげる事が出来るのだろうか、と。その為に私は自分の信念を枉げなければならなくなりはしまいか、と。元来、本当は私は一人が向いている人間なのです。そんな事を想いました。
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人はしばしばテクニック、技法を褒めます。けれどもそれが一体何でしょうか。自分が用いて賞賛を博したその技法にせよ、今までに他の誰かが既にした事の僅かな変更変種であるだけではないのでしょうか。それを知らない人だけが激しく手を拍って褒めてくれるだけではありませんか。仮にそれが真正に自分オリジナルの独創であったとしても、それが、その技法があなたを生かす訳ではないでしょう。身に着けている衣服を自慢する様なものではありませんか。
事物事象の価値の核心、その本源に想いを致して下さい。それが良いものであった時に初めて自らを許し、自らに信頼する度合いを増して下さい。実は空虚なものに就いての毀誉褒貶、そんなものに聊かでも心を奪われている間に、唯一無二の大切なものに対する渇仰の信頼に埃が溜るのです。その尊いものに対する不敬ではありませんか。
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自分の事が許せないと感じていて、それで或る日子供の頃に聴いた歌なり曲なりの旋律を耳にする、そんな時、人は堪えられるものでしょうか。私だったら気が狂います。その場に『存在している事が出来ない』と思います。その場から逃げ出すと思います。逃げながら、
「これは絶対に何処に逃げても駄目だ、最早御終いだ」
とはっきり思っているでしょう。絶対というのは斯ういう時の事を謂うのだと思います。
恐ろしい事ではないでしょうか。自分の生活を豊かにする、その為に自分の周囲に運んで来る、或いは建て上げる何かが思いのままに行かないというのではなく、その営みの主体である自分自身が崩れるのです。これには打つ手がありません。方法手順の問題ではないからです。自分を裏切るべきではありません。自分の本心には素直と謂うよりも忠実であらねばならないと思います。
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