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私がそれを望むから  作者: 未鳴 漣
第二章「悪の牙」
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8‐6 撃退

「師匠、一度ここを離れます」


 ケイは手をひと振りして了承する。


「ジーノ、代わってくれるかな。追加の輸血は必要ないと思うから、袋の中身が空になったら師匠に声をかけて」


「分かりました」


 エースはソラを連れ、治療を続けるケイと宿借り二名との中間地点に立った。何をするのかと近づいてきた槍の騎士に顔を向け、


「騎士様。これから私が魔法であの二人を狙います。こちらの合図と同時に射線上から人を排してください」


「吹き飛ばすか何かして、アンタの正面を空にすればいいってこったな?」


「そうです」


 任せろ、と返して騎士は前を向いた。


 エースはソラを隣に立たせるとその肩を抱き寄せ、海色の瞳を金色の睫毛に隠した。血潮とともに巡る自身の魔力をかき集め、ソラの肩を抱く左手に集束させる。


 彼はジョンと同じく、魔鉱石なしでの魔力の徴発と魔法への変換を行うつもりだった。果たして下位である四属が上位の二属に手を出せるのか、もちろん不安はある。ジョンの主張を信じるとしても、それは卓越した魔力操作と魔法行使の感性があってこそ成立したのではないか。


 けれど、この局面で臆するわけにはいかない。


 エースは手ずから中和した魔力を左手全体に纏わせる。


「ソラ様、失礼いたします」


「え?」


 いよいよという段階でソラを抱き寄せ、背中から彼女の心臓を鷲掴む。実際のところエースの手はソラの背に触れているだけだったが、彼の魔力は皮膚を裂き肉を分け、骨を断って体内に分け入っていた。


「ッ!? あ、が……っ」


 ソラが苦悶に喘ぐ。彼女が痛みにもだえるのはエースの魔力操作が拙い証拠だった。己の腕一本で難なく魔法を行使するジョンであれば、相手に苦痛を感じさせることもなかったろう。


 指先を進めるごとに、エースにも痛みが返ってくる。声にもならない雑音を喉から発し、涙を浮かべ、痛覚だけで構成された世界でもがく。火の海で焼かれているような、あるいは硫酸の池で溶けるような。痛くて、痛くて……目の前が真っ暗になって意識が遠ざかり、エースの脳裏に見たことのない景色が映し出される。


 陽の光で白とびした真夏の光景。または雪が舞い散る白銀の中。言いようのない虚無と切望が胸に流れ込んでくる。白衣の男が何かを「私」に告げて、哀れみの目で「俺」から目をそらした。瞳の奥に冷たい怒りが燃え立ち、彼あるいは彼女の執着は生から死へと変わってしまう。


 自分はこんな人間だったろうか?


 何か大切なものが欠けてしまった。


 以前のようには戻れない。


 水草のように揺れて、粉雪のように頼りなく。ユラユラ、ヒラヒラとして。


 エースはその先で暖かなものに触れた。


 ひたすらに明るいそれは器の中でゆったりとうねり、水面に柔らかな波紋を描いている。そこに手を入れると、底の方はどんよりとして暗く、冷ややかな何かが渦巻いているのが分かった。エースは泉の上澄みだけをすくい上げた。


 手のひらに湛えた陽光の温もりは突如、血が沸騰する灼熱に変わった。


「う、ぐぅ……!!」


 どうにか掴んだ魔力を引き上げ、自分の腕を伝って右手へ移動させる。ソラは腕の中で気を失っていた。エースは歯を食いしばり、全身を駆け巡る猛火の熱に耐えた。通り過ぎたあとも残る強烈な痛みに腕を痙攣させ、逆手に握った剣を鞘の中で芯まで熱する。


「今です!!」


「退け!! お前ら!」


 合図とともに槍の騎士が旋風を振り、退避が追いつかなかった騎士たちを強制的に退かせる。


 ジョンはすぐさま形勢の変化を感じ取り、騎士を放り出して防御を固めた。ナナシは遅れてエースの方を振り向き、意識の外に置いていた無害な人間が反抗の意志を示したことに不快を表した。


 視線が交わり……、両者とも引く気はなかった。そしてエースが思い切りよく剣を引き抜き、鞘を走った魔力が一閃の魔法として放たれる。


 光は細く、短く。込めた魔力は多いとは言えない。だが、燦然たる閃光は空気を圧し裂き瞬く間に目標へ肉薄した。ちょうどナナシとジョンの間を割る軌道で、エースは二人を分断して連携を崩すことができればと考えていた。


「バァーカ!! んなもん通じるわけないだろ!」


「まって、なな!」


 ジョンの防御は絶対である。そう信じ切っていたナナシは肉薄する魔法があっけなく破砕する様を笑い飛ばしてやろうと思い、わざと射線の前に立った。その愚行を諫める間も惜しく、ジョンは力任せに彼の腰に飛びついて押し倒した。


