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9‐1「おぞましき業」

 就寝から何度目かの目覚めで、朝がやってきた。


 少年は憂鬱そうに寝台から起き上がり、窓から差し込む陽光に目を眩ませ、吐き気を催した。もう慣れてしまった毎朝の習慣だ。彼は口元を押さえて流し台まで歩き、洗面器に唾を吐き出す。


 彼はまだ十二歳と幼く、八歳の頃に両親を亡くし、妹とともによそへ引き取られた。養父は険しい山の中腹に形成された小さな集落にて、まとめ役を担う人物だった。穏やかな性格で誰にも分け隔てなく、人はすべからく善であると信じて疑わない……いや、そうあってほしいと願う、実に方正な人間だった。それ故に、養父は少年の悲劇を見過ごしたのかもしれない。


 寝ても覚めても悪夢の毎日は三年と半年ほど前から始まった。


 村には学術機関から派遣された学者が一人、駐在していた。彼女の役目は才能ある子供を早い段階で見いだし、適切な教育を受けられるよう支援すること。そのほか、学校のない田舎では教師の任も負っていた。


 少年はこの女学者を人知れず、自分でも無意識のうちに恐れていた。優しい声で、「こんなこともできないのね?」。刺すようにささやいてくる女を。


 最初のうちは何とも思わなかった。胸がチクッと痛んだけれど、事実を指摘されただけと聞き流していた。


「貴方には難しかったかしら」


「もっと年下の子にもできるくらい、簡単なことなのだけど」


「気にしてないわ。持たざるを責めても仕方がないもの」


「大丈夫、貴方は頭の出来がいいんだから」


「本当に……覚えるだけしかできないのよね、貴方」


 一度聞いただけであれば、不得手を許容する寛容な言葉だ。女学者は毎日のようにそれを繰り返した。残念そうに眉を下げ、それでいて口元には相手を許す微笑みを浮かべ、根気強く子供の苦手につきあう。それはもう執念深いまでに、何度も、何度も。飽きることなく彼の不得意をあげつらって、欠点の確認を行った。


「かわいそうに、こんなこともできないなんて」


「あら、これもダメなの」


「別に貴方を責めてはいないわ。ただ、自分にできないことは分かっておいた方がいいでしょ?」


「安心なさい。私は優秀な学者なんだから。そう、いい教師はたとえ無才な生徒であっても、見捨てたりしないの」


 できること、できないことをはっきりさせておくのは確かに悪いことではなかろう。だが、できないことばかりが増えていく教育は当人の矜持を大いに傷つけた。


 だから彼は己の欠けた才を補うべく、別の大人に教えを乞うた。その人は快く少年を受け入れ、種も仕掛けもある魔法を教えてくれた。それによって自らの欠点を克服したと思った彼は、自信を取り戻した顔で学者に成果を披露してみせた。よく頑張ったとほめてもらえることを期待して。


 ところが実際にかけられた言葉は、


「よくもまあ、無駄なことに時間を使ったものね。小手先の技術でどうにかしようだなんて、浅ましい子。私の指導が間違っていたのかしら? 自信なくしちゃうわ……」


 学者は手で顔を覆って深くため息をついた。思いもよらない反応に、少年は自らを恥じて下を向いた。それでも、努力を認めてほしい彼はおずおずと顔を上げ、消え入るような声で訴えようとした。


 その時、女が顔を隠す手で前髪をかき上げた。


 彼女は奥歯を噛んで耐えていた。自分の不甲斐なさを嘆く嗚咽も聞こえる。口の端が上を向いているのは、無力な自分を嘲っているのかもしれない。


(あるいは今にも漏れ出しそうな失笑を我慢しているのか。だとすれば、この女はとんだ悪魔だ。邪悪で、忌まわしい。反吐が出る。)


 そうと知らない少年と、学者の目が合う。


 女は見ていた。


 妙な顔をする子供を。失望させたことをわびようと眉を下げ、潤む瞳を瞬きでごまかして。自分を後ろめたく思い、胸に抱く不満も不当だとして、教師の言葉に納得しようとする。


