Ex‐1「憎しみの出ず場所」
それは誰にでも起こり得る悲劇で、よもや自分に降りかかろうはずもないと信じる惨劇だった。遠くの町や村で、顔も名前も知らぬ誰かが巻き込まれて、「ああ、何てひどいことが起こったのだろう」、「どうか魂が迷わず天へ還るように」。胸を痛め、祈る出来事であると。
グレニス連合王国の南方、クラーナ地方。ここは平坦な石灰の土地で温暖な気候に恵まれる。それなりに降雨もあるものの、土壌の性質ゆえに水は全て地面の下に落ち、地表を支配するのは乾いた砂だった。地方の名を冠する商業都市は大陸最南の沿岸に位置する。その北東部には雪原と見紛う「白銀砂漠」が広がり、これが東方プラディナムとの旧領地境界である山脈の麓まで続いている。
王都から続くいくつかの河川も砂漠を前に岩盤の下へ潜り、東西の境界付近以外に水の流れがないクラーナでは地底の水脈が貴重な資源だった。実を言うと南方の地表は枯れて見えても、地下を縦横無尽に這う洞窟の中には豊富な水が貯蔵されている。人々はこれを汲み上げ喉を潤してきた。
クラーナでは水こそが黄金であり、それは人を引きつける引力となって集落を形成し、町へと発展していった。
少年が生まれ育ったのは小さな水源を抱えるリベットという村だった。彼は村で美味いと評判の定食屋の子供だった。両親のほかに妹が一人いて、店が賑わう時間帯には兄妹そろって注文を取ったり、料理を運んだりして微力ながら店を手伝っていた。
そんな少年が自らに備わる才能に気づいたのはいつの頃だったか。彼自身、正確なことは覚えていない。彼はごく当たり前に、いつの間にかソレ――魔法を使った後に残される残滓を見ることができるようになっていた。魔力の痕跡を探知するこの能力を極めて珍しいとは言わないが、まれな才能であることは確かだった。騎士や憲兵といった公の職に就く上では、かなり有利に働くことが知られている。
加えて少年には魔法の才も備わっていた。
誰に教わるでもなく彼は繊細に魔法を操り、妹に幸運を逃さない鉤爪のお守りを作って贈ったこともあった。これには村の大人も顔負けで、教会に派遣されていた魔法院の学者も才腕を認めた。その声望は学者を通じて院へ届けられ、十歳を迎えた彼はクラーナの都で魔法を学ぶこととなった。
学費は両親が工面してくれた。彼らは具体的にその金額を明かさなかったが、家を見渡してみればいくつか家財がなくなっており、相当な苦労をしてかき集めてくれたことは少年も察した。
挫折というものを知らない彼は自らの人生を順風満帆と信じて疑わなかった。魔法を極めた先で研究員になれるかもしれない。そうでなくても、学んだことを生かして騎士にでもなれば家族に恩を返せる。希望あふれる未来に向けて、彼の澄んだ緑の瞳はキラキラと輝いていた。
しかしながら、少年は故郷を離れてすぐに自らの凡庸を知った。
南方全域からやってきた生徒たちの中で、少年の能力はせいぜい中の下といったところだった。実技も座学もある一定まではそれなりに優秀な成績を残せたが、扱う魔法が高度になればなるほど彼は成績を落としていった。そうして周囲との実力差がありありと見えるようになってきた頃、少年はある事実を知った。
それとは、実家以外にも村の知り合いや教会から金銭的支援があったことだ。彼はますます期待に応えなければと自らを奮い立たせ、睡眠を削って勉強し誰よりも訓練を重ねて……結果、あれよあれよと落第の坂を転がり落ちていった。
留年の試験にすら落ち、少年は放逐されてしまった。彼が院に居られたのはわずか一年だった。
少年は故郷に帰ることができなかった。夢に破れ、合わせる顔もない。彼の心情を察した下宿先の女将は、自分を手伝ってくれればしばらくは面倒を見ると言ってくれた。
それからずっと、家族からの手紙は開けなかったし、返事も書けなかった。両親が、村の人たちが、皆が必死に働いて稼いだ金を自分は無駄にしてしまった。支援をドブに捨てる結果に終わったなど、言えるわけがない。それは十一歳の少年が負うには重すぎる負債だった。
それからの数ヶ月、彼は亡霊のようだった。朝早く起きて女将の仕事を手伝い、暇な時間を裏口で過ごし、必要な分だけの栄養を取って、暗闇の中で膝を抱える。
その繰り返しに転機が訪れたのは、院を追い出されてから半年が過ぎたときだった。
少年の様子を見かねた女将が知り合いの騎士に声をかけ、ある話を持ってきたのだ。王国騎士は国に仕える若い人材を探しているという。未来を失い思考が停止していた少年は急に目の前が開けた気がして、一も二もなくその話に飛びついた。
騎士を目指すその場所はずいぶんと居心地がよかった。机を前にしての講義は騎士としてのあり方から始まって国内外の情勢にも及び、少年は非常に興味深く学んだ。同期生の誰もが悲鳴を上げる訓練にしても、努力すればした分だけ成長が実感できることに心が安らいだ。
一年と定められた基礎過程を無事に修了し、彼は特務騎兵隊に配属された。その任命に大きく影響したのが生来の資質で、魔力残滓を見る「眼」の精度を買われての抜擢だった。また魔法院で得た知識にしても、近年開発された銃器を扱う上で大いに役立ってくれた。
落第から三年。少年はようやく前を向く気になった。故郷の投資は無駄にはならなかった。少なくとも、全くの無駄にはならなかったのだ。それなら今こそ、帰省するべき頃合いに感じられた。
顔を見せて、魔法院でのことを正直に打ち明けて。これからは騎士として国に尽くすと宣言するいい機会だ。給与からいくらかを送って返し、これまでの恩にも報いなければならない。紆余曲折はあったが、概して人生は順調と言えそうだった。
そうして顔を上げた矢先の「悲劇」だった。
魔物によるリベット襲撃の知らせを受けた少年は上司が止めるのも聞かず、憲兵隊のあとを追って故郷へと走った。
敵はこともあろうに、水源である地下洞窟からやってきた。リベットが抱える洞穴の地下水はやや深い位置にあり、道のりの途中には他所への分岐が多くある。闇雲に探検するのも危険なので、通路は水場までの一本が確保されているだけだった。分かれ道の先は別の穴につながって遠くの地上へと通じることしか分からない。のちの調査でとある分岐を塞いでいた鉄格子が壊れているのを発見し、魔物はこの未知の経路をたどってリベットにたどり着いたのだろうと結論が出た。
少年が駆けつけた時、田舎の小さな村は一面、血の砂漠だった。赤く染まった砂が乾いて、所々で茶色い土煙が巻き上がっていた。
未だうっすらと漂う腐臭。魔物は人を食らうのではなく、ただ痛めつけるだけの非道を行う。
誰も助からなかった。
皆が皆、例外なく魔物に殺され尽くしてしまった。
「父さん、母さん。イェリー……」
誰のかも分からない足が転がっていた。引きずり出された臓物がゴミのように投げ捨てられていた。頭のない遺体。あったとしても判別できない顔。少年はそれら肉塊を見て、人の名を与えていった。しかし、知っている名前の半分も口にできなかった。両親も妹も、彼がその名を呼ぶことはなかった。
悔恨が頭の中でこだまする。
両親の作ってくれた料理が食べたかった。妹の成長した姿が見たかった。友人たちとも話がしたかった。支援してくれた大人たちに、祠祭に、きちんと頭を下げて礼を言いたかった。これからは自分が故郷を支えていくと胸を叩き、長い間ろくに連絡もせず心配させたことを謝りたかった。
受けた恩を返すこともできず、事実を打ち明けて許してもらうこともできず。ただただ何もかも失ってしまった彼の絶望はいかばかりか。まさに消沈――消えてなくなりたい思いだった。
どうして自分ばかりが生きているのか。なぜもっと早く帰っておかなかったのか。惨劇の瞬間、自分もここにいて皆と一緒に死ねたのなら。胸を抉られ踏みつけられて、惨めで悲しい、息を忘れるような苦しみもなかったろうに。
整然と並べられた村人の前で立ち尽くす少年は胡乱な手つきで革鞘から銃を抜いた。彼は銃口をどこへ向けたか。照準を震わせ、ゆっくりと手を肩の高さまで持ち上げて――背後で憲兵の怒声が響いた。
少年は反射的に振り返って銃を構えた。黒い影に覆われた四つ足の魔物がすさまじい速度でこちらへ突進してくる。
死人のように冷え切っていた少年の体に、熱がともる。背後には大切だった皆の亡骸がある。もう十分に残虐を尽くしただろうに、飽きたらずまた虐げるつもりなのか。
少年は銃口を正面に構え、表情ひとつ変えずに人差し指を握った。
前足に一発ずつ見舞って姿勢を崩し、転倒させて頭上に石の矢を射る。地面に串刺しとなった獲物を炎で包み、肉を全て焼き尽くした。骨は踏み砕いてやろうと思っていた。爆煙は風に流され消え去った。
一歩を踏み出す。さあ、故郷を襲ったのはどんな獣だ。
骨を前に、彼は膝を高く上げた姿勢で止まった。
「あ、……え? 何で、これが……?」
煤に汚れた白骨は明らかに人間のものだった。自分より小さな子供……性別は分からないが、その首には革紐の燃えかすと見覚えのある鉤爪の首飾りがあった。
「……」
少年は涙もなく、息を忘れ、
銃口を顎の下へ当てた。
だが、引き金に指をかけたところで後ろから誰かに阻まれた。発射の寸前、撃鉄の間に挟まった親指は少年の相棒を務める青年のものだった。普段は奇抜でなよなよしい男だが、このときばかりはえらく必死に少年を羽交い締めにした。
おかげで少年は自分を殺すこともできず、のうのうと生きている。




