深淵
それで、どれほど歩き続けたのか分からない。時間の経過を感じるものもなければ、時計もないからしょうがない。いや、街中で建物の壁とかに付いているものは見かけた。ただ、それは十二時ぴったりを指していた。明らかに不正確だろう。それにしばらく見つめていても、長針も短針も動きをみせなかった。こんな世界で時間を知りたいなんて、無意味なことなのかもしれない。
あの間延びしたチャイムの音は、気がつかないうちに鳴りやんでいた。またしても静寂と耳鳴りのやっかいになるわけだ。
疲労は感じていた。当たり前だ。ずっと歩き続けている。とまあ、だけど不思議なことに極限状態とまではなっていないような感じだ。
ようやく、海沿いへ出る道を進んで浜辺が見えるところまできた。
その浜辺の少し先からは、真っ黒い、漆黒の海が広がっていた。いや、海というよりも、巨大な黒い穴がひろがっているみたいに思えた。
近づくにつれて違和感が大きくなる。打ち寄せる波もなく、風もなく、なんの音も聞こえなかった。それに、あの海独特の匂いも感じられなかった。
それで浜辺のようすも、これまで見てきたところと同じだった。打ち上げられたゴミとかも無ければ、流木の類もまったく無かった。生活感も自然も感じらない。
それでいて浜辺の少し先は真黒。
あたりをうろついて、ようやく落ちている小石を一つ見つけた。手に取って、目の前に広がる深淵のような海へ向かって思いっきり投げた。
放り投げられた小石は、そのまままっすぐと、その黒くなっているところへ向かって落ちていった。視界からいなくなるまで、ただ落ちていった!
目の前の景色は、黒い色をした海なんかじゃない。空っぽな闇が広がっているだけみたいだ。墨汁のような海じゃなくて、なにもない空虚だ。
ここが地獄でなくて、異世界だったとしても、少なくともこの島国の外へ出ることなんてできやしない。
なにかあるかもしれないと思って来てみたら、なにもなかった。文字通り、空虚だ。
あてもなく海沿いの道を少し進んだところで、古い民家の一つが気になった。特に理由はない。ただなんとなく目に留まっただけ。
玄関は引き戸で、いかにも日本の古い家って感じだ。もちろん、ここもこれまでと同じだ。カギもかかっていない、誰もいない、家具も何もない。
畳の上に寝そべった。食欲もなければのどの渇きも感じなかったが、疲労感がないわけじゃない。
なんとなく昔の、ガキの頃の記憶、祖父母の家に行った時のことを思い出す。
畳の質感、家の中で感じる独特の匂い……
ハッと気がついて起き上がった。俺はどうやら、少しばかり寝ていたらしい。思わず窓の外に目を向けたが、そこには変わらぬ赤紫色の空が見えた。
なにか音が、遠くから鳴っているような気がした。俺は起き上がって、外に出た。
ひどく間延びした音楽? チャイムが聞こえていたときみたいな感じで流れている。夕焼け小焼けだ。たぶん、そんな気がする。まあ……わかったところでどうでもいいけど。
とりあえず、また浜辺のほうを見てみようと思った。堤防の先には浜辺があったはずだが、なくなっていた。堤防の上から漆黒の深淵を覗くことができた。
なにもない暗闇。
ああ、簡単に想像できる話だ。深淵に向かって、浜辺の砂がこぼれ落ちていったんじゃないかと、そういうことだ。
それで、堤防から離れて、また道を進もうとしたとき、その道路と浜辺を隔てていた堤防が音もなく消えた。消えた? いや、たぶん、落ちたんだ。
どこへ? 考えることでもないな。そりゃ深淵の中へ。
俺は慎重に近づいて、下を覗き込んだ。何も見えない深淵。とてつもなく、嫌な予感がした。この深淵は、少しずつ陸地を飲み込んでいるのか?