 もつれ絡まった少年の笑顔を。


 女の目に映った自分の顔は、化粧が溶けた仮面のように不気味だった。瞼を描いた墨が醜く頬を垂れ落ち、唇が歪んで、赤い血を吐いて見える。死体が笑っているのだ。その死相はひどく恐ろしくて、嫌なものに見えた。少年は己の醜怪な表情を嫌悪し、二度と笑うことができなくなった。


 時が過ぎて、女は妹の勉強も見るようになった。


 彼の妹は屈託のない可憐な少女だった。女学者は兄にできないことを難なくやってのける彼女をいたく気に入っていた。けれど少年は妹を妬んだりしなかった。邪険にしたり、意地悪を言ったりもしなかった。


 自分が何もできないことに、妹は関係ない。


 だからこそ少年は辛かった。


「あんなに小さな妹さんにもできることが、貴方にはできないのね」


 学者は声色に叱責を含めることが多くなった。ことあるごとに兄妹を比べて、思い通りにいかない「何か」に苛つく。女にはそんな癖がついていた。


 やはり、自分が妹のように上手くできないから。自分があまりに不出来な生徒だったから、教師はこんなにも嫌味な性格に変わってしまったのだ。


 そう思うと申し訳ない気持ちで胸がふさいだ。


 全ては己が身から出た錆だというのに、彼はいつまでたっても女のことが苦手だったし、顔を見れば息が詰まり、泣き出しそうになった。


 彼の感情はおかしくなっていた。


 心はどこかに消え去ってしまっていた。


 すっかり元気をなくした彼の世界は灰色の海に沈み、自身は波に揉まれながら水草のように心許なく漂っていた。その異変に養父も気がつき、友人の手も借りてあれこれ励ましてくれたが、少年はもう元の通りには戻らなかった。


 少年の日々は変わらない。


 就寝から何度目かの目覚めで起床し、唾を吐き、顔を洗って、味のしない食事をとる。歯を磨くためにやってきた洗面台の前で、鏡に映った自分の顔を見つめる。


 自分はいつ体を焼かれ、土の下に埋葬されるのだろう?


(およそ十代の少年が考えることではない。)


 失望と虚無に浸る毎日。だが、そんな中にも光はあった。妹の存在である。彼はいつも妹の生き生きとした姿を見て、少しずつ元気をもらっていた。妹が笑いかけてくれれば、彼も少しばかりまともな表情を取り繕うことができた。


 ある日のこと、妹がとある教本を腕に抱えていた。少年も読んだ覚えのある、人体の基礎を教えるものだ。何でも、学者に医術の勉強を見てもらうらしい。


「ジーノの魔力量なら、とてもいい魔法しじゅつしになれるだろうって先生がおっしゃるんです!」


 興奮気味に頬を染める彼女は、あの学者を母のように慕っている。幼くして両親を亡くした妹は少年と違い、父母の顔を覚えていない。空いた席の片方には養父が座ったので、彼女はもう一方の席に学者を置いた。兄としてはどこか遣る方無いが、妹の気持ちを考えれば仕方のないことであった。


 少年は養父の柔らかな表情を真似して、頑張るようにと激励の言葉を贈った。難しいから心してかかれだなんて、最初から脅してみるのは野暮だと思った。


 当然、彼は妹の様子が気になって学者の部屋を窓の外からうかがった。今の季節は寒さ和らぐ春だった。わずかに開いていた窓から、学者の声が漏れ聞こえてきた。


「ふぅん。貴方はあの子と正反対なのね」


 低い声色。


 高い位置から見下ろす視線。


 何か、嫌な予感がする。


「こんなことも分からないなんて」


 こっそりと覗いた窓の向こうで、妹が羞恥をこらえて俯いている。


 彼女に教える教師といえば、小さな子供がしょげる姿を見て、(これはもう誤解しようがない。)うっとりと恍惚の表情を浮かべていた。


 そこでようやく、彼も分かったらしい。学者の所行を客観的に見て、この女がいかなるつもりで他人の拙い部分に言及したのか、その意図を理解した。


(あの学者がああなったのは誰のせいでもないのだ。)


 それは女自身の性質だった。


 性癖だった。


 女は楽しんでいたのだ。


 子供が傷つき、悲しみ追いつめられていくのを。


 毎日が砂の中に埋まっているような息苦しさで、悲しくもないのに突然涙がこぼれたり、楽しいはずのことをそう感じなくなったり。何もかもどうでもよくて、生きることさえも億劫な抜け殻になるのを見て。


