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私がそれを望むから  作者: 未鳴 漣
第二章「悪の牙」
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6‐5 不気味な痕跡

 玄関広間とは別の、食堂と遊戯室の間にある細い階段から二階へ上がる。書斎は屋敷の表に面し、ちょうど応接室の真上にあった。


 部屋に入ってまず目を引いたのは、机から生えた楓の木である。それは天井をなめるように枝を広げ、枯れてやせ細り、葉は全て落ちていた。誰がこんないたずらをしたのか? よもやフラン本人ということはあるまい。使用人にしても、雇い主の持ち物を毀損することはしないだろう。であれば、可能性があるのは本件の張本人だった。


 壁は一面の本棚となっており、納められていた書籍は無作為に引き抜かれ床に散らばっていた。その下に食堂の壁にあったものと同型の剣が埋もれている。小さな裸足の足跡と手形、大人の靴跡も確認できた。


「もう回収しちまったが、ここには縦に引き裂かれた肖像画も落ちていた。村の祠祭が言うにはフラン博士の元嫁さんで、別れてからずいぶんたつって話だ。今は碩都にいる」


「警告などは?」


「都の屯所に文を出してあるから心配ねえよ」


 木が生えた机の上には真っ二つに割れた箱が無造作に投げ捨てられていた。中からは希少な魔鉱石がこぼれ出ている。それらを残していったのなら、やはり下手人の目的は物盗りではなく博士を痛めつけることだったと想像できる。


 セナは再び眼を使い、室内を見渡す。屋敷を覆っていた結界の痕跡が窓の外にうっすらと見て取れたが、彼が注目したのは机だった。


「やっぱり氷都のものとは違う、か」


「何だ?」


「この机のいたずらが魔法によるものなのは見て明らかですが、裏口など遺体があった場所に残っていたのと同じ痕跡があります」


「お前さん、魔力の痕跡が分かるのか。うちには鼻で嗅ぎ分ける奴がいるんだが、同じことを言ってたぜ」


「ええ。俺は目で見ることができます」


 痕跡が浮かび上がって見えたのは、先ほどの机と裂かれた肖像画、そして魔鉱石が納められていた箱である。


 箱を覆うものは屋敷全体にかかる結界と同様の型を示し、筋の薄まり具合から、事件当時に魔力の供給が絶たれたことを表していた。これらはフラン博士の魔力残滓だろう。セナは興味本意で、箱の切断面に突き刺さっていた半透明の白いいがを摘もうとして……できなかった。


「何だ? これ」


 あまりに輪郭がはっきりとしていたため、小さな毬状の物質がくっついているのかと思ったが、これもまた魔力の残りらしい。


 箱をじろじろと眺めるセナに、ロウが問う。


「その箱が気になるのか?」


「他と違って見える痕跡があるもんで」


「そいつには机のと違う人間のが残ってるらしいな」


「いえ、そうじゃなく。これまで見てきたどの痕跡とも違うって言うか……」


 セナは眼に映ったものを手控えにサッと書き付け、ロウとロカルシュに見せる。


 机に残っているのは通常の痕跡で、しなやかな光の筋に特定の模様が浮かび上がっている。箱の表面と屋敷全体を覆う痕跡も、平面的な筋に見えるのは同じである。


 しかし箱の断面に残っているのは平面の模様ではなく、立体で視認できる物質的な形だった。


「左が通常、俺が見る痕跡です。机にあったものを書き写しました。そして右が箱に残っていた痕跡です。白く濁った石か何かと思ったんですが……」


「普段のとえらく違うな」


「栗のトゲトゲみたいだぁ。不気味~」


「……不気味と言えば」


 セナの手帳から視線を外し、ロウが庭に目をやる。セナはその仕草にいち早く気づいて、手控えを閉じて壁の向こうを見透かした。


「一人だけ外の小屋で発見された人がいるんでしたね。遺体はどんな状態だったんです?」


「遺体の顔は叩き潰されて、体中刺し傷だらけだった」


 ロウは苦虫を噛み潰したような顔をして、頭を掻いた。


「何か引っかかる点でも?」


「口で言うより見た方が早いな。ついて来い」


 三人は書斎を出て、正面玄関から裏の庭へ回った。隅にひっそりと立つ小屋はこの屋敷と不釣り合いにみすぼらしく、所々で壁の板が剥げて今にも倒壊しそうだった。近づいていくと、死臭とは異なるにおいが漂ってきた。もうだいぶ薄まっているが、鼻をツンと突いて不快だった。


