その一
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明るい陽射し、好きです。陽光に眩惑されるのは季節を問わず私、大好きなのです。私のその一瞬の当惑、無意識の隙を衝いて何かが私の中に侵入して来る様で。しかし私の中に入って来たものは絶対に悪意のあるものではない気がして。却って私に大切な事を教えに来た気がして。
私が最も心休まる時、それは私が受け身になっている時です。私の意志も自覚も一瞬殆ど全部を失った時に私は何か遠い遠い、そして優しいものと『繋がる』事が出来るのです。
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将棋が強いのは頭が良い事の証明にはなりません。何う考えても頭脳の働きの結果その勝負に勝利する筈であるのに、それでも頭が良いのとは違います。他にもあります。東大卒の人間が人生に行き詰まり、自殺する。普通あり得ないと思いませんか。頭の良い人間なら、諸々危険は察知出来る筈なのに。
人間の幸福は実はそれとは殆ど関係が無いのです。単純にそれだけなのです。大切なものを大切にすべきです。
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どうせ死ぬなら思い切り『楽しみ』ますか。食べて食べて、遊んで遊んで暮らしますか。私なら多分そんな状況になっても殊更に食べも遊びもしないと予測します。いや、死ぬまでに行っておきたい場所を訪うくらいの事はすると思いますが。余命数ヵ月、その宣告を受けたら私なら自分の死の準備を整え、大切な家族に迷惑が掛からない様にあれこれ手配するでしょう。その期間は食べまくり遊びまくるのよりも私にとって安らいだものになると思います。私のしたい事とは、寧ろそちらの方だと思います。
現在の生活がかなりな部分、既に『自分の死の準備』になっている事が望ましいです。それを完全に忘れているよりもずっと素晴らしいと思います。それでこそ覚悟ではありませんか。人間の暮らしとは実は若いうちからその覚悟と共に為されねばならないものではありませんか。そしてその前提を離れれば離れる程人として愚かに、馬鹿になるのではありませんか。そんな気がして仕方がないのです。
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知的なものに私は救われません。それは役に立つ道具であるだけです。だから知的なものは何ら私が『夢中になる』要素をもっていないのです。必要な時に求める、そして用いる、それで御終いです。そこでそれに関する私の一連の営みは終了します。しかし人間の情的なものはずっと私を導きます。在るのか無いのか判然しないものまでも私に信じさせます。計算上では完全に私の『損』なのに、そんな計算を無視せよと私に命令するのみならずその行為の敢行を厳格に指示します。そして私は事の成否と関係無しにその命令指示に従う事で実際深い安らぎを覚えるのです。
私は『考える葦』ではありません。私は『想い願う葦』なのです。私は想う事願う事に拠って他の生き物と区別されるべき者であると思っています。それが私の本質です。真実に考える葦たる人間が居るならば、それは私とは違う生命なのです。理解し合う事が出来ないのみならず理解し合うべきでもありません。これは既に私の覚悟になっています。
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