 女は自らの心を満たしていた。


(最初からそうだった。)


 これは愉快だと手を叩き、手に持つ刃を優しさという布で覆い隠して子供を突き刺し、痛みに悶える様を見て悦に入っていたわけである。


 そして、その凶刃が今度は妹に向けられようとしている。


 少年は妹が大切だった。


 出来損ないの兄にも敬意を持って接してくれる妹は宝物だった。そんな彼女に同じ思いはしてほしくない。傷ついてほしくない。泣いてほしくない。何も知らないまま天真爛漫に笑っていてほしい。


 彼女は両親から託された大事な命で、最後の家族だった。


(何としても守らねばならない。


 自然と決心はできていた。


 同日の夜、学者の部屋を訪れた。女は驚きをもってそれを迎え、


「貴方とこうしてお話しするのは、何だかとっても久し振りな気がするわ。星について教えてほしい? 理解だけなら貴方でもできると思うけれど……まあ、いいわ。それなら外へ行きましょうか」


 萎縮した子供の顔を見て女が笑う。


 春先といっても、日が沈めば吐く息も白く染まるまでに冷える。昼の陽気につられて薄着のまま出てきた女は首元をすり抜けた風にぶるりと震え、腰の鞘から短剣を取り出して振ろうとした。


 柄頭に希少な鉱物がはめ込まれたその短剣は、女が妹の勉強を見始めた頃にわざわざ買い換えた物だった。本来、この女に斯様な貴石は必要ない。その石に見合うだけの技量は彼女になく、もっと硬度の低い物で事足りる程度の才能しか持ち合わせていない。だのに分不相応の品を求めたのは小さな少女に見劣りしたくなかったからで、要するに見栄だった。


 この女は本当に下らない。ゴミクズのような動機で傷つけられた彼が哀れでならない。


 彼女を許すつもりなど毛頭なかった。前触れもなく女に突進し、持ち腐れの短剣を奪い取る。


「何をするの。返しなさい」


 女はこちらの覚悟など、見当も付いていないのだろう。彼女は片方の目尻をヒクヒクと痙攣させ、口に醜悪な笑みを張り付けて近づいてくる。


 とりあえず場所を変えよう。


 短剣を手にその場から逃げ出し、裏手の墓地へと走る。女は大枚をはたいた短剣を取り返そうと追いかけてきた。細い道を駆け抜け、立ち並ぶ墓碑を通り過ぎて、さらにその奥へ。


 茂みの中で立ち止まり、振り返る。


 息を切らした女が墓場を背に恐ろしい形相で立っていた。


「返しなさい、それを。今すぐに」


 短剣を逆手に持ち替え、女の話を聞かずに飛びかかる。肩を掴んで押し倒し、馬乗りになって。


 口をふさいで、喉に刃を突き刺した。


 迷いはなかった。自分で納得できる理由があれば、何でもできる。


 だから、女の首の骨を断つまで短剣を突き立てた。何度も何度も、何度でも。心を殺された分だけ刺して、刺して。刺し続けた。


 不意に、喉笛から引き抜いた刀身に自分の姿が映り込む。新月の下で刃を濡らす赤さえ見えないのに、返り血を浴びた自分の顔が映った気がした。そこから読み取れた己の感情は、苦しみから解放された喜びと、達成感。そして、私怨。


「……」


 彼ならきっと自分を責めるのだろう。


 だが、私に罪悪感はない。


 大切なものを失い、かつての人格から歪んでしまったのだ。激情を押しとどめる足枷はない。もう元には戻れない。


 ならばいっそ、非難糾弾も望むところである。妹を守る名目で復讐を果たしたと責められようと構わない。子供をさんざんいじめ抜いて、この数年間で彼の人生を地獄に変えた元凶を許すなんて、そんなことできるわけがないのだから。


 燃え立つ憎しみにのぼせて体が熱い。緩んだ手から短剣が落ち、事切れた学者に乗り上げたまま放心した。


 吐いた息が白く煙り、暗い夜の空に消えていく。


 星も見えない真っ黒な闇。


 落ち続ける穴の中、奈落に差す光は見当たらない。)

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