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黄昏

そして気がついたときには、俺は床の上で、仰向けに寝ていた。見えているのは、知らない天井というわけじゃなかった。

 見覚えのある天井のシミ、それと無地のクリーム色の壁紙も、味気ないものだ。


 ところで、首を吊って死ぬときに重要なのは、意外かもしれないが、自身の身長よりも高さがある場所で吊るということじゃない。高さなんて、ふだん使っているベッドの脚の高さほどでもじゅうぶんに足りる。じっさい、ドアノブの高さで死ぬ奴もいるわけだ。

 それで、なによりも大切なのは、ロープそのものと、それを引っ掛けるところの強度というわけだ。首の動脈の血流を止めるだけなら、ほんとに最低限であればいいってこと。

 それから手足を適当でもいいから、多少は縛っておくのもよいかもしれない。意外と人間の身体というのは、無意識でも派手に暴れたりすることがある。

 ここでついでに、アイマスクでもバンダナでも、なんでもいいから目隠しをしておくこともお薦めするとしよう。顔面が力んだような感覚になった状況で、ぼやけながらチカチカとしていく視界を直視するのは、なんとなく恐怖と、後悔に似た感情があおられるというものだ。

 あとそれからロープについては、ドラマや映画とかで見るような立派な縄でなくてもいいのだが、だからといって安物のベルトとか、家電とかの電気コードなんてものを使うのは絶対にやめといたほうがいい。まあ未遂で済ませたいと考えるのならば、それはそれでかまわないのかもしれないけど。どのみち完遂させたいのなら、失敗のリスクは小さくしておくほうがいい。

 とはいっても、手頃な太さで、丈夫な素材で、結んだときにほどけにくいロープというのはなかなか身近にあるものじゃないというのも事実だ。そこでお薦めなのは、太めの靴紐とタオルだ。靴紐というものは意外と長さがあるし、丈夫だし、結び方だけちょっと気をつければ、簡単にほどけるような心配もない。意外とイケるというものだ。

 それでまずはタオルを首に巻いておいて、その上で靴紐を使って首を吊る。これなら紐が食い込んで痛い思いも少なくて済むというわけなのだ。

 そして首を吊るときは、なにも最初から息が止まるようなほど巻き付けなくてもよい。首のどの位置に掛けるかというのにもコツがいるが、まあとにかく、動脈の血流を絞ることができれば、苦しむ前に意識が飛んで、ほぼ確実に死ぬことができるはずである。


「あーあ……まーたしくじったか」

 俺は口に出して呟いてみた。声はむなしく部屋に響く。それで、さっきからの違和感に気がついた。

 天井に付いているはずの照明がない。ゆっくりと起き上がって部屋の中をぐるりと見回した。古くて狭い、薄汚い生活感のあるワンルームの一室……のはずだった。

 先程まで首を吊るのに使っていたはずのベッドも、そのほかの家具も家電も、なにもかも無くなっていた。部屋の中はがらんどうだった。

 カーテンも無くなっている窓の外には、黄昏のような、あるいは夜明け前のような、なんともいえない蒼っぽい感じの色味を含んだ暗い赤紫色の空がみえていた。

 首を吊るのに使っていたタオルと靴紐は、そのまま首に巻き付いていた。それと服装も最後に着ていたものだった。


 俺は……たぶん、死んで、ここの地縛霊にでもなっちまったのだろうな。

 なんとなく、そんなふうに考えが浮かんだ。しばらくぼんやりと、窓を見つめた。それから這うようにして窓に近づいて、開けた。

 立ち上がって、ベランダと呼ぶには憚られるくらい狭いスペースに出て、外を眺めた。狭い通りに面していて、住宅や他のアパートとか小さな商店みたいなのがひしめくように並んでいる道だ。

 だが、なんの音も聞こえなかった。誰の姿も見えなかった。赤紫色の空だけが街を静かに包んでいた。

「なんだ、こりゃ」

 不気味だった。動くものも見えなかった。通りの先のほうには、うるさいくらいひんぱんに鳴っている電車の踏切が見えるのだが、今は沈黙していた。人の姿どころか、鳥も虫も、空は雲も月も太陽も、それどころか星の光さえ見えなかった。

 なんとなく息が詰まるような感じがして、玄関ドアへ向かった。ドアのカギはそもそもかかっていなかった。それと当然のことなのかは知らないが、玄関の棚からは靴もなにも無くなっていた。

 ドアノブに手をかけると、いつも聞き慣れた蝶番の軋む音とともに開いた。廊下にも人の気配はなく、照明も灯っていなかった。

 見慣れているはずの景色なのに、まるで見知らぬ場所に迷い込んでしまったような感覚がした

 ここでようやく首に巻いていたままの紐とタオルを取った。どことなく首の皮膚がヒリヒリする感じがした。

 俺は、ほんとに死ぬことができたのだろうか? 今、この見ているこの景色は、死にゆく間際の一瞬の世界で、ある種の幻覚のようなものなのか? あるいは、これが俗に言うあの世、死後の世界。それとも、ここが地獄と言われるところなのだろうか?