 ロウは小屋の中へは入らず、明かりをともした蓄光石を宙に浮かべ、入り口の外から建物へ放り込んで中を照らした。


 地面は湿り気を帯びた泥だった。雨の多いこの地方で床も敷かずに掘っ建てるとは、ぞんざいにもほどがある。


「ここに使用人が一人、倒れていた。さっきも言ったが、まあひどい有様だったよ」


「それで、不気味というのは?」


「奥を見てみろ」


 ロウが明かりを地面すれすれに、小屋の中央部へ持って行く。泥はあちこちで踏み荒らされていたが、二種類の足跡が判別できた。


 小さな裸足と、先のとがった大きな靴跡だ。


「子供と大人……男物の靴ですね。屋敷の廊下にも同じような足跡がありましたが、関連は?」


 ロウは答えなかった。


 小屋の中には底の抜けた桶やら柄杓やら、ほかにも役に立たないものが投げ出されていた。ゴミの捨て場所にでも使っていたのだろうか。干し草も放置され、すっかり平たくなっている。


「ん? あの干し草、何か白い糸みたいなものが絡みついてますけど」


「……人の髪の毛だ。白髪で、大人の腕より長い。それが奥の奥まで入り込んでがんじがらめだった」


「ただゴミを捨てに来るだけの人間の髪がそんな風に残っているはずはありませんね。つまり、その髪の持ち主がずいぶんと前からこの小屋に……いいや。ここで生活をしていたと?」


「こんな場所でぇ? 誰が~?」


「さし当たっての心当たりは、地面の足跡ですが?」


 この小屋に住み着いていた者がいたとして、こんな環境下でご丁寧に靴を履いていたとは思えない。


 となると、選択肢はひとつしかなくなる。


「……」


 セナは寒気を覚えながら、眼を使う。小屋の中は薄まった魔力の残滓で満たされており、これは書斎の机に残っていたものと同一である。また、ある一角にだけ例の毬状の痕跡が落ちていた。


「……ここにも書斎のものと同じ魔力の痕跡があります」


「ああ。うちのも同じ二種類をかぎ分けた」


 そこでようやく、ロウが足跡に言及する。


「この男物の靴跡だが、屋敷の人間と示し合わせて一致する物はなかった。小さい方は……そもそもこの屋敷に、子供はいないはずなんだ」


 その食い違いこそ、ロウが今までセナの疑問をはぐらかし続けてきた理由だった。


「とはいえ、ここに未知の人物が二人いたのは動かしようのない事実ですよ」


「足跡と魔力の痕跡とが同一人物という確証はどこにもねえが、現状を鑑みるに無関係とは考えられん。むしろ足跡の二人がこれら魔力の保有者と考えた方が自然だ。それは分かってるんだが……」


 ロウは渋面を作って眉間を強くつねる。


「ったく、こんなことをやらかしたのが子供かもしれねえなんて、冗談じゃないぜ。俺は馬鹿みたいに手足の小さい大人がいるんだと思いたいね」


 彼はもう洗いざらい吐き出したい気分だった。投げやりに残りの事実を早口で特務の二人に告げる。


「下手人は犯行後に浴室で体を洗ったようだ。血が排水溝に流れていた以外にも、泥と血のついた白髪の束が見つかった。この小屋と同じものと見ている」


「それならもう小屋にいた誰かが犯人で決まりじゃなーい? あんなところに押し込められてたなら、恨んでて当たり前っぽいけどー」


「はぁ……。だったら屋敷で飲み食いして寝てった形跡があるのは当てつけかね」


「何ですって?」


「風呂以外にも、飯を食って一晩寝た跡があるんだよ。厨房には使い終わった食器がきれいに洗って置いてあった。そして博士の寝室に例の白髪と、短い黒髪。フラン博士は赤毛だから、この黒髪こそが男物の靴を履いていた主なんだろうぜ」


 頭の中にあった推理を口から出して、その異常さに改めて吐き気がした。ロウは蓄光石をしまって足早に小屋から離れ、歩きながら煙草を取り出した。雨に濡れるのも構わす指先の火でその先端を燃やし、息を深く吸って鼻と口から煙を吐き出す。まともな空気が肺に満ちたことにより、彼は胃からせり上がってくる不快な感覚を何とか押しとどめることができた。

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