5‐9 鈍感
ソラはジーノに体調不良を訴え、片づけの手伝いから外れた。彼女の精神に他人を気遣う余裕はもはや残っていなかった。幽霊のような人間が吐くおざなりな言葉では慰められる側も元気は出まい。
そんな言い訳をしながら、ソラは心配するジーノに手を振って半壊した家の陰に隠れた。落ちていた板切れを敷いて腰を下ろし、膝を抱える。腕の中に頭を沈め、ただ呼吸だけをしていた。冷めた息はかすかに白かった。
しばらく静かにしていると、肘を誰かにつつかれた。
「……祷り様、弟から話を聞きました。具合が悪いそうですが、俺で力になれますか?」
「アー、えっと……」
エースの救護を待っている者はまだあるだろうに、わざわざ時間と心を割いてくれた彼を突き放すことはできない。ソラは周囲を確認してベールを上げ、無理に笑った。
「足が、少し痛いかなって」
左の膝を指して言う。
エースはソラの顔色を観察した。言葉以外の不調を隠しているのではと探り、どうやらほかに懸念があるらしいことは察したが、それが何かまでは分からなかった。彼は己の未熟さを呪いながら、ひとまず声にしてくれた事柄に向き合う。
「診てみましょう。憲兵の天幕に寝台をひとつ借りてありますので、まずはそちらへ」
「へ?」
エースがベールを下げ、
「あっ、ぎゃ!?」
奇妙な悲鳴を上げるソラを抱き上げる。足を痛めた「患者」を歩かせる考えはエースになく、彼はソラを抱えて颯爽と天幕へ向かった。
赤毛の美形男子にいわゆるお姫様だっこで運ばれるなど、世の乙女であれば歓喜と戸惑いに赤面して頭から湯気が上るところだ。しかしソラは、「二十七にもなって一人で歩けないなんて」。恥ずかしいやら絶望するやら、加えて味わったことのない浮遊感に若干ひるんでいた。
村の広場に張られた救護用の天幕へ着き、エースがソラをベッドに下ろす。
「両方の裾を上げてもらえますか?」
「わ、分かりました……」
天幕は個室ではなく、周りに人の目がある。ソラは巡礼者の皮を被って楚々とした手つきでコートと靴を脱ぎ、ズボンの裾をするすると巻き上げた。問題の箇所は右膝に比べてやや膨らんでおり、うっすらと赤くなっていた。
「症状は痛みと腫れ。熱っぽさも変わらず続いてる感じですか?」
「おおむねそうです」
エースはひざまずいてソラの左足を自分の腿の上に乗せた。患部に何度か触れて、眉をひそめる。
「すみません。魔法施術士であれば内部の診察もできたのですが、俺には外から診ることしかできなくて」
「いつもどおり、湿布薬?」
「憲兵の中に施術士の方がいらっしゃるので、そちらに診てもらうという手もありますけど……」
「彼らは村の対応で手一杯でしょう。……今は湿布で十分です。貼れば楽になりますし、効果はちゃんとありますよ」
「……」
エースの目に自責が浮かぶ。肩掛け鞄の中から貼り薬を取り出し、指先の魔法で適当な大きさに切る。それを腫れがひどく見える箇所に貼り、エースは再びソラを見た。ベールの裾から覗く彼女の顔は明日も分からぬ逃亡生活のせいで疲れ、目元がすっかりやつれていた。エースはその目に左手を伸ばし、親指で優しく目尻を撫で、頬に残ってしまった無実の傷に触れる。
「キミ……」
「はい?」
「それは天然ですか」
「てんねん?」
「お分かりでない……」
ソラは冷え切った手でエースの腕を掴み、引き下ろした。
彼の行動は全てソラを心配してのことであって、他意はない。それは分かっている。けれど、こういうことはやめてほしいと思った。そんな風に優しく触れてもらえるほど、ソラは殊勝な人間ではないのだから。
「あの、ですね。今のは私だからよかったものの、他の方にこういうことをすると、誤解されてしまいますよ」
「誤解、ですか?」
「……鈍感」
「それは……よく師匠にも言われます。だから患者の容態はしつこいくらいに把握するようにと――」
「そうではなく」
エースの仕草は裏表のない親愛を表していたが、あのような触れ合いは本来、恋い慕う相手にするものだ。首を傾げる彼には、そこをはっきり言わないと伝わらないのだろう。ソラは柄にもなく頬を紅潮させ、目尻を撫でつつ言いにくそうに口を開いた。
「お兄さん。さっきみたいなのは、将来を誓うような相手だけにすべきです。と、私は思います」
「そ……う、でしたか。考えが及ばず、申し訳ありませんでした」
「いいえ。キミの心遣いはとても嬉しかったです。ありがとう」
「はい……」
エースは言葉少なく湿布薬を包帯で固定して、ズボンの裾を下ろした。足をベッドに上げてソラを横にし、
「少し休んでください」
「大丈夫ですよ、このくらい」
「いいえ」
エースは起きあがろうとするソラを元に戻して、布団を持ってくる。
「今だけでも、お休みください。寝て、起きたら……きっと今よりはマシになっていると思います」
「……そうですね」
寝て起きたら元気。
以前ジーノに言ったのと同じことを言うエースに親近感を覚え、ソラはつい彼の説得を受け入れてしまった。年下に心配をかける不甲斐ない自分を内心で叩きのめし、ソラは布団を頭まで被って瞼を落とした。
エースは彼女が寝たのを見届け、ジーノにあとを頼もうと立ち上がる。そこへちょうどよく本人が来てくれた。
「お兄様。祷り様をこちらへお運びになったと聞いたのですが、やはりどこか悪いところがおありでしたか?」
「疲れていたみたいでね、今お休みになったところだよ。俺はもう少し憲兵さんたちを手伝ってくるから、彼女を見ていてもらえるかな」
「分かりました」
エースはせわしなく天幕を出た。彼は地面に視線を落として頼りなく歩き、やがて立ち止まって己の左手を見つめた。ソラに触れたのは憔悴しきった様子が気になってのことだったが、
「あれは、駄目。もう二度と、しないように気をつけなきゃ……」
間違いを諭されたにしては切迫した口調で、エースは汚らわしい利き手を振り払った。




