9‐6 私の半分
騒がしい声が遠くなり、ドアを開けないままロカルシュが言う。
「じゃ、私がここの番してるから。何かあったら遠慮なく呼んでね~」
間の抜けた長音がフワリと宙に消え、部屋にはソラとエースが残された。しんと静まった室内でソラがつぶやく。
「とはいえ、さっきまで寝ていたわけだし、あんま眠くはないんだよね」
「お茶でも入れましょうか? 気分が落ち着けば自然と休めるかもしれませんよ」
「それはあるかも。一杯お願いできますか、お兄さん」
「承りました」
エースは調合作業を止め、組み立て式の三脚台と銀のランプを用意する。この部屋は宿舎といっても客人向けなのか、茶器が棚に常備されていた。ポットは直火にかけられるものであり、エースはそれに水を注いで三脚の上に乗せ、マッチで火をつけたランプを下に置いた。乾燥させた薬草の中から茶に向く葉をいくつか選び、ふつふつと沸いた湯の中に放り込む。
煮出された茶葉がポットの中で広がり、湯を黄蘗色に染めた。ソラは茶が注がれたカップを受け取り、香りからしてそれがいわゆるハーブティーであると知る。
「味も何か飲んだことあるな。カモミールに近い気がする」
「おそらくそうだと思います」
そんな返事をするのだから、やはりエースはソラの記憶を見たのだろう。ソラは作業に戻った彼を見て、「不意打ちみたいでかわいそうだけど……」。これからもセナとロカルシュの監視は途切れないだろうし、ケイとも行動を共にするのだから、エースと二人きりになる機会はそうそうないと思われる。
他人の人生を体験した者同士、打ち明けなければならないことがある。ソラは花瓶が乗っているサイドテーブルにカップを置き、いざ先手を取った。
「エースくんも、やっぱり私の記憶を見た感じ?」
「……はい」
「マジ?」
「マジです」
「実を言うと私、未だに家族のこと思い出せないんだけどさ。キミの方で何か知ってることはあるかな? よくない家庭環境だったとしても気にせず言ってくれて大丈夫だよ」
「……俺は、何も。ソラ様のご家族の姿は見ませんでした」
「アー。……そっかぁ」
それはつまり、ソラの過去から完全に「家族」の記憶・記録が消えてしまったということだった。もっとも、ソラにとっては初めから存在しないものなので、悲しいと思ったり寂しさを感じることはない。空っぽな空間に吹くすきま風が寒々しく、何かが足りない喪失感があるだけだ。
彼女はぼんやりと窓の外を眺めて続けた。
「私は、キミが魔法を使わず魔術に頼る理由が分かったよ」
エースも顔を上げず、二人は声だけで相手を探る。
「ええ。俺にはろくに魔力がない、能なしなんです」
「苦手な部分を別の手法で補うのも、才能だと思うけどな」
「いいえ、そんなことは……本当に。ないですから……」
それは謙遜などと軽々しいものではない。幼い頃に自尊心をズタズタに引き裂かれた彼が未だに自分を卑下し続けるのは、引き起こした悲劇を償うための罰である。
「私はあの日の記憶を覚えてる。キミが苦しみ、傷つけられたあの日々を」
ガシャン、と調合道具がテーブルに落ちる。ソラは視線を移し、全身をこわばらせるエースを見つめた。
「キミがやったことは、確かに犯罪なんだろう」
「……」
「でも、私はキミの過去を体験した。だからキミが味わった苦痛も身に染みて、まさにこの身で感じて分かってる」
「……ダメです」
「私は聖人君子じゃない。誰かを裁ける立場にもない。正義を語るほどの信念もないし、そもそもそれを振りかざす質でもない。だから」
「それ以上はやめてください」
「誰も言ってくれなかったこと……キミは口が裂けたって言えないことを、私は口にできる」
「ダメだ!!」
「キミは悪くない」
真剣に、エースに罪がないことを確信して、ソラが意思を告げる。
「彼女があんなだったのは、キミのせいじゃない。絶対に」
「それでも俺は……っ」
「キミはこの先もずっと、悔いて。自分を許せないまま生きていくの?」
