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私がそれを望むから  作者: 未鳴 漣
第一章「魔女になる覚悟」
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1-5 正体

 遠くで警鐘が鳴っている。


 それがソラの幻聴なのか、実際に響いているのかは分からなかった。


 エースが端正な顔を歪めて叫ぶ。


「あ、貴方は〈魔女〉だったのか!?」


「お兄様! いきなり何をなさるのですか!」


 後ろのジーノが兄をいさめようと引き止めるが、彼にはその声が聞こえていない。スランは悲鳴を上げそうになった口を手で覆い隠し、恐れを露わにしていた。


「な、に……? 何でエースさん、剣なんか抜いて……?」


 ソラは毛布を肩から落として一歩、二歩と下がった。足に権杖を引っかけて倒し、銀の杖が床を転がる乾いた音が反響する。


 エースは予想外の状況に取り乱していた。眉間に深いしわを刻んで眉尻を引き下げ、悲壮の目には涙さえ浮かびそうだった。口元は不安を耐えるように硬く、切っ先の軌跡がその心境を如実に語る。


 ソラは彼の振る舞いに反感を覚えて顔をしかめた。どうしてこうなってしまったのか。思考はかき乱され、問いへの答えはいっさい浮かばない。それなのに、ソラの理性は急速に冴えていった。


「お兄様! やめてください!!」


「だ、駄目だジーノ! この人が魔女なら、生かしては……!」


 頬の血が顎まで伝い、滴って、胸元へ落ちる。それはキャミソールと肌の隙間を流れてソラの体に刻まれた病の傷へと達し、ひきつれ窪んだ皮膚に溜まって赤い傷跡を描いた。錯覚にすぎないが、じわじわと体内を流れる命が失われていくのを感じた。


 手術時あのときは意識がなかったけれど、きっと同じように出血した。体を傷つけた刃物は、いま突きつけられている剣のように鋭く光ったに違いない。


 当たり前のことで、刃に裂かれた皮膚は血を流す。そして、血は傷を塞がねば止まらない。エースはまだ行動を起こす決心がつかず踏みとどまっているが、何かきっかけがあれば瞬く間に刃を薙いでソラの腹を切り裂くだろう。


 そうなればソラは死ぬしかない。


「……冗談じゃない」


 目の前の刃は自分を助けるものではなく、殺すもの。


 触れれば死ぬのは必至。


 最悪の結果を確信してしまうと、ソラの思考を鈍らせていた霞みが晴れ、意識が完全に覚醒した。


「何がどうなってるのか、まるで分からないけど……」


 ソラはみるみる内に声をはっきりさせ、下げたかかとで権杖を蹴った。杖は再びカランと転がり、音を追って彼女の目が自然と下を向く。


 床に映る影の輪郭がくっきりとして見えた。


 息づかいが耳に届き、肺の収縮さえも聞こえそうだった。


 心臓は己を空にする勢いで血液を送り出し、急速に上昇した体温が亡霊だったソラを生者たらしめる。


 この世界は幻などではなかった。


「冗談なんかじゃないんだ、これは」


 目の前の色彩が鮮やかに変わった。


 床に落ちた血の色は赤かった。


 脂汗が額に浮かび、口の中が苦くなって、ソラは奥歯を噛む。


 痛い。


 怖い。


 それ以上に腹立たしい。


 ソラは転がっていた権杖を拾って両手に構える。その目にあるのは怒りだった。彼女はエースに正面から立ち向かった。


「こんなところでわけも分からず殺されて死ぬなんてまっぴらだ」


「貴方は、何を言って……」


「それはこっちの台詞です」


 この期に及んでソラはようやく明瞭に言葉を話した。自身で何を言っているのか理解し、誰に語りかけているのか、その目に現実を捉えて口を開く。


「いきなり切りかかってくるとか、どういう了見?」


「しかし、貴方はよりによって魔女の、悪しき陰の魔力を持って……!」


「さっき言いましたよね。ええそう、言ったはずです。私は魔法のない世界からやってきたと。それなのに魔力がどうとかって、私が知るわけないじゃないですか。言いがかりもいいところだ」


