1-9 散策
ジーノが椅子から身を乗り出してスランに言う。
「お父様。そうであれば私、ソラ様がお使いになる日用品を用意したいのですが」
「だったらジーノには今日一日、ソラ様についていてもらおうかな。お買い物のついでにぐるりと村を見てもらうのもいいと思うんだ」
「え!? そんな自由に行動してしまっていいんですか? 自分で言うのも何ですが、私は余所者ですよ」
「ええ」
スランは屈託のない笑顔を浮かべた。
「貴方は悪い方ではない。そう信じると決めましたから」
スランは年の功か、ソラの人格を把握していた。自分を誤解されるのが我慢ならない彼女だから、今のように言えばある程度の行動を制限することができる。
のんびりして見えて彼は実に強かだった。さすがは村の福利厚生を担う人物である。
「そうそう、北の峠手前には湯の花小屋と小さいながら湯畑がありますので、ぜひご覧になってください。ソルテの温泉は王都でも有名なんですよ。広場前の宿では無料で足湯を楽しめますし、もしでしたらそちらにもお立ち寄りを」
あるいは全ての行いが正道となる定めの天然なのか。興奮気味に故郷自慢をするスランには打算の「だ」の字も見て取れなかった。
彼につられてジーノも気分を高揚させ、テーブルの上に放置されていたソラの手を握った。
「では、ソラ様は私と一緒にソルテ観光で決まりですね。不肖ジーノ、張り切ってご案内いたします!」
「あの……、エースくんもこういうノリでいい感じなんです?」
「まずは互いをよく知ることが大切ですから」
「そっか。キミもそう言ってくれるなら、お言葉に甘えるとするかな」
エースの声は穏やかだった。予想外のトラブルはあったが、居間はソラが運ばれてきた当初と近い空気に落ち着いた。雨降って地固まるとでも言おうか、肩肘を張っていたソラは余分な力を抜き、さっぱりとして椅子から立ち上がった。
皆で一緒に家を出て、教会の坂を下りたところでスランと分かれる。彼はこれから村の周囲に危険がないか確認したり、住人に声をかけて回るそうだ。ソラは兄妹と共に村の南西部へと向かうことになった。
ソルテ村の眺めは前に記述した通りで、北は峠を越えて西側の麓へ下りる道となっており、その手前に湯の花を採取する小屋と湯畑が作られている。対して南の道は山の斜面を九十九折りに下るもので、行商など外から人間が来る場合によく使われる。つまりソルテ村の玄関口とはこの南山道であり、客商売の建物は南方に密集していた。
ソラとジーノが向かうのは村に入ってすぐの広場に面した商店で、エースは近くの宿泊施設に除雪の応援として呼ばれていた。雪というよりは細かな氷の上をざくざくと歩いて、ソラはひっそりと建つ家々を興味深そうに眺める。
村の建物はどれも降り積もった雪を下ろす手間がないよう傾斜をつけた屋根に、厚い漆喰の壁と太い柱が特徴だった。一階は落ちた雪で埋まらないよう床を上げ、どの家も玄関まで数段の階段を上がるつくりになっている。煙突から昇る白い煙が灰青の空へ消えていく様はいかにも異国の景観であり、海外旅行の経験がないソラは目にするものひとつひとつに情緒をかき乱されるのであった。
「まるっきり外国だ。こうやって間近にすると、やっぱり異世界に来たんだって実感するなぁ」
大きく開けた口から息をもらして愕然とし、ソラは隣を歩くジーノに尋ねる。
「お聞きしたいのだけど、スランさんが言っていた魔法院とは何なのでしょう?」
「古くは西方カシュニーで発足した、魔法の研鑽を目的とした学術組織ですね。大陸統一の際には現王都を治めていた領主と共に、全土の平定を主導しました」
「閉鎖的で陰湿な根暗集団ですよ」
にこやかなジーノとは対照に、エースは平坦な口調で辛辣な評価を付け加えた。ジーノは困り顔で解説を再開する
「元は研究者の集まりですが、今では政治にも関わる強大な勢力となっています。その勢いには国王陛下も手を焼いてるとか何とか……」
「手を焼いてるんだ……。となると、それほどいい団体とは言えなさそう?」
エースはもちろん、スランにしても魔法院の印象は良くない様子だった。そんなところに報告されてしまうかと思うと、ソラは憂鬱だった。
彼女の不安を察したジーノは正面に回り込み、胸の位置で右手をグッと握りしめた。
「大丈夫ですよ! ソラ様は光の魔力をお持ちなのですから!」
「……、だーよね!」
先々の心配しかない今だからこそ、手放しで励ましてくれるジーノの存在はソラにとってありがたかった。人によっては無責任に感じるかもしれないが、少なくともソラは彼女の明るさに救われていた。元の世界でも、こういう人間がそばにいてくれたら少しは気持ちが違っただろうか。可能性を他人事のように考え、首を傾げた。
何か、心の真ん中に。空洞が広がっているような……。