それがどれくらいのスピードなのか、俺の知ったこっちゃないけど、とりあえず今はまだ自分から進んで落ちるような真似をする勇気はない。
とりあえず、海……じゃなくて、この深淵に背を向けて、また陸のほうへ向かって歩くことにした。海岸線の道を進むのだけはやめておこう。仮に選択肢が無くなるのだとしても、まだ深淵に落ちるような気にはなれないし、そんなつもりはない。
だが、どこへ向かえばいいってんだ。アパートに戻るか? 戻ったところで何もないけど。
じゃあ、実家に向かってみるか? どうせそこも抜け殻のような建物だけで空っぽなんだろうけど。
なにを俺は考えているんだ。実家に戻るにしても、二つも県をまたがないといけないんだ。
車も電車もなければ、バスもない。バイクや自転車だってない。あるのは自分の足だけ。それでどうやって? 歩いて向かうなんてバカげている。が、結局はその場でじっとしていても、なにかが変わるわけでもなかった。選択肢はあるようでないのかもしれない。
高速道路に入り込んで、道を進んだ。誰もいないし車もいないなら、この道を進むのが早いかもしれない。
ただ、そうして進んできて、最初の難関にぶち当たった。
トンネルのことを忘れていた。これまでどおり、ここも明かりなど付いていない。そこには真っ暗な穴が開いているだけだ。
結局は中を進んだ。壁に沿って、歩数を口に出して数えながら進んだ。少なくとも声を出せば、音が反響して、自分がちゃんとトンネルの中を進んでいるという自覚を持つことができた。
数えている数が分からなくなって、何度も一から数え直した。そのうち数えるのが面倒になった。でもとにかく何か喋り続けた。でないとこの真っ暗闇のトンネルなかでは気が変になりそうだ。
好きなアニソンを歌った。これまでの人生の不満について怒鳴り散らした。愚かな自分を罵った。母さんと父さんのことを考えたり、数少ない少ない友達のことを思い出したり、いろいろと昔のこと、過去のことを思い出した。なんだか泣けてきた。これまでの人生に感謝して、真っ暗闇の中に向かって謝った。左右足を動かすたびに、「右!」「左!」というだけの掛け声をだして進むだけになった。
そして途中で耐えられなくなった。俺は引き返した。走った。もと来たほうへ走った。
この長いトンネルから出たときには、ほっとした。生き返るような思いというのは、きっとこういう気分のことなのだろう。それと、こんな真っ暗なトンネルの中を進むのはもうごめんだ。同じような状況を繰り返したりしたら、たぶん心が折れる。
じゃあ、どうする? 実家は田舎だ。道路を歩くにしても、鉄道の線路をつたって行くにしても、トンネルはいっぱいある。避けるなら山を越えなきゃいけない。もうこの考えはやめた。どうせムリだ。ムダだ。
ああ、もう、この世界がどうなっちまっているのか? どうでもいい。でも、せめて遠くを見渡したい……んじゃあ、東京タワーにでも向かうか? 少なくとも実家を目指すよりはるかに近い、はずだ。
またしても当てもなく歩く。とりあえず、都心のほうへ向かって。
* * *
ほんものの絶望という感覚を初めて知ったような気がした。
結局、都心まで歩くのも耐えられなかった。とりあえず目に付いた大きなマンションに入り込んでその屋上まで登った。とりあえずここからなら、周囲の景色とか、遠くには富士山とか、そういうのが見えるかと思っていたが、見えるはずの景色は……
あの暗黒が、あの深淵が迫っていた。遠くに見えている建物の一つが、スーッと沈むようにして消えた。そしてまた一つ、少しずつ……あきらかに、俺のところに向かって、深淵は迫っている。
空は相変わらず赤紫色で、どこまでも続いている深淵と、きれいにグラデーションで繋がっていた。もはや俺が求める場所も、行くべき場所も、この地上には残されることなんてないのだ。
俺は反対側の景色も確かめた。似たようなものだった。逃れられない。はじめから分かっていたことなんだ。
最終的には、深淵に飛び込む以外に選択肢はない。
俺はマンションから下りて外へ出た。それから向かった。深淵の迫ってくるほうへ。
ここまでくればヤケクソみたいなものだ。そもそもこうなる前に、自ら死を選んだんじゃないのか! そもそも、ここがあの世か地獄か知らんけど、かまうもんか! 行ってやる。深淵に飲まれるのを待つくらいなら、飛び込んでやる!
深呼吸して、飛び降りようとしたとき、地面が沈んだ。
あっという間に赤紫色の空が見えなくなった。周囲は完全な闇。鼻先にかざしてみた自分の手すら見えない。なんの音も聞こえない、完全な無音。それでそのうちに、落下している感覚まであいまいになって、ただただ、なにもない空間に浮遊しているだけのように感じた。ほんでもって、息を吸っているのに、まったく息が吸えていないような感じ。次第に手足も、まるで溶けていくかのような感覚にまで襲われた。
ああ……分かった。完全に理解した。ほんとうに
“死”
とはこのことだ。と思った瞬間、全身に強い衝撃を感じた。
気がつくと、白く明るい部屋に寝ていた。ああ、ベッドの上に寝ているな。それで今度は、知らない天井が見える。
ただ、なんとなくわかった。たぶん病院だ。病室のなか。
ゆっくりと起きて、部屋の中を見た。
病院の大部屋の病室みたいなところだったが、俺以外に誰もいない、それになにも無い。部屋には俺と、俺が寝ていたベッドだけ。既視感と違和感と、なにか不気味な、居心地の悪いような嫌な感じの感覚みたいなものに自分の背中をなでられたような感じがした。
誰も来そうにない。たぶん、待ち続けても誰も来ないだろう。ただ、カーテンの無い窓の外は、夏の日の昼間みたいに明るかった。
「これは……二回目か?」
いや、もしかすると、これから何度でも似たようなことが繰り返されるのかもしれない。俺一人だけ。ここは無間地獄か? これが地獄というものか?