 ソラはエースをまっすぐに見つめ、強い敵意を向ける。エースは恐怖に駆られ、剣を振り上げた。ソラも杖を握りしめて突き出す姿勢を取る。


「冷静になってくださいお兄様! ソラ様もです!!」


 そんな二人の間にジーノが立ちはだかった。


 睨み合う双方が動きを止めたのを見て、ジーノは兄に体を向ける。


「ソラ様は確かに……陰の魔力を持っていましたが、同時に光の魔力もお持ちでした。魔女であれば、それはありえないことです」


退いて、ジーノ」


「できません。退いたら、お兄様はソラ様に何をなさるか……!」


「それね。私も聞きたい」


 ジーノの背後でソラが冷徹に言い放つ。


「貴方は私を殺すんですか? 貴方ってそういうことができる人? ここはそれが許される世界?」


 刺々しい物言いに、エースは傷ついたような表情を浮かべた。ソラはそれが気にくわなかった。被害者みたいな顔の彼に腹が立ち、ソラはジーノの肩を掴んで押しのけた。


「キミ、退いて」


「お、お待ちくださいソラ様……! どうか落ち着いて!」


「私は十分に落ち着いてる。冷静だし、平静。だからできる。理由があるなら、何でも。彼が私を殺しにかかれば、その時はきっと」


 未だに惑うエースの切っ先とは反対に、ソラが握る杖はピタリと止まっていた。強固な意志でもって彼女は自分の怒りが正当なものと示し、己にはひとつの非もないと主張した。


 ソラは確固不抜として退く道を捨てた。


 無言のまま外野に立っていたスランは命さえも賭ける気概のソラに目眩がした。限界まで追いつめられた人間は小さな動機で凶行を犯すものだ。それを知らずにいた後悔を今も抱える彼は、過去を繰り返すまいとエースを諭した。


「エース、剣を収めなさい。ソラ様も杖を下ろしてください」


「……陰だの光りだの、魔女も聖人も何だか知りませんが、それは私が望んで得たものではない。勝手な誤解はやめてください。極めて不快です」


「ええ、分かっております。私は貴方が光と陰、両方の魔力を有すると認めます」


「……」


 そういう話ではないとソラは思ったが、口にしなかった。彼女は視線をエースからスランに移して、その真意を探る。老齢の男は心の奥に恐れを覚えながらも、それを抑えて自らを律していた。彼はソラの視線を真正面から捉え、ゆっくりと瞼を落として頷く。その硬い表情には公正たろうとする意志が見えた。


 ソラは徐々に殺気を納め、杖の先を床に落とした。


「私は何者でもない。ただの人間です」


「……っ」


 エースが何かを言いかけて、やめた。そんなはずはないとでも言いたかったのか。目をそらした彼にソラは語りかける。


「エースさん、私は貴方が怖い。そうやって剣を向ける貴方がとても恐ろしい。そして、その剣が襲いかかってくるなら貴方を滅多打ちにしても構わないと思っている自分も……、怖かった。だから私は、今から杖を床に置く」


 まずはソラが凶器を手放した。彼女は空になった両手をエースに見せつけ、行動を促す。


「次は貴方の番。どうするか選んで」


「お、俺は、……」


 エースの剣はいよいよ目的を失ってしまった。とっさの敵意は脆く崩れ去り、気持ちでは剣を鞘に戻そうとしているのだろう。しかし体が動かないらしく、惑って手を震わせている。


「エース。この剣はお前を守るものだが、人を傷つける凶器でもある。我を見失った状態で扱うものではないと、ケイも言っていたよね」


 スランがエースの手をやんわりと包み、腰の高さまで引き下ろした。


「こういうことは片方が勝手に決めるものではないだろう。見知らぬ土地でわけも分からないまま何かの役目を押しつけられたら、お前だって困ってしまうんじゃないかい? 先ほどソラ様を聖人と決め込んで喜んだ私に言えたことではないけれど」