 反動でナナシの左腕が跳ね上がる。


 ソラの魔力を用いた上位魔法を相手に、ジョンの盾は用を成さない。一直線に駆け抜けた光の矢によって、宙を泳いでいたナナシの腕は射落とされた。


 上腕の真ん中で千切れ、鮮血がほとばしる。


「え……? なん、で……!?」


 ナナシは何が起こったのか理解できていない。


 ジョンだけが相変わらず冷静だった。彼女は切断された腕を掴むと同時に魔法でナナシの腰をがっしと抱え、それこそエースが今ほど放った魔法のように、わき目もふらずその場から退散した。


 少女の切り替えの早さはまさに野性的で、騎士側はひと呼吸遅れて二人の追跡に動いた。ロカルシュが動物たちに手伝うよう呼びかけている。


 エースは嵐が去ったのを見届け、座り込んで動かなくなった。


「お兄様、ソラ様……!」


 ジーノは輸血道具を手に兄とケイとを交互に見ていた。額に汗を浮かべるケイが視線だけをジーノに向けて言う。


「ここはもう大丈夫だ。エースたちの様子を見てきてくれ」


 ジーノはしばし惑ったが、無言でケイに頭を下げてその場を離れた。エースとソラを横にし、介抱する槍の騎士に駆け寄る。


「安心していいぞ、お嬢さん。どうやら気を失ってるだけらしい」


「そ、そうですか。よかった」


 ジーノはソラの横に膝をつき、黒い前髪を梳いて呼吸を確かめる。次にエースだが、赤く染めた髪の一房が白く変色していた。それは上位である光の魔力を徴発した代償だろうか。


 シトシトと雨が降り始めたので、ジーノは騎士に頼んでソラと兄を礼拝堂の奥へ移動させた。途中でケイに声をかけ、ノーラの治療が終わったら二人の様子を見てくれるよう頼むことも忘れない。騎士が上着を脱いで床に敷いてくれたので、ジーノは礼を言いながらソラたちを横たえた。


 半壊した堂は濃い影に支配され、寂しく冷たかった。屋根に当たる雨粒の音が次第に大きくなる。雲はそれほど厚くないのに、よく降るものだ。


 槍の騎士は頃合いを見てジーノのそばを離れた。どっと疲れたジーノは騒動が収まった静寂の中で一息つきたかったが、入れ違いにやってきたセナの姿に再び神経を張りつめた。


 彼は眠るエースを見下ろして聞く。


「お前の兄貴は何をやったんだ」


「……おそらくですが、宿借りの少女がやったのと同じです。ソラ様の持つ光の魔力を借りて、魔法を放ったのだと思います」


「ケッ! お前のバカ火力もそうだが、兄貴も無茶苦茶だぜ。他人の魔力をテメェで魔法に変換するなんて」


「それなのですが、少女の防御魔法はお兄様の魔法に押し負けたどころか、接触に耐えた様子もなく易々と打ち抜かれました」


「ああ。見た感じだが、宿借りの男の魔法を受けたときと同じだったな」


「光陰の魔力が四属の上位に当たるという話は本当のようですね」


「ま、奴だけが特別じゃねえのが分かってひと安心ではあるが……」


 淡々と事実を確認するセナの視線がソラに移った。ジーノは片手を広げてソラをかばい、訝しい目つきで彼に問う。


「貴方はソラ様をどうするつもりなのですか」


「コイツの捕縛任務は一時保留だ。上司に状況を報告し、今後の方針が決まるまで俺たちでその身柄を預かる」


「つまり、魔法院には突き出さないと?」


「すぐにはな」


「お父様の拘束も解かれるのでしょうね」


「牢屋からは出られるだろうよ」


 ジーノがムッとして身を乗り出すと、セナが手で制した。


「どうする。俺の提案に従う気はあるか」


「……はい」


「いい返事だ」


 彼は固い声でそう言い、ソラを睨む。


 上位魔法の存在を知った今、たとえ魔女であっても、抑止の存在を魔法院に奪われるわけにはいかない。悪鬼二人を捕まえるつもりなら、切り札としてソラの力が必要になる。


「……俺はもう、ガキじゃねえ」


 そんな扱いをしてくれる者はどこにもいない。吐き捨てるように言い、セナはジーノに背を向ける。


 くすぶる復讐心に蓋をし、下した苦汁の決断。一時的にとはいえ魔女を擁護することになったセナの気分は最悪だった。腰の革鞘を探りながら、それを自分の下顎に押しつける妄想をする。引き金に指をかけて絞ると、銃声が頭蓋骨の中で虚しくこだました。


 少年はありもしない喉の傷を押さえ、個人的な優先順位に目をつぶった。

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