5‐8 所詮は他人事
吸い続けるだけの空気が肺に充満し、胸が破れるかという時。
「なあ、祷り様よぉ」
一人の男が肩を掴み、乱暴にソラを振り向かせる。
「再臨の祈りなんて意味あんのか? 俺たちゃいったいどれだけ、こんな思いをして待てばいい?」
「……」
「おい、聞いてんのか!」
「申し訳ありま――」
「謝られたって困るんだよ! 俺はいつまで待てばいいのかって聞いてんだ!!」
力任せに肩を揺すられ、ソラの頭がぐらぐらとする。このまま脳味噌がかき混ぜられたら何も考えなくて済むかと思い、ソラは抵抗しなかった。それを見かねた他の村人が助けに入る。
「お前さん、祷り様に当たるんじゃないよ」
「分かってる! だがな、どうにも疑っちまうんだよ。本当に祈りは届いてるのかって!」
「そりゃそうなんだが……」
「さっさと聖人が降りてくれば、こんなこと……っ!!」
その言い様が胸に刺さる。
思い出してみれば、ソラには陰のほかに光の魔力もわずかながら備わっている。それは聖人の資質を裏付けるものであり、ソラは人々の希望にもなれるのだ。
自分はどちらなのか。
悪役転落は何としても避けたいが、救世主扱いもまっぴら御免。
この世界へ来た日の夜、ソラは軽い気持ちで役目を放棄した。しかし魔女の呪いによって人々が苦しむ光景を見てしまった今、知らんぷりはできない。自分が頑張れば誰かを救えるかもしれないのに、その道を選ばないのは見殺しにするのと同じだが、それでいいのか。
選ぶべき答えは決まっているのに、踏ん切りが着かずにソラは背中を丸めて小さくなった。
「……」
ソルテ村で、地の軸へと旅立った聖人は生きて戻ってくるかと聞いたとき、ジーノは黙った。それを踏まえて考える。もしもこの世界のために、この人たちのために世界を救って自分が死んだら?
きっと感謝される。
あの方が救ってくださった。ありがとう、ありがとう。そう言って喜んでくれるだろう。
だが、ソラは知っている。人間とは過去を忘れる生き物だ。人々の記憶は風化し、いつかソラの存在も献身も薄れてなかったことになる。
それを許せるのか? 自分が犠牲になって救われた世界で、そこに住まう人々が自分を忘れて生きることを許せるか。
考えるまでもない。
生命を保証されない危険に挑んだ報酬が忘却だなんて許せない。そんな死に方をするためにこれまで生きてきたのではない。誰の心にも残らなくてもいいと願ったこともあったが、それは自分で思い描いた理想の死を迎えてこその話だ。望まず、強要された最期に滅私を捧げるなどできようものか。
思考に苦痛がつきまとってソラの顔がゆがむ。
祷り様を責めた男が無念を漏らした。
「チクショウ。この繰り返しを断つ術はねえのか?」
「繰り、返し……?」
はたとソラは目を見開いた。意識を内観から現実に戻し、男たちの会話を聞く。
「魔法院のお偉方は何をやってやがるんだ」
「やっこさんらは城にこもりきりさ。こっちの苦労なんて知らないんだろう」
「クソが!」
「嘆願書でも書いたらどうだい。現状を整理する手助けにもなるし、声を上げないことには不満も伝わらん。そうだ、国王陛下に差し出そうじゃないか。きっと魔法院よりは聞く耳を持っているぞ」
「……、ああとも。そうしよう」
助け船を出してくれた一人が男の背を押して離れていく。途中で振り返ったその人にソラは小さく頭を下げ、前を向いたときには心が決まっていた。
ソラは重要な事実を見落としていたのだ。この世は繰り返し魔女の呪詛で覆われる運命にあるとスランも言っていた。魔物の活性化や天変地異といった「災厄」は何度もこの世界に訪れている。そのたびに聖人が人々を窮地から救うのがお定まりで、この世界は何度も同じことをやり直してきた。
詰まるところ、命を賭けても一時しのぎにしかならない。
「……そっちも他人事なんじゃん」
「祷り様? どうかしたの?」
「ごめん。ちょっと……」
結論に至ったソラの頭からは荒れ狂う怒りの波が消え、代わりに静かな凪が訪れた。子供たちの問いに答えず、一人ふらふらと村の外れへ歩いていく。人気のない場所まで来て、彼女はベールに透かして朧月を見上げた。
この世界の人間が異世界人の犠牲を何とも思っていないように、知らない世界の命運などソラが関知することではなかった。勝手に押しつけられた役目に従う義理はどこにもない。
「無駄に消費されてたまるか」
今は逃げて生き残ることこそが自分にとっての一大事だった。
不思議とミュアーの姿が脳裏を横切った。進みたい道の先で少女が手をさしのべて待っている。ソラは結局、彼女に背を向けてしまった。
前に進めなくなったソラは元の世界へ戻る道を諦めることにした。役目を果たさない彼女はこの世界を見捨てたも同然だ。世界をひとつ見放すのなら、自分の大切だったそれも手放すことで等価となる。
いっそ、家族の記憶も忘れたままでいい。本当なら思い出した上で苦しみながら自分の世界を捨ててこそ、己の非道と釣り合うのかもしれない。だが、望んで苦行に身を投げ出すほどソラは人間ができていなかった。
――私はこの世界の人間として生きるのが正しい。
答えを出したソラの顔に、およそ感情と呼べるものはなかった。