「……はい」


「私も、正直なところソラ様をどう扱えばいいのか分からない。聖人なのか、魔女なのか。あるいは何者でもない只人なのか。それを見極めるにはもう少し時間がいる」


「……」


 エースは切っ先を床に向け、ゆっくりと鞘に収めた。その顔にあったのは、間違ったことをせず安堵したような表情だった。


 鍔が鞘に当たったのを見届けて、スランがソラを振り返る。


「ソラ様。貴方は災厄を繰り返す〈始まりの魔女〉と同じ、陰の魔力を持っている。一方で、聖人の証たる光の魔力も持ち合わせておいでだった。そこで今一度、確認したいのですが……貴方は魔法が使えないのですよね?」


「そうだと思いますよ、使い方とか分かりませんし。というか、使えた上で私が魔女ってやつなら、こんな面倒が起こる前に何かしら手を打ってます。惑わすでも、逃げるでも」


 呪文は知らないし、魔力をどうこうするイメージもできない。


「本当に……ここは私の生まれ育った世界じゃなくて、魔法が支配する未知の土地なんですね」


 都合のいい幻ならば、魔法くらい自ずと感覚で扱えそうなものだ。これまでに読んだ物語を模倣した逃避だと考えるなら、なおのことそうあるべきだった。不都合が妄想を覆すとは皮肉なものである。


 ソラは深く息を吸い、この世界の空気で肺を満たした。


 そして郷愁を吐き、へにゃりと気を抜いた。


「こうなったら私、出ていった方がいいですかね?」


「そんなことありません!」


「ですが、迷惑をかけてしまいそうですし」


 行く当てもないまま遠慮するソラにスランが首を振る。


「ジーノの言う通りです。さすがの私も、何の頼りもない女性を寒空の下に一人放り出すつもりはありません。ただ……」


「ただ?」


「魔法院には報告させていただきます。聖人……いえ、異界の方が現れた際には一報を入れるよう言われておりますので」


「決まりなのであれば、分かりました。そうしてください」


 一段落したところで、ソラは寒さがぶり返して身震いした。床に落ちていた毛布を拾って頭から被り、吹き上げてくる冷気に膝頭をこすりあわせる。


 すると突然、礼拝堂の扉が開いた。


 小雪が舞い散る中、一人の子供が息を切らして駆け込んでくる。


「エースお兄ちゃん、ジーノお姉ちゃん! 助けて!!」


「そんなに急いで、どうしたんだい? ユナ」


「鐘が鳴ってるのにどうしたじゃないよ祠祭様! 畑の端っこの結界が今朝の雪崩で切れちゃって、魔物が!!」


 魔物と聞いた途端、スランたちの顔色が変わる。


「強敵なのかい?」


「ちっちゃいのがたくさん! あと、山の大熊が冬眠できずに死んじゃったみたいで、大暴れで手が着けらんないの。だからみんながお姉ちゃんを呼んでこいって」


「ジーノ、エース。すぐに向かいなさい。ソラ様のことは私に任せて」


「分かりました、お父様。ユナ、案内してください」


「うん! こっち!」


 かなり急を要する事態らしく、ジーノはコートも着ないまま出ていった。エースはソラが気がかりでその場から動けずにいた。見かねたスランが言い聞かせる。


「エース、この方は大丈夫だ。お前や、ほかの誰かを傷つける人じゃない」


「……」


 それでも躊躇し、エースはソラに視線を送る。


 彼女の敵愾心はとっくに消え失せていた。先刻の凍てついた雰囲気は見る影もない。スランに言われたからではなく、エースは自分自身でソラの変化を感じ取った。


「行ってきます」


 頭をブンブンと振って猜疑を払い、エースはソラに背を向ける。妹と同様にコートを着る間も惜しく、彼は即座に堂を出て村人の救助に向かった。

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