「俺の罪は許されていいことではありません」
エースはさっと立ち上がり、部屋を出ていこうとする。いつの間にかベッドを抜け出していたソラがその手を掴んだ。
「待って。行かないで」
ソラは言葉を選んで引き留める。少しも身動きがとれなくなったエースをベッドまで連れて行って座らせた。
「ねえ、エースくん。これだけは覚えておいて」
自分は床に身を屈め、彼の両手を取ってその顔を見上げる。
「私はキミが大切だ」
家族との絆は消え去った。人道を踏み外さないための足枷が消滅したあと、ソラには自らを守るための執着だけが残った。
エースが自分を嫌うなら、ソラは同じ分だけ自分を甘やかすように彼と接する。彼女にとって、今となっては半身のようなものだったから。
「私はキミがどんなでも、愛することができる。何があろうとも決して見捨てはしない」
ソラは胸の間隙に形の異なるピースがはまるのを感じた。
歪んだまま、欠けた部分が埋まっていく。
「いつまでも隣にあって、寄り添うと約束する」
「な、何で……どうして、そんなこと。俺なんかに、言わないでください……っ」
エースとしては、居たたまれないのかもしれない。ソラは涙をこらえきれなくなった彼の隣に腰を下ろし、その悲しみが去るのを待つ。
「どうしようもないよ。キミも私も壊れる前には戻れない。その先で、最善と思う道を行くしかないんだ」
道半ばで悔いばかりを残して終わらないため、どうすれば望む未来に手が届くのか。
ソルテ村でミュアーと交わした約束が反転して戻ってくる。あの時は本心で、命ある時間を全力で生きれば自ずとよりよき死を迎えられると思った。しかしそれは逆なのかもしれない。終幕に理想を求めるからこそ、ソラは今を正しく生きられるのではないか。
きっとこれは健全な思考ではない。ひどく後ろ向きで、見るに堪えず、退廃的で不健康な人生観に違いない。だが、少なくとも今のソラにはそれが最善に思えた。
額に銃を突きつけられ、いわれのない憎悪で死を望まれたあの時。ソラはまだ死にたくないと思った。こんな終わり方があってたまるかと、拒絶を原動力に足を踏み出した。
悔い少なく、恨み恨まれることなく、惜しまれて死ねたのなら本望だ。その全てが叶わないのだとしても、追求を諦めることはできない。そうして走り続けなければ、生きた意味がなくなってしまう気がした。
「……」
ソラはサイドテーブルに手を伸ばし、冷めてしまった茶を飲み干した。カップの縁をなぞっている間にエースは静かになった。腫れぼったい瞼で瞬き、気持ちを落ち着けようと深く呼吸する。
気まずい静寂の中、エースが重い口を開いた。
「ほかに、何か……覚えていることはありますか?」
「どうかな。あの日のこと以外はあんまり覚えてないんだよね。もともと記憶力もよくないもんだから、既にいろいろ忘れちゃっててさ」
「聖人に関して……」
「聖人?」
「いえ、あの。俺がうっかり、忘れてしまっていることを……ソラ様が覚えていないかと、思いまして」
歯切れの悪い言い方だった。ソラは大げさに首をひねり、人差し指で頭をつついて思い出す仕草をする。
「魔女の呪いを祓う聖なる人でしょ? あのナナシって人も言ってたじゃん。世界だって救っちゃう、とか何とか。だからってあの人が軸の麓でお祈りするとは思えないけど」
「……っ」
エースは言葉に詰まり、吐き気をこらえるようにうつむく。
ソラはベッドから立ち上がり、足を引きずりながらカップを流し台へ持って行った。彼女は台の縁を掴み、エースに背を向けたまま肩をすくめて本心をこぼす。
「ただ望まれたからって死ねない……今はまだ……」
「え?」
「いやね、膝のお話。しばらくは様子見ってケイ先生が言ってたから」
「あ、ああ……。そうですか」
「ええ、そうなのです」
さっきまでの重苦しい空気はどこへやら。振り返ったソラは口の端を持ち上げ、気の抜けた笑みを浮かべていた。