 ああ、そんなことを考えても無駄なのだろうな。どのみちここは、自分の知っている現実の世界などとは到底、思えない。

 深く考えるようなことする前に、となりの部屋のドアノブに手をかけた。ドアはかんたんに開いた。カギはかかっていなかった。そしてこの部屋も同じように、家具も何もないがらんどうの部屋だった。

 それから両隣の部屋とも、その隣も、自分が住んでいる階のすべてを確かめた。空っぽだった

 次に道の向かの建物に向かった。表は細長い感じの三階建ての戸建だ。たしか、典型的な感じのする子連れの夫婦が暮らしていたと思う。

 そして、やはりというか、思ったとおり、玄関にカギはかかっていなかった。ほんでもって俺のいたアパートと同じように、家具も何もない、新築状態みたいな感じだった。もちろん、人がいるような気配はなかった。

 それから近所の別のアパートとかにも入り込んだが、同じだった。人の気配もない。家具も何もない部屋ばかりだった。

 いったいぜんたい、これはどういうことなのか? 夢にしては、それはそれでおかしい。ものに触れたときの感覚、周囲の空気感……鮮明だ。現実みたいに。


 どうせ、誰もいないと想像がつくのだが、よく寄っている近所のコンビニへ行ってみることにした。

 それで靴もなくなっているのだから、裸足で歩くほかないのだが、アスファルトの上を素足で進むということが、こんなにも痛みを感じるものだとは、知らなかった。この痛みもまた、現実感のあるものだ。

 街中も、建物の中みたいに、普段は目にするはずであろうものがなかった。飲食店とかの店先の看板、壁の落書きやポスター、自転車に車やバイク、道端に落ちているゴミや生えている雑草。

 さらに自販機なんかは、ガワだけが置いてあるという感じで、中に並んでいるはずの缶やペットボトルのサンプルすら無いというありさまだ。

 ほんでもって、こうした状況では当然のことかも知れないが、どこも明かりが灯っていなかった。暗くて困るほどではない。だからといって、赤紫色の空に対して街灯すら沈黙しているというこのザマでは、ちょっとした路地とかそういうところの周囲をうかがうのに不便だ。無機質的な不気味さ? みたいなものを感じる。

 まあ、じっとしてもなにかが変わるとは思えないし、とりあえず俺は街のなかを進んだ。

 それでようやくコンビニのところまで来た。まずもって、正面の自動ドアが開かない。多分、照明以外の電気もないんだろうことは容易に想像がつく。それに店内も暗く、商品棚に商品は無いようだ。

 いずれにしても、どれもこれも大なり小なり予想ができた範囲内だ。誰もいない、なにもない、俺ひとりだけ。

 俺はその場に座わりこんだ。答えの出ない問題に頭を悩まして、それでなんになるっていうんだ?

 それから、ずっと手にしていたタオルを引き千切って、それぞれの足に巻いて、その上から紐で縛った。靴のかわりだ。これなら、素足でアスファルトの上を歩き続けて足の裏を血まみれにすることにはならないだろう。


 今度は近くにある小さな公園に向かうことにした。時間帯によっては、よく小学生とかが遊んでいたり、老人がたむろしいたりするのをみかけることがある場所だ。

 そんなところにわざわざ向かう必要があるのか? まあ、あの公園には水飲み場がある。とりあえず歩き回って疲れた。それに、のどが渇いたような感じもする。

 それで公園までたどり着いて、敷地内に入ってからまっすぐに水飲み場を目指した。が、やっぱりというか、なんとなくの悪い予感は的中した。公園に来て、水飲み場までたどり着いたが、その蛇口をひねったところで、一滴の水も出てこなかった。食い物はなし、水もなしときた。とまあ、仮にもここが、ほんとうに本物の地獄ならば、まだこのくらいの仕打ちなら優しいほうなのかもしれないな!

 とりあえず、近くにあったベンチに向かい、そこに腰を落ち着けた。

 生きることを終わらせてしまえば、なにも考えることをしなくて済むかと思っていた。この状況は、なにかの罰なのか? だとしても、誰が与えるというんだ? 仏様か? 神様か? それともこの世界を造った創造主か?

 いや、自分の死が今の時点で、ほんとうに確定しているのか、それも疑問のように思えてきた。我思う、故に我あり。俺は、この状況に困惑して、あれこれ考えている。こうしてここに存在しているわけだ。

 あるいは、別の考え方もできるかもしれない。人類は時間というものについての答えを見つけ出せていない。もしかするとほんとに、死の間際の意識が、ほぼ無限に引き延ばされた時間の中で、こんな奇妙な幻覚を見ているだけなのかもしれない。

 そもそも死とは、いったいなんなのだろうか?

 あるいは単純に、首を吊って死んでやろうとしたところから、そもそも夢をみているのだろうか? それともやっぱり、単純な幻覚で、実は俺はどっかの病院の精神科病棟の保護室のなにでもいるのかもしれない。

 まあ……そんなことは想像したくもないし、そもそも、これはリアルすぎる。まるで現実みたいだ。

 ベンチに寝そべって、空を見上げると相変わらず赤紫色の空があって、星も太陽もなく、ただ静寂が世界を包んでいる。そういったような感じだ。そうだ、風も吹いていない。ふつうなら、こうして公園のベンチで休んでいれば、多少でも木々の葉っぱが揺れる音とかが聞こえるものだ。

 やはり、何も聞こえない……いや、意識して訊こうとすると、なんとなく耳鳴りが聞こえるような感じもする。どっちにしても不快な感じだ。

 そして唐突に考えが浮かんだのだが、なんとなく海のほうを目指そうと思った。街のほうじゃなくて、浜辺がある海のところへ。理由はなんなのか分からん。理由なんてどうでもいいな。考えてもムダだ。なおさら、こんな意味不明な世界なら。


 海を目指すために、とりあえず国道沿いに出てみたが、やっぱりというか当然というか、車も走ってなければ、人っ子ひとりもいなかった。立ち並ぶマンションや住宅、コンビニ、全国チェーンの牛丼屋とか、学校に交番、スーパーマーケット、カーショップや小さな工場、それに電車の駅……どこも無人。ただ、道があって建物が並んでいるだけ。まるで実寸大の模型が並んでいるみたいだ。自分が精巧な箱庭の中にでもいるみたいな気分になるような、そんな感じがする。

 車とかバスとか、乗り物の姿が一切ない。せめて自転車かキックボードなんかでもあれば、少しは移動が楽だというのに。

 それで思わず、途中で見かけたホームセンターに向かった。もしかしたら、自転車くらいあるかもしれないなんて考えた。まあ、甘すぎる考えだ。砂糖や甘味料なんかよりもびっくりするほど甘い考えだ。

 ホームセンターの資材売り場の大きな出入口が、ぽっかりと黒い四角い穴が開いているようにもみえた。そりゃ、そもそも店内は真っ暗だ。少し入ってみたが、奥の方なんて見えない。どのみち、ここも他と同じように、店内は何もないように思えた。自転車でなくたって、荷物を運ぶ台車でもあれば、喜んで移動に使うつもりだったのだが。


 しょうがないので、ひたすら歩き続けた。今なら車道のど真ん中だって、悠々と歩くことだってできる。

 身体のほうは不思議と、疲れているような感じはしないのだが、気持ち的に、精神的な疲労が、あるいは苦痛にも似た感覚が、まとわりついているような感じだ。不思議で奇妙で不快な感じ。まるで浮遊しようとしているのに、地面に対して手足を縛られているような……うまく説明できない。

 ともかく、しばらく無心で国道を進んでいると、大きな橋にさしかかった。

 橋の上を進み、途中で欄干にもたれかかって下を覗いてみた。だが、みえるはずの川はなかった。もっと正確には、川に水が流れていなかった。まるで干上がってしまったみたいだ。ただ少なくとも、こんな状況なら三途の川とかを渡るようなことにはならないかもな。

 橋を進んでいると、どこからともなく、四方から、遠くから、なにかの音が聞こえた。

 立ち止まって、よくよく耳を澄まして聞いてみれば、ひどく間延びしているチャイムの音のように思えた。

 しばらく手すりにもたれかかって聞いてみたが、止む気配がなく、ずっと鳴っている。いつまで続くのだろうか? まあ、ただなんの音も聞こえない静寂の中を、ただ歩き続けるよりは、多少は気がまぎれるというやつだ。

 そういや、あのチャイムの音っていうのは、ウェストミンスターの鐘とかいうタイトルの曲らしい。こんな雑学、ここで思い出したところで何の役にも立ちやしないけど。

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