6‐9 奇襲
茂る枝葉と雲で太陽が見えず、景色も代わり映えしない中でソラたちは迷子となった。どうにか大きな街道に出ることはできたものの、その頃には辺りもすっかり真っ暗で、彼女らは小降りの雨をしのぎながら予定外の野宿をすることになった。
エースは巨樹の間に生える低木の枝に、遮水油で防水加工を施した布を張った。この遮水油とは液体ではなく固形物で、それを綿布にまんべんなくこすりつけた上で適度な熱を与えて溶かすと、繊維に油が浸透して水をはじく特性を持つ。材料は蜜蝋と石蝋だ。これを使用する際、エースは決まって非常に微妙な顔をする。開発したのが魔法院であることに加え、石蝋の精製方法が秘匿されている。そのため嫌悪と知的好奇心とがせめぎ合って、せっかくの美形が台無しになるのだ。
陣取った場所の周囲には先を丸めた鉄杭をいくつか打ち、輪に黒い紐を通して柵を作った。これが魔物除けの簡易結界で、この世界で旅をするには必須の道具である。
しかして、じっとりとした地面の上で眠った次の日。
「ハ……ッ! 顔。洗顔……」
雨雲のせいで朝になっても景色は薄暗い。ソラは上半身を起こし、近くにジーノの姿を見つけて目に安堵を浮かべた。
「おはよう、ジーノくん」
「おはようございます」
昨晩の食事で余ったスープを温めていたジーノはソラのつぶやきをしっかり聞いており、桶の水でタオルを湿らせて寄越した。ソラはどうもどうもと頭を下げながら受け取り、眠気の残る顔を丹念に拭く。
彼女はタオルを畳みながら簡易結界の黒紐を見つめ、何となしに手を伸ばした。紐に触れるか触れないかの距離まで来て、ぱっと手を引っ込める。
「前々から思ってたんだけどさ。魔物除けの石、黒泥石だっけ? 石にしろこの紐にしろ近づくとピリピリするのって、そういう特性?」
「ピリピリですか? 僕は感じませんが」
「そうなの? 私が個人的に黒泥石と相性悪いのかな。いや石と相性が悪いってよく分からないけど」
スープがぐつぐつと煮立ってきた。
あぶくがはじける音の合間を縫って、上空から落ちてきた雨粒が遮水布を滑って地面に落ちる。森はしとしと雨音に閉ざされている。遠くに動物の鳴き声が聞こえるだけで、実に静かだ。湿気で香り立つ草葉のにおいも相まって、ソラは逃亡中の身でありながら場違いにリラックスしていた。
気が緩んでいると言ってもいい。
ジーノがスープを茶碗によそう。その様子を視界の端に、ソラはエースの姿を探した。くるくると首を回していると、正面の木陰から彼が現れた。ソラは杖を立てて膝をかばいながら立ち上がり、彼を迎える。
エースは周辺の警戒がてら、使えそうな薬草が生えていないかと見てきたところだった。緩く握った手から数本の葉が飛び出ている。彼はソラの視線にすぐさま気づき、駆け足になって戻ってきた。
おかしなことに、その表情がだんだんと険しくなっていく。足音も早くなり、ついに彼は薬草を捨ててその手に剣の柄を握った。
いよいよエースの目の色が変わる。
「エースく――?」
彼は恐慌の様相を浮かべて刃を抜き、こちらへ向かってくる。ソラはその顔つきにドキリとし、膝から力が抜けた。
ソラが尻餅をついたすぐあと、彼女のはるか後方でかすかに弾けるような音がした。エースは結界を飛び越えつつ右手をかざして魔力を放出し、ソラの背後に薄い盾を張る。一拍遅れて杖を手に取っていたジーノが結界の内側に分厚い盾を作った。
直後、外を覆うエースの盾が破られた。彼の防御魔法を突破したのは高速で飛んできた小さな鉄礫だった。先端を尖らせたそれは炎と風の魔力をまとい、ジーノの盾に鋭く衝突して空中に止まる。ジーノは自分の鉄壁に当たって砕け散ることのなかったつぶてに驚き、魔法を強化するべく杖を振った。
エースが切っ先を跳ね上げ、妹の守りをすり抜けて礫をはね飛ばす。
ほんの一瞬、あまりの出来事にソラは身動きひとつできず、厳しい表情を浮かべるエースを呆然と見上げるしかなかった。
彼は眉間に苦悶を刻んで前方を睨みつける。霞む目で細く瞬きを繰り返しているうちに鼻から血が伝った。そして、糸が切れたように膝を折ってソラの方へ傾く。
「ちょ、え? エースくん!?」
ソラは身構えて彼を受け止めたものの支えることができず、頭を腕に抱えて地面に倒れた。視界を失っているのか、エースはうつろな視線を迷わせながらジーノに言った。
「盾を、下にも……」
その意図を察したジーノは魔法を地中にも展開し、自分たちを球状の盾に閉じこめた。その後も二発の礫が飛んできたが、守護を強化したジーノの盾に直撃し、木っ端みじんに破裂した。
それからしばらく無音が続く。
雨が枝葉を打つ。
馬は音に驚いて逃げてしまい、土を蹄で抉る音が遠ざかっていった。
エースはソラの腕の中で気絶している。ソラはその頭を抱えながら、この数秒のどこに彼が意識を失う要因があったかと考えていた。出血はなく、頭をまさぐってみても負傷のあとはない。鉄礫による攻撃は間違いなくジーノが防いだし、次いでエースが剣で無力化した。
エースが倒れた理由が分からない。それは防壁の内側にあってもソラを不安にさせた。答えを求めるようにジーノを見上げるが、彼女は視線をせわしなく動かし辺りを警戒していた。とても話しかけられる状況ではない。
どうしようもなくなったソラがエースを見やると、彼の瞼がぴくりと動いた。染めた髪と違って金色の睫毛を震わせ、青い瞳を露わにする。
「エースくん! 大丈夫!?」
「は、い……。すみません、魔力を使いすぎました」
彼は瞬きを二、三度繰り返してすぐ、ソラの腕を離れてジーノの隣に立った。その足にふらつきはなく、本人はしっかり意識を取り戻したようだ。座り込んだままのソラはエースの背中を見つめ、内心で首を傾げる。
――魔力を使いすぎた?
ソラが疑問を口にする暇もなく、エースが声を張り上げた。
「姿を現せ、不埒者!」
いつになく感情的な低音が森の中に響く。その要求に応えてか、巨樹の後ろからそろそろと複数の影が姿を現した。
四つ足をついて、熊がのそりと。
大型の鹿が太く長い角を幹にぶつけながら威嚇する。
その奥から聞こえてくる狼のうなり。
頭上には様々な大きさの鳥が群となって、枝の上から地上を見下ろしていた。鋭い目と爪を持つ猛禽が静かに木々の間を飛び回っている。
本能のままに生きるはずの野生動物たちは、意志を持ったように三人を囲んだ。
「な、何なのこれ……」
異様な雰囲気にソラも呆けている場合ではないと、杖にすがって立ち上がる。
「お兄様、あちらには獣使いがいるようです」
「これだけの数を動かせるとなると、相手はかなりの大人数みたいだ」
背後に至るまで、完全に包囲されている。三人はあちこちを振り返りながら身構えた。やがて動物の息づかいをかき分け、その仕草を笑う声があった。
「ご期待に添えず残念だが、ハズレだ」
四方を警戒していたエースの目が一点に縫いつけられる。彼はその嘲笑を聞いて初めて相手の気配に気づいた。
「っ、誰だ!?」
「アンタが言うところの不埒者さ」




