1-8 教会
ジーノとはだいぶ打ち解けたと思うが、エースとはまだ気まずい。ソラは彼から視線を逸らしそうになり、「ちゃんと向き合うって決めたんじゃん」。逃げてはいけないと居住まいを正した。
「ソラ様、ジーノも。こちらへ」
スランとエースが立ち上がり、ダイニングテーブルへ呼ぶ。
ソラはスランの正面の椅子を引き、しかし座る前に頭を深々と下げた。
「エースさん。さっきは強い口調で責めてしまってすみませんでした」
「いっ、いえ! そんな……! おれ――私も、浅はかでした」
先に謝罪を受けてしまったエースは面食らい、慌ただしく手を振る。彼もまた、魔物を撃退している間にすっかり頭が冷えていた。己の後先考えない行動は当然ながら、何より顔に傷をつけたことが後ろめたい。エースは弱った顔つきでうなだれ、ソラが着席したのを見てすごすごと椅子に戻った。
その態度から見る本来のエースとは、誠実な性格なのだとソラは感じた。ソラは意識がまどろみから覚めた今こそ、改めてエースを見つめた。
眉目秀麗とはまさに彼のことをいうのだろう、微笑みひとつで女どころか男まで射落とせそうな非の打ち所がない美男子である。しかしながら深い海の瞳は哀愁を帯びており、伏せがちだった。視線を合わせるのは苦手で、表情にしても取り繕った感があって硬い。ともすると雪の中に溶けてしまいそうな儚さがあり、陰のある様子がどうにも放っておけない……。
熱心な眼差しに気づいたエースがソラを向いて、目を泳がせた。ソラは彼を安心させようと口元を緩め、別の話題を振った。
「実を言うと私、さっきまでこの状況が幻覚じゃないかと疑ってたんですよ」
「幻覚、ですか?」
「はい。二十七年ちょい生きてきましたが、まさか異世界に呼ばれるとは思ってもみなくて。現実が思うようにいかないから、妄想の中で無敵の愛され主人公になろうとしてるのかもしれない、と。笑えないですよね。ハァ……」
自虐気味になったソラはその気持ちを飲み込むようにカップを傾けた。紅茶と同じ苦みのある液体が喉を通り抜け、胃に落ちていく。この異世界召喚も上手く消化したいものだとソラは思った。
そのためには会話を重ねなければならない。人との接触を怠り世間から隔絶されてしまえば、現実も作り物のように感じてしまう。フィクションめいた現状をリアルとして受け入れるためにも、言葉を交わす行為は重要だった。
一人でしみじみ頷くソラの隣で、ジーノが目をぱちくりとした。
「ソラ様は二十七歳でいらっしゃる?」
「え? ええ、そうですが。どうかしました?」
「私、てっきりお兄様と同じぐらいのお年かと思っていました」
「俺も。まさか年上の方だったとは……」
兄妹はソラの年齢を知って驚きを隠せなかった。特にエースは穴があったら入りたいどころか、埋まりたいほどに情けない顔をしていた。
「ソラ様。私には畏まらなくてけっこうですので」
「いやいや、そんなん別に気にしないでも大丈夫ですって」
「何とぞお願いいたします」
その願いを聞き届けなければ、彼は罪悪感で潰れてしまいそうだった。
「アー、だったら……キミも私とか言わないで普通にしてくれたらいいよ」
「でしたら私も! 気軽にジーノとお呼びください」
「分かった。それじゃあ、ジーノちゃんとエースくんってことで。いいかな……?」
「もちろんです、ソラ様」
「私のことも様づけなんてしなくて大丈夫だからね」
「とんでもない!」
力強く拒否するジーノは、こうと決めたら揺るがない性格なのだった。彼女はソラの手を取り、小首を傾げてニコリとする。
毛先まで艶めく手入れの行き届いた長い金髪は、出会った時にくすんで見えたのが嘘のようだった。意思の強い大きな目に、晴れ渡る蒼穹の瞳をきらめかせ……それは可憐そのもの!
ジーノは見る者をひと目で魅了する美少女だった。
警戒されていた当初は氷像のような美貌だったが、気を許せば温かみのある愛らしい表情を浮かべる。加えて快活で感情も豊かとくれば、とにかく可愛かった。
何だか月と太陽のような兄妹だと思いつつ、ソラは正面のスランに顔を向ける。その視線を受けて、彼は穏和なヘーゼルの瞳をスッと細めた。目尻のしわが人の良さを表しており、ただ笑むだけでこの人は他者を心安くする。しわのない眉間からは、滅多に怒ることがない人柄と分かった。
「さて。ソラ様もいろいろと聞きたいことがおありでしょうし、まずは我々を知っていただくことから始めたいと思うのですが……何からお話ししたものか」
「では、私の方から質問してもいいですか?」
ソラは暖炉の上に掲げられた十字のシンボルが気になっていた。その縦の棒は長く、教会の屋根にあったものとは異なる。スランは白い法衣の胸元に壁と同じ十字のネックレスを下げていた。
「こちらは〈教会〉なんですよね」
「そうです」
「私のいた世界で教会というと宗教的な施設を指すのですが、こちらではどうなんでしょう?」
「教会とは……かつて五つの領土に分かれていたこの大陸をひとつの国として統一した際、各地に設置された施設です。地方の福利厚生を維持するための出先機関と思ってください」
「特定の信仰を捧げる場所ではないと?」
「巡礼者の方が聖人再臨の祈りを行うことはありますが、私たちの信心が宿る場所ではありませんね」
「それで、スランさんは教会の〈祠祭〉様でいらっしゃる?」
「ええ。祠祭の役目は地域の皆さんが健やかに過ごせるよう、お手伝いすることです。都市部などでは例外もありますが、祠祭の役は基本的にその土地の人間が担うことになっています」
ソラはスランの胸元に注目する。
「ああ、礼拝堂に掲げられているものと意匠が異なることにお気づきでしたか」
「違うのには何か意味があるのかな、とは思ってました」
「およそ五百年前。教会は大陸統一にあたり、地域それぞれの特色を取り入れて作られました。例えば、建物の形は東方プラディナムの建築様式を参考にしています。あの大きな部屋を〈礼拝堂〉と呼ぶのは東方で信仰される聖霊正教に由来するもので、今では他の地方でもすっかりお馴染みの呼称です」
色のついた玻璃を切って窓を装飾するのは、南方クラーナの伝統である。ソラも手にした権杖は王都ラド=ウェリントンの王家で今も使われている祭具を模して作られたものだった。金の杯は西方カシュニーで知恵の器と言われている。
そこまで話して、スランは胸元の十字を大切そうに握り込んだ。
「そして教会の十字は、北方ペンカーデルに根付く信仰を取り入れて掲げられました」
スランが身につけている十字こそが北方の信仰心を象徴する形で、教会はそれを模してシンボルとしたのだった。
信じ敬う対象がある土地柄ならば、ソラは知っておくべきことがあった。
「ちなみにどんな信仰かお聞きしても大丈夫ですか? 皆さんが大切になさっているものに対して、知らずに失礼なことを言うのは避けたいので」
「お気遣いに感謝します」
そう言ってスランは魔法で宙に円を描き、平面から中空の球体を作り出した。その表面に凹凸をつけて低い部分を水膜で覆うと、地球儀と同様の模型ができあがる。
魔法で形作られた惑星を前にしてソラが瞳を輝かせる。興味を持った様子の彼女に、スランは少し肩の荷が下りた気持ちだった。
「この世界は広く海に覆われていまして、私たちは海面に顔を出した陸地で生活しております。そうした島々のうち、南北の極地に浮かぶものがあるのですが……」
星の模型をくるりと回して、球の対極に位置する小さな島を見せる。ほぼ円形を成すその島は外周部分が海面から高くそそり立ち、中心部にいくほど低くなるすり鉢状の地形となっていた。
「島の中央、最も落ち窪んだその場所には天と地を貫く一条の柱〈地の軸〉が存在します」
「地の軸?」
スランが人差し指で線を引き、北極島の中心に柱を立てた。球の回転軸と一致するそれが裏側の南極島まで貫く。
「つまり、地軸みたいなものかな……?」
「晴れた日には北の方角に、光の筋として見ることができますよ」
「目に見えるんですか!?」
「はい。軸の内には世界を平定する神がおられ、ソラ様がお出でになった聖域の祠は、その聖なる場所へと続いているのです」
「なるほど。だからジーノちゃん、最初あんなに怒ってたんだ」
話を振られたジーノは口をすぼめて声をか細くする。
「あの時は本当に申し訳ありませんでした……」
「謝らないで、お嬢さん。神聖な場所に土足で踏み込まれたら怒るのは当然です。まぁ靴は履いてなかったけれども」
「フフッ! そうでしたね」
ジーノが笑ったのでソラもつられて笑みを浮かべる。
エースはそんな二人を交互に見て、罪悪感と嫌悪を混ぜ合わせた顔になっていた。
「お父様。ソラ様のことは本当に魔法院へ報告しなければならないのですか?」
「ケイのこともあるし、私もあの組織にいい印象はないけれど、こればかりはね。隠すわけにはいかないよ」
「そう、ですよね……」
エースが美形を台無しにする渋面を作る。
スランはエースをなだめ、ソラに改まった。
「ソラ様。本当ならもう少しゆっくりお話をしたいのですが、我々にも教会を預かる者として仕事がありまして……」
「アッ、それは全然! お仕事の方を優先していただきたいです。私はこちらで大人しくしておりますので」
彼らにもそれぞれ日常がある。そこに紛れ込んだのはソラの方なのだから、彼女は場所柄をわきまえてブンブンと手を振った。それはソラにとって無用な衝突を避けたいだけの保身であったが、見方を変えれば慎み深く映り、ジーノは彼女の真摯な態度にいたく感激していた。




