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私がそれを望むから  作者: 未鳴 漣
第二章「悪の牙」
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6‐12 恐怖

 相手の乱心に飲まれかけているソラをエースが視線だけで振り返り、意を決して剣を構える。枝葉の間から差す薄暗い光が切先に反射し、ギラリと刃の上を滑った。


 それを見たソラの頬に痛みが走る。


 他方、少年の錯乱は最高潮を迎えていた。青年騎士がなおも引き止めようと頑張るが、用をなしていない。


「忌まわしき魔女め!! お前のせいで俺は故郷も家族も失ったんだ!! 死ね! 死んじまえ!!」


「ソラ様、聞かないで!」


 エースが肩越しにソラを見た。彼女の頭にはわんわんと少年の罵倒がこだましていた。


 災厄の女、人類の仇敵。――スランさんもそう言っていた。


 生かしておけない。――世界を脅かす悪を生かしておけるわけがない。


 何かしでかす前に殺してやる。――エースも、あの時そう思ったのだろうか?


 死んでしまえ。――剣を抜いて、妹と父親を守るために。


「……っ」


 景色がにじみ歪んでいく視界の中で、エースの目に殺意が芽生える。ソルテの教会では刃が頬をかすっただけで済んだ。


 けれど、今度はきっと、


 首を落とされる。


 言うまでもなくそれはソラの見た幻覚だったが、憎悪が渦巻く空気に中てられた彼女の脳はそれを現実と受け取った。まだ死にたくないソラは自分を捕まえている手を振り払い、膝の痛みも忘れて体を翻した。


「いけない! ソラ様!!」


 エースの制止を振り払って逃げ出す。けれどここはジーノの作った防壁の中だ。壁を隔てて魔力の行き来ができない特性上、その塊である人間もまた外へ出ることはできない。


 そのはずだったが、ソラは幾層にも厚くした盾にぶち当たることなくすり抜けた。


 疑問を推し量っている暇はなかった。


「――ジーノ! 足止めを頼む!」


 ハッとしたジーノは兄を見やり、彼が腰の筒を抜こうとしているのを見た。彼女は瞬時に盾の後方を開き、自分の目前に岩壁をせり上げ耳をふさいだ。


 エースが閃光筒を引き抜き、獲物ソラを追うべく足の向きを変えた少年騎士に向かって投げつける。それはジーノの盾をすり抜けて目標の前に転がった。


 間髪を入れず筒から炎と共に閃光があふれ、爆音が鳴り響く。この時、エースは爆風を背に受けながらソラを追いかけて走り出していた。


 不意に目と耳を焼かれた騎士たちはその場で二の足を踏んだ。隙に乗じてジーノは地面に杖を向け、土を深く掘り起こして半地下の牢に二人を閉じこめた。


 すっと目を細め、盛り上がった天井と地面との隙間、格子の先にある暗闇を見つめる。彼女は誰の耳にも届かないのをいいことに、刺々しい口調で吐き捨てた。


「もしも次があるのなら、その狭小で矮小な頭を凍り付くまで冷やしてからおいでになってくださいな」


 鼻から抜ける一笑には軽蔑の色が含まれており、蒼穹の瞳は氷河のように凍てついていた。それは美しい容姿であるがゆえに醜く際立つ、傲慢を絵に描いたような顔だった。


 彼女はツンとそっぽを向いてその場を立ち去った。


 一方でエースはソラに追いつき、その手を掴んだところだった。


「ソラ様、待ってください!」


「放して!!」


 彼女は杖を捨て、エースの手に爪を立てて抵抗する。それでも拘束は緩まず、ソラは勢い余って手のひらを頭上高く振り上げた。エースは顔面めがけて落ちてきた平手をしっかと受け止め、小さく震える無力な拳を力強く握った。


「ソラ様、聞いて。俺はもう二度と貴方を傷つけない。俺は本当に、本心で」


 こんな時、どんな顔をしたら相手を安心させられるのかエースには分からなかった。だから彼は、父親の軟らかい表情を真似した。眉を下げて目を細め、口元は上手く笑うことができなかったけれど。


 ただひとつの思いを伝えたかった。


「俺は貴方を助けたいんだ」


「う、嘘だ。そんな」


「本当です。お願いだから、どうか信じて……!」


 互いに両手を塞いだ二人はどちらともなく膝から崩れ落ち、湿った土の上に座り込んだ。


 ソラは未だ半信半疑の目をしていた。エースはすがるように彼女の腕を引き寄せ、


「ソラ様!」


 後ろからジーノが駆けつけた。彼女は近くまで来ると走る速度を下げ、ソラにゆっくりと歩み寄って膝をついた。


「お怪我はありませんか? あの騎士たちは閉じ込めましたので、しばらくは追って来ません。安心してください」


 ジーノは兄にできなかった人心地のする笑みを浮かべた。毛布のように柔らかで暖炉のようにぬくい、見る者の心を解きほぐす笑顔だった。


 ソラは徐々に平静を取り戻し、硬直していた腕から力を抜いた。


「ソラ様、大丈夫です。私もお兄様もいます。誰にも手出しさせません」


「……ご、ごめん。私、その。こ、怖くて」


「ええ、分かります。私もあの少年の態度には恐怖を覚えました」


「あ、の。エースくんも……」


 ソラは杖を拾って手を膝に置き、


「さっきはひどい態度、取って。ごめんなさい」


「気になさらないでください。あれは混乱して当たり前です」


「でも、本当に……ごめん。ごめんなさい」


 肩で息をするソラが落ち着くのを待って、エースは指笛を吹いた。馬が応えてくれる期待は薄かったが、幸いにも二頭は無事に戻ってきた。


 置いてきた荷物を取りに行っている暇はない。路銀などの貴重品は常に身につけていたため今も手元にあるが、簡易結界の道具を失ったのは痛い。頼りになるのはお守りの小さな黒泥石だけだ。


「遮水布の雨具もない。しばらくジーノの魔法で避けてもらえるかな」


「分かりました」


 ジーノは馬にまたがり、頭上に雨を防ぐ水幕を張った。エースがソラを馬の背に引き上げ、難しい顔つきで言う。


「ソラ様。こんな状況ですし、カシュニーには寄らずプラディナムへ向かうのも選択肢だと思います」


「それは駄目。カシュニーには行かなきゃ、絶対に。スランさんだって捕まってるんだし、早く魔女じゃないって証明しないと」


 拘束されているスランが心配なのはもちろんだ。しかしソラが焦っている理由はそれだけではなかった。


 彼女はついさっきの出来事を思い出して、息を詰まらせる。


 自分に非はないと自信を持っていたはずなのに、感化され思わず逃げ出したほどの憎悪……少年の目にあった、己の殺意を正当と信じ疑わない盲目的なまでの強い感情。魔女でないと証明できなければ、ソラは世界中の人間からそんな目で睨まれることになる。


「私は、魔女なんかじゃない……!」


 そんな声も、群衆の前にはそよ風と同じだ。大勢の非難に一人の抵抗はかき消され、権威ある者の一声で処断される。皆が皆、火に炙られ黒こげになっていく女を見て歓声を上げる。


 ソラは悪手と分かっていても、敵陣のまっただ中へ飛び込まねばならなかった。この世界の人間として終わるべきと心に決めたが、人に憎まれ尽き果てる結末など望んでいないのだから。


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