「ソラ様?」
「え、あっ、ううん! 何ごとも話してみないことには分からないし。あんまり心配しないようにします」
ソラは奇妙な感覚を追い払うべく頭を左右に振る。
あっけらかんとして天を見上げた彼女に、エースが脈絡のない質問を投げた。
「ソラ様はお野菜がお好きですか?」
「ん? 人並みに好きだし、食べますよ。わざわざ聞くってことは、ソルテのご飯は野菜が多めなのかな」
「いえ、その……、ソルテがというわけではなく……」
「お兄様はお肉の類が召し上がれないのです。そして今日はお兄様がお食事当番ですので」
「ああ、そういう。お肉が出ないってこと」
「ジーノが当番なら、俺だけ除けてもらうのですが……」
「エースくんはお肉が食べられないっていうか、その調理ができないの?」
「……どちらもです」
「なるほど」
言いにくそうにするあたり、菜食主義はこの世界でもメジャーな食生活ではないらしい。ソラは動物の肉を食べられる人間だが、エースの習慣に特別な不満を覚えることはなく、すんなりと受け入れた。
「お野菜だけの食事って何気に初めてだから、楽しみにしておくね」
「……ありがとうございます」
エースは恐れ入ったとばかりに頭を下げる。過剰なまでに自責の念を表す彼にソラは慌てた。表情に陰があるとは感じていたが、この青年はどうにも自己肯定が低いというか、自罰的な傾向にある。
思い返してみれば、ソラは彼が笑った顔を見ていない。スランとジーノが朗らかなだけに、一度気づいてしまうとその暗さが際立つ。ソラは何となく、彼の後ろ向きな性格に親近感を覚えてしまった。
沈黙する二人をジーノがキョロキョロと見比べる。
「ええっと……、ソラ様はこの世界に来ることを決められていたわけではないのですよね?」
「そりゃあね。世界を越えるとか、そんなのファンタジーでしょ」
「ふぁんたじい?」
「実際にはありえない幻想、空想の物語ってこと。あるいは妄想」
「であれば、今回ソラ様がこちらへいらしたのは信じられない出来事、ということでしょうか」
「そうなります」
ソラはつくづく頷いた。
ジーノは彼女が置かれた異様な状況を理解し、敬服したとばかりに眉を下げた。
「ソラ様はすごいですね」
「おや? なぜそう思うのでしょうか」
「予期せぬ事態に巻き込まれたというのに、このように冷静でいれるなんて、すごいとしか言いようがありません。私が同じ立場だったらきっと、今も混乱しきりで周りの方々を困らせたと思います」
「冷静とは、ねえ。私としてはどっちかっていうと」
ソラは胸を押さえて、運の悪さを諦める。
「ま、こういうことには慣れっこなんですよ」
「以前もこのようなことが?」
「いやぁ、ワッハッハ。さすがに異世界召喚はこれが初めてだけどね~」
魔物に脅かされながらも必死に生きている者の前で、今回の出来事を「不運」などと表現することはできない。唐突に陽気な口調を装った彼女に、ジーノとエースが同時に首を傾げた。
それがいけなかった。
こてん、と頭を斜めに傾けるだけの動作だが、美形がしたとなると凄まじいものがあった。可愛さと美しさが渋滞して玉突き事故を起こしている。これがゲームであればソラの頭上には「魅了」の二文字が浮かんでいたことだろう。
「ウゥッ……眼福とはまさにこれ」
「え?」
「失礼、ちょっとね。二人のご尊顔がまぶしくて」
ソラは自然と赤くなった頬を手で包んで目をつぶる。空気が冷えているせいもあって顔から湯気が出そうだ。エースはきょとんとしていたが、ジーノは意地悪な顔をしてソラを覗いた。そして互いの目が合ったタイミングでこれ見よがしにウィンクし、にぱっと破顔する。
文句なしにこの世で一番可愛い女の子はジーノである。異論は許さない。
ジーノが天真爛漫すぎて周囲が輝いて見える。少なくともソラの目にはそう映った。同時に、先ほどソルテ観光を勧めてきたスランの姿が重なる。
血はつながらなくとも、縁はつながる。彼らは本当に家族なのだ。
感慨深く思うソラの側頭部を突然、痛みが刺した。内心に意識を向けると、漠然と虚しい思いが漂っていた。
何かを忘れているような……、喪失感がそこにある。
しかし何を失ったのかはとんと分からない。
やがて南の広場に着き、エースはロッジ風の大きな建物に足を向けた。家の周囲には屋根から落ちた雪が積み重なっており、彼はこれを除ける作業に呼び出されたのだった。
「では、俺はここで。ジーノ、ソラ様を頼んだよ」
「はい。行ってらっしゃいませ、お兄様」
「キミもお仕事頑張ってね」
エースと別れ、ソラはジーノに連れられて買い物へ繰り出す。それが済むと目的は観光に切り替わり、二人は村の隅々まで歩き回った。教会へ戻る頃になるとソラは疲れ切っており、内面に巣くう違和感などすっかり忘